三十六話 阻止できなかった『目覚め』
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一颯の手は届かなかった……。
「待って利子ッ、ソレから離れてぇぇぇッ!」
そう叫んだが一歩及ばず。
机からデスクライトを手にしていた利子は、動かぬコウモリ顔のトニトゥルスへと振り下ろした。
濡れた雑巾を叩きつけたような音を出し、トニトゥルスは床に倒れた。
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◇
若狭佳菜恵と九条利子との再会を喜んだ後。
一颯たちは佳菜恵の説得もあり、高崎の言う特殊部隊と合流することにした。
勿論、高崎がトニトゥルスのサンプルを回収する任務を受け負っていたこと、その過程でトニトゥルスを解放してしまったこと。
高崎自身が語ったものではない事もあるが、その反応から知り得た事も含めすべてを佳菜恵に話した。
佳菜恵は信じられないという表情をしたり、高崎に非難の眼差しを送ったりしたが、高崎は無言を貫いた。
彼は信用できないとしながらも、佳菜恵は特殊部隊との合流を奨めてきた。その人達を説得すれば、まだ生きている人達を救助してもらえるかもしれない。
心臓の悪い和幸が心配だったのもあるのだろうが、『自分たちだけで他の生徒を探しだし、救助するのは難しい』と、合流を渋る一颯たちを説き伏せたのだった。
薄暗さにも目が慣れてきた一颯たち。
迷路のようになっている通路を進むと、扉が開きっぱなしになっている部屋を見つける。
今まで通り過ぎてきた部屋は扉がロックされていただけに、扉が開いているというだけで警戒してしまう。
「なんなの、この部屋……」
室内を覗き込み、室内へ入った佳菜恵につられて一颯たちも入室した。
トニトゥルスの研究をしていた部屋なのだろうが、機材などは残ってはいない。
奥には割れた強化ガラスに覆われた部屋があり、その中央にはボロボロになった檻がある。
どんな動物をトニトゥルスにしてどんな実験をしていたのか……考えたくもなかった。
それよりも一颯たちの目を引いたのは、机の横でうつ伏せに倒れている中森という船長だった。
歪んだ顔に、大きく見開かれた目。
その体は喰い散らかされ、内臓が至る所に飛び散っている。
想像を絶する最後を迎えたのだろう。両手を前に突き出すその姿は、今にも動き出しそうである。
腹を裂かれ、内臓を喰われながらも必死で逃げようとしたのだろうが、トニトゥルスに奥へと引き摺られたようで、床には血の帯が描かれている。
目を覆いたくなるその姿。
悲鳴をあげることすら出来ない一颯たちは恐怖で身を固くした。
誰もがこんな部屋から早く出ようとした時、扉の隅にいたソレ――トニトゥルスがいることに気付く。
コウモリのような顔をしたトニトゥルスは、犬が〝お座り〟をしているかのようにジッとその場に座していた。
その目は閉じられており、体は粘膜に覆われている。頭から生えた触角だけが、魚が掛かるのを待つ釣糸のように粘膜の外へと出ていた。
一颯はその姿を見て何かを思い出しそうになったが、それが何なのかを思い出せない……。
ただ、直登が言っていたヨダレの正体はこの粘膜なのだとわかった。
病院の備品庫で襲われた時、ベトベトしたヨダレが気持ち悪かったと言っていたのだ。
微動だにしないこの『コウモリ顔』のトニトゥルスは、眠っているようにも死んでいるようにも見える。
「あそこからコウモリが入ってきたのか……」
高崎が呟いた。視線の先には天井が崩れて出来た穴があった。
この施設は空気の循環を行う為に島のあちこちに通気口がある。その通気ダクトからコウモリが侵入したらしい。
人がいなくなった研究施設。
暗く静かなこの場所は良い棲みかだと思ったのかもしれない。
これでトニトゥルスがコウモリに似た姿をしているのかが理解できた。
研究施設に入ってきたメスのコウモリが、この部屋に残っていたトニトゥルスの卵を食べてしまったのだろう。
和幸の祖父、高内吉政の愛犬「ハナ子」が卵を食べてしまった事で犬に似たトニトゥルスが産まれたのように、コウモリに似たトニトゥルスが誕生してしまったようだ。
貴音たちは中森の壮絶な死体に衝撃を受けている。
だから高崎の小さな舌打ちは、隣にいた一颯だけに届いていた。が、一颯は聞こえなかったふりをした。
その舌打ちに禍々しい悪寒を感じたのだ。
「し、死んでるの?」
貴音の口から、誰に聞いたわけでもない疑問が漏れた。
微動だにしないトニトゥルス。
襲う気があるのならば、とっくに襲われていてもおかしくない。
「う、動かないなら、今のうちにここを離れた方がいいんじゃないかな……」
和幸の言葉に皆が頷くなか、利子だけが目をぎらつかせてトニトゥルスを睨んでいる。
トニトゥルスを見た途端に佳菜恵の後ろに隠れた利子だったのだが、
「まだ生きてるかもしれないんでしょ!? 今のうちにトドメを刺しておけばいいじゃない!」
机の上にあったハサミを手にしてトニトゥルスへ近づく。
そんな利子を一颯たちが止めた。
「九条さん落ち着いて。下手に刺激を与えたくないんだ! まだ生きてるなら動き出すかもしれないんだよ?」
和幸の説得も、興奮してきた利子には通じない。
「だったらなおさらじゃない! 目が覚めれば後ろから襲われるかもしれないんだから、今のうちに殺しておけばいいのよッ!」
自分の指を喰いちぎった憎い相手――トニトゥルス。
今は恐怖より怒りが勝っている。
ハサミを振り回す利子の左手を佳菜恵が止めた。そして――乾いた音が響いた。
「か、佳菜恵ちゃん?」
頬を押さえた利子が、信じられないという目で佳菜恵を見ている。
「九条さん……。こんなモノを振り回したら危ないでしょ?」
佳菜恵の口調は優しかった。
ハサミを取られた利子は、わなわなと震えながら右手を抱いた。
「でもアイツが私の手を……、私の指を……わああああっ!」
一颯は泣き崩れる利子を抱き止めた。
佳菜恵は右手を握ってうつむく。
一颯の視界には、佳菜恵の哀しそうな顔も入っていた。
利子に手をあげてしまったという心の痛みが伝わってくるようだ。
一颯が知る限り、佳菜恵が生徒に手をあげたことはない。
学園では多くの生徒から姉のように慕われている佳菜恵もまた、普段は友人のように生徒と接している。
時には教師として厳しい言葉を使う時もあるが、それでも手をあげたことは一度だってなかったのだ。
利子が泣いている間も、トニトゥルスに動きはなかった。
これだけ間近で騒いでいるにもかかわらず、このトニトゥルスは沈黙を保ったまま……。
それが不気味ではあるものの、もしかしたら本当に死んでいるのかもしれない。
だが一颯の不安は増すばかりだった。
トニトゥルスの姿を見た時に思い出しそうになった何か……。それが気になって仕方がなかった。
「あの、そろそろ行き行きませんか? いつまでもここにいるというのも……」
遠慮がちな高崎の声。
利子はまだ落ち着いてはいない。しかし動かないとはいえ、いつまでもトニトゥルスを目の前にしているのも気味が悪い。
一颯は、貴音と一緒に利子を支えて立ち上がった。
そして高崎を先頭に部屋を出ようとした時、利子が強引に一颯たちの手を振りほどいた。
「やっぱり許せないッ! こんなバケモノ、私が殺してやるッ!」
机からデスクライトを手にした利子はトニトゥルスへと振り上げた。
それは目の錯覚だったのか。
一颯は、風もないのにトニトゥルスの触角が揺れたような気がした。
その瞬間、以前にテレビで見た生物の姿と、粘膜に覆われたトニトゥルスの姿が重なった。
乾燥地帯では自分の体を粘膜で覆い、雨期が来るまで乾燥から身を守る生物がいるらしい。
トニトゥルスもそうではないのか?
粘膜で自分を覆い、生命維持を優先させた仮死状態となって獲物が来るまで時を過ごす。
触角というセンサーが獲物を察知した時、捕食のために眠りから目覚めるのではないか?
中森がここに来た時に他のトニトゥルスは目を覚ましたが、たまたまこのトニトゥルスだけが寝坊をしたように目を覚まさなかっただけではないのか?
そう推理した一颯は利子へ叫ぶ。
「待って利子ッ ソレから離れてぇぇぇッ!」
止めようとしたその手は……利子に届かなかった。
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◇
無抵抗のままライトで叩かれ、床に転がった『コウモリ顔』のトニトゥルス。
利子はさらに追い打ちをかけようとするが、後ろから一颯に引き止められた。
「離してよ一颯ッ! こんなバケモノ今のうちに……」
ブンッ
後ろに引かれた利子の顔前を風が切った。
「ひ、ひぃぃぃぃッ!」
利子の顔が引き攣る。
目を覚ましたトニトゥルスが、低い唸り声を出しながら起き上がる。
長い尻尾を蛇のようにうねらせて、尻餅をついた利子へ牙を光らせた。
「逃げるよ利子ッ、さあ立ってッ!」
引き起こそうとした一颯の足に、トニトゥルスの尻尾が絡みつく。
「か、一颯ぁぁぁッ!」
転倒した一颯へ駆けようとした貴音を、佳菜恵が押し止めた。
尻尾を解こうともがく一颯に、トニトゥルスの手が掛かろうとした時、
「私の生徒から離れなさいッ!」
佳菜恵がその顔に痴漢撃退用のスプレーを吹きかけた。
キイィィィィッ!!!
思いもよらぬ刺激に、トニトゥルスが悲鳴を上げる。
力が弛んだ隙に、一颯は尻尾を解いて立ち上がった。
「先生っ、あ、ありがとうございますっ!」
「お礼なんていいから、早く逃げるわよ!」
佳菜恵は一颯の手を引いた。
一同は部屋を飛び出して暗く狭い通路を走る。
その後を、怒りに狂ったトニトゥルスが追ってきた――。
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