前編
真実の愛。
真実の愛のためなら、すべてが許される。
かつて、陛下は私にそうおっしゃいましたね。
でも、今になって思えば、その言葉を口にしていたのは陛下だけではありませんでした。
私が後宮に入れられてからというもの、教育係の者たちは、ずっと同じことを言い聞かせてきたのです。
……覚えていらっしゃいますか?
まさか、もうお忘れになったのではありませんよね?
何しろ、かつて陛下が「真実の愛」と呼んでいらしたイングリッド様は、今ではもう、陛下のおそばにはいらっしゃいませんものね。
本当に残念なことです。
私はあんなにも長い時間を費やし、あんなにも心を砕き、あんなにも苦しい思いをしたというのに。
すべては、陛下とあの方の恋を成就させるためだったのですよ。
皇室から孤児院へ迎えの者が来たとき、私のために神殿を用意してあると、確かにそう言っていたのです。
これでようやく「聖盾の聖女」としての務めを果たせるのだ、と。
孤児院のみんなが見送ってくれた日のことは、今でもはっきり覚えています。
院長先生は、私のために貝殻で作られた髪飾りを買ってくださいました。
当時の孤児院にとっては、それはもう、とても贅沢な贈り物だったのですよ。
ほら、ご覧ください。
今も私が髪に挿しているのは、これです。
可愛らしいでしょう?
キャサリンも、私によく似合うと言ってくれるんです。
子供たちは私を囲んで泣いていました。
これからきっと寂しくなる、私がいなくなったら悲しい、と。
シスターたちはそんな子供たちを慰めながら、私は神殿へ修行に行くのだと、いつか本当の聖女になるのだから、喜んで送り出してあげましょうと諭していました。
本当なら、喜ばしいことだったはずなのです。
けれど、皇宮に入った私を、神殿へ連れていってくれる人は誰もいませんでした。
与えられたのは、後宮の一室と、側妃という身分。
ただ、それだけ。
……私、あの頃はまだ十四歳だったんですよ。
私の部屋には、イングリッド様の執務室へ通じる秘密の通路がありました。
本来は、陛下とあの方が人目を忍んでお会いになるために設けられたものだったのでしょう。
けれど陛下は、幾夜も、その通路をお通りになりませんでした。
私の部屋に、そのままお泊まりになったのです。
陛下は私を夜会へ連れ出し、帝国で最も美しい女だと、皆に自慢して回られました。
そして、私を「帝国の薔薇」とお呼びになったのです。
それ以来、人々は私を「薔薇」と呼ぶようになりました。
もう誰も、私を聖女とは呼ばなくなりました。
それどころか、私の名前を口にする人さえ、いなくなってしまったのです。
初めのうちは、孤児院の院長先生やシスターたちも、何度か私に会わせてほしいと申し出てくれました。
きっと、何が起きたのか察していたのでしょう。
けれど、私は会いませんでした。
どんな立場で、あの人たちに会えばいいのかわからなかったのです。
だって、あの頃の私はもう、あの人たちが神殿へと送り出してくれた聖女ではなくなっていたのですから。
最初のうちは、私も泣きました。
逃げ出そうとしたことだってありました。
ところが、私を教育していた者たちは、突然、言うことを変えたのです。
最初は、陛下とイングリッド様の隠れ蓑になればいいと言っていたのに。
聖女であり、陛下の寵妃でもある私が、お二人の「真実の愛」をお守りする。
それだけが私の役目なのだと、そう教えていたくせに。
いつの間にか、帝国の臣民として皇帝陛下のご寵愛を賜れることは、この上ない栄誉なのだと言い始めたのです。
それもすべて、私が聖女だからなのだそうです。
聖女は、人々に愛をもたらすべき存在。
聖女は、愛を守るべき存在。
聖女は、「真実の愛」を大切にすべき存在。
……だから私も、陛下の愛のために、すべてを受け入れなければならない。
そういうことだったのでしょう?
あら。
思い出していただけたようですね。
うふふ。
私がお話ししているときは、もう少し反応してくださったほうがよろしいですよ。
でないと、誰かに見られたとき、私が寝台の上のお人形に向かって、一人でおしゃべりしていると思われてしまいますもの。
そんなの、あまりにも間抜けではありませんか。
陛下だって、私が馬鹿みたいに見えるのはお嫌でしょう?
それに、私がこうして退屈しのぎにここへ来なければならなくなったのも、元はといえば陛下のせいなのですよ。
陛下がまだ玉座にいらした頃は、執務室や議会よりも、ずいぶん後宮のほうがお好きだったようですものね。
イングリッド様もそうでした。
あの方の功績については、教師たちから教わりましたよ。
偉大で、知恵にあふれた女性。
石鹸に、紙に、鉛筆……それから、ポテトチップスやすき焼き、お鍋まで。
どれも、あの方が帝国にもたらした新しいものなのだそうですね。
その功績が認められ、ヴァール帝国で初めての女性官僚になられたのでしょう?
本当に素晴らしいことです。
あのまま発明に打ち込んでいらっしゃれば、今頃、帝国はまったく違う国になっていたかもしれませんね。
残念ながら、陛下の「真実の愛」になってからは、そうした研究に心を向ける余裕もなくなってしまったようですけれど。
あの方の心は嫉妬と怒りでいっぱいになり、陛下のおそばにいる女性たちを排除することばかり考えるようになってしまいました。
最初の皇后陛下も、そうして亡くなられたのでしょう?
後宮で繰り広げられたあれこれを除けば、陛下とイングリッド様が何かよいことをなさったという話は、どうにも思い出せません。
そこまで愛し合っていらしたのなら、どうして素直にイングリッド様を皇后になさらなかったのですか?
陛下には、それほど大きなお力があったのに。
イングリッド様だって、皇后になったからといって、研究を続けられなくなるわけではなかったでしょう。
それができないのなら、せめて自由にして差し上げればよかったのです。
そうすれば、あの方ももっとふさわしい恋人に出会い、あの素晴らしい発明を続けられたかもしれません。
選べる道は、あんなにもたくさんあったというのに。
わざわざ一番面倒な方法を選んで、あれほど大勢の人を不幸にしてしまうなんて。
本当に愚かなことです。
陛下が在位中に、きちんとお仕事を片づけてくださっていれば、キャサリンだって今頃、こんなに忙しくせずに済んだでしょうに。
もう皇太后殿下でいらっしゃるのですよ。
それなのに、わざわざアッシュ王国まで足を運んで、あの面倒な引き継ぎを取り仕切らなければならないなんて。
おかげで、私は一人でお留守番です。
もう、本当に。
今日は一緒に、新しく開発された染色技術を見に行こうと約束してくれていたのに。
あの綺麗な桃色の布で、仕立て屋に夜会用のドレスを作らせてくれるとも言っていたんですよ。
でも、出来上がったドレスがキャサリンの気に入るものでなかったら、
そんなドレスを着たところで、何の意味があるのでしょう?
だからこうして、退屈しのぎに陛下のお話し相手になりに来たのです。
もう少し反応していただけませんか?
でないと、あまり面白くありませんもの。
ああ。
そういえば、陛下はまだご存じないのでしょう?
アッシュ王国の王家では、最近、王子と王女の結婚相手を探していたそうですよ。
王子のお相手には、陛下の弟君のご令嬢を。
そして王女は、イングリッド様のご実家である公爵家のご長男に嫁ぐつもりだったそうです。
本当にお気の毒。
どうやら、少しばかり情報が遅かったようですね。
その二つの家は今、テレサ女皇陛下の打倒を企てた疑いで、調査を受けている最中なのです。
結婚相手として目をつけられていたお二人も、すでに反逆の容疑で拘束されています。
……お怒りですか?
テレサは陛下の長女ですものね。
まさか、女だからというだけで、帝位を継ぐ資格がないとお考えなのですか?
だから、ほかの男性のご親族を皇帝にして、テレサをその皇后にしようとでも?
陛下の弟君のご子息でも、イングリッド様の甥御さんでも……。
男でさえあれば、陛下の娘よりも玉座にふさわしい。
そういうことなのでしょうか?
それとも……どこかに、何か隠していらっしゃるのかしら?
ふふっ。
今の目つき、ちゃんと見ていましたよ。
まあ、怖い。
まるで人でも殺しそうな目をなさって。
……ああ、わかりました。
テレサのために怒っていらっしゃるのですね?
そうですよね。
陛下の甥御さんだろうと、イングリッド様のご一族の若者だろうと、どこの馬の骨とも知れない雑草だろうと、実の娘にはかないませんものね。
やっぱり、陛下はテレサの即位を支持してくださっているのですね。
何しろ、かつてイングリッド様が帝国初の女性官僚になることを後押しなさったのも、陛下ですもの。
そして次女のダイナ王女殿下も、アッシュ王国の完全制圧が済めば、あの国の新しい女王になられます。
そうでしょう、陛下?
あら。
陛下も賛成してくださるのなら、何よりです。
でも、そこまで興奮なさらなくてもよろしいでしょうに。
毛布まで床に放り投げてしまわれるなんて。
少し肌寒い季節なので、毛布は大切ですよ。
困りましたねえ。
あいにく、今日は白い手袋をはめているんです。
繊細なレースまであしらわれているんですよ。
毛布を拾おうとして汚してしまったら、困ります。
侍従たちなら……。
あの人たちも普段からお仕事でお疲れでしょうから、先に休ませてあげました。
ご自分で拾えますか?
……あらあら。
本当に騒がしいこと。
今度は、水の入ったグラスまで投げつけてくるなんて。
私が「聖盾の聖女」だということを、お忘れですか?
たとえ当たったところで、そんなもので私が傷つくはずもありませんのに。
ああ、グラスが割れてしまいました。
これは困りましたね。
ガラスの破片というのは、絨毯の毛足の間に入り込みやすいものなんですよ。
裸足で踏んでしまったら、怪我をしてしまいます。
ひょっとしたら、たくさん血が出るかもしれませんね。
そして、このお部屋で、靴を履くことのできない方は……。
どうやら、陛下お一人だけのようですね。
前皇帝陛下。
しかも、先ほど自分で毛布を床に投げてしまったでしょう?
寒い思いをしたくなければ、ご自分で寝台から降りて、拾わなければなりませんね。
どうぞ、ごゆっくり。
私のことはお気になさらず。
ああ、そうそう。
絨毯にあまりたくさん血がついてしまうと、侍従たちが洗うために運び出さなければならなくなります。
ですから、どうかお気をつけくださいね。
さて、その間、何をお話ししましょうか。
最近、イングリッド様が何をおっしゃっていたか、お聞きになりたいですか?
それとも、今のアッシュ王国がどうなっているのか、お知りになりたいでしょうか?
……あら。
私ったら、すっかり忘れていました。
陛下の舌の傷は、まだ治っていないのでしたね。
指もそうでした。
以前のお怪我も、まだペンを握れるほどには回復していないようですし。
困りましたねえ。
お話しすることも、文字を書くこともできないなんて……。
それでは、私が代わりに決めて差し上げましょう。




