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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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第29話:父の理性と葛藤

三〇一号室の玄関のドアが、背後でカチャリと静かに閉まった。


その瞬間、佐伯航平の全身を包み込んだのは、初夏の夜気が運んできた冷ややかな静寂と、腕の中に抱きしめた愛娘の、ずっしりとした確かな重みだった。


文乃が「夜風で冷えないように」と包んでくれた、厚手の生成りのウールブランケット。


その柔らかな毛布越しに、すずの小さな身体の体温が、航平の胸板へとじんわりと伝わってくる。


すずは文乃の大きすぎるミントグリーンのパジャマに包まれ、航平の首筋に小さな額を預けたまま、すやすやと微かな寝息を立てていた。小さな両手は、今夜文乃の部屋へ持ち込んだトトロのぬいぐるみを、眠りの中でも決して離すまいと力いっぱいに抱きしめている。


わずか三歩。


三〇一号室から、自室である三〇二号室へ。


歩幅にして数歩に過ぎないその短い共用廊下の距離が、今夜の航平の足元には、まるで途方もない深淵の上に架けられた細い一本橋のように感じられた。


ポケットから鍵を取り出し、鍵穴へと差し込む。


先週の水曜日のように手元が震えて鍵を落とすことはなかった。文乃が作ってくれたあの生姜仕立ての熱い鍋焼きうどんが、最後の一滴まで身体の芯を温め、末梢の血管の隅々にまで確かな血流を巡らせてくれていたからだ。


けれど、その身体の内側に満ちている温もりこそが、今の航平にとっては、何よりも重たく、鋭い刃となって胸の真ん中を刺し貫いていた。


ガチャリ。


鍵を開け、ドアノブを押し下げて自室へと滑り込む。


玄関の明かりは点けなかった。


外から差し込む非常階段の薄明かりだけを頼りに、航平は靴を脱ぎ、忍び足で廊下を進んで奥の寝室へと向かった。


カチリ、と小さなフットライトだけを灯す。


ベッドのシーツの上に、抱き上げていたすずを、壊れやすいガラス細工を扱うかのような慎重さでそっと横たえた。


文乃のウールブランケットを胸元まで掛け直し、その上からさらに自分たちの羽毛布団を重ねてやる。


すずは布団の温もりに触れると、ふにゃりと小さな口元を緩め、枕に頬を擦り寄せるようにして、さらに深い眠りの底へと沈んでいった。


「…………」


航平はベッドサイドに膝をつき、娘の寝顔をじっと見つめた。


泣き腫らして真っ赤になっていたはずの瞼は、もう綺麗に落ち着いていた。


お風呂に入れてもらい、髪を丁寧に乾かしてもらい、そして――頬のあたりから、ふわりと漂ってくる微かな香り。


それは、文乃が使っている、オーガニックのベビーローションの香りだった。


微かなベルガモットとオレンジの花の、甘酸っぱく、どこまでも清らかな柑橘の匂い。


他人の独身女性の生活の匂いが、自分の娘の皮膚の上に、こんなにも無防備に、自然に染み付いている。


その香りを嗅いだ瞬間、航平の喉の奥が、ぎゅっと激痛を伴って締め付けられた。


すずの額に触れる。


熱はない。平熱の、心地よい温もり。


あおぞら保育園の最終リミットであった午後八時を過ぎて、暗闇の中に一人取り残されることもなく、冷たい床で震えることもなく、この子は今、安全な布団の中で、完璧な守りの中で眠っている。


無事だった。


愛する娘は、何ひとつ傷つくことなく、今夜を生き延びることができた。


父親として、これ以上の安堵はないはずだった。


けれど――。


立ち上がり、寝室のドアを細く閉めてリビングへと戻った瞬間、航平の膝から、突如としてすべての力が抜け落ちた。


ドサリ。


暗いリビングの中央、三人掛けのファブリックソファの上に、航平は崩れ落ちるように倒れ込んだ。


明かりは一切点けなかった。


暗闇の中、遮光カーテンの隙間から漏れ入る都会の微かな夜景の残光だけが、脱ぎ散らかされたままのビジネスバッグや、昨夜の洗濯物が畳まれずに放置された物干しスタンドを、青白くぼんやりと浮かび上がらせている。


冷え切った自室の空気。


ほんの五分前までいた、あの三〇一号室の、間接照明の琥珀色の光と、土鍋から立ち上っていた出汁の湯気、そして部屋中に満ちていたあの温かな空気とは、まるで別世界のような、寒々しい静寂。


航平は両手で顔を覆い、深く、長く、呪詛のような息を吐き出した。


「……何やってるんだ、俺は」


暗闇に落とされたその呟きは、掠れ、震え、激しい自己嫌悪に満ちていた。


脳裏に、先ほどまでの光景が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇る。


――土鍋の蓋を開けた瞬間、立ち上ったあの生姜と鰹節の香り。


――一口啜った瞬間に、張り詰めていた糸が千切れ、大の大人が、人目も憚らずに声を上げて泣きじゃくった、あの無様な自分の姿。


――そして、背中に添えられた、文乃の温かい手のひら。


『佐伯さんが、一生懸命だからです』


『佐伯さんが倒れそうになったら、私がご飯を作って支えます』


あんなに優しく、あんなに慈愛に満ちた言葉をかけられて。


自分は、子供のように泣きながら、その温もりに縋り付いてしまったのだ。


「情けない……っ。みっともないにも、ほどがあるだろ……っ!」


航平はソファの背もたれに頭を打ち付けるように預け、奥歯をギリリと噛み締めた。


二十九歳の、一児の父親である大人の男が。


年下の、何の義理も血縁もない独身の女性の前で、取り乱し、涙を流し、慰められ、背中を撫でられた。


それだけではない。


自分の仕事のミスでもないとはいえ、職場のトラブルを言い訳にして、娘の保育園の緊急引き取りという、あまりにも重たい責任を、彼女の肩に一方的に押し付けたのだ。


もし、文乃が途中で事故に遭っていたら?


もし、園からの引き渡しで何らかの法的なトラブルに巻き込まれていたら?


もし、文乃に今夜、大切な私用や、恋人との約束があったとしたら?


自分はそんなことなど一切想像する余裕もなく、ただ自分の会社と、自分の娘を守りたい一心で、電話口で悲鳴を上げ、彼女の善意にすがりついたのだ。


それは、親友の神谷陸がかつてオフィスで激昂して叩きつけてきた、あの言葉そのものだった。


『独身の若い女性の時間と労力をタダで恵んでもらって、甘えきってるだけだ』


『それは善意の搾取だ』


――そうだ。


搾取以外の、何物でもない。


航平は自分の胸元を、ワイシャツの布地ごと力いっぱいに握りしめた。


爪が皮膚に食い込み、鋭い痛みが走る。


等価交換?


お互い様の助け合い?


笑わせるな、と航平の理性は自嘲した。


電球の交換をしたから何だというのだ。換気扇の油汚れを落としたから、Wi-Fiのルーターを設定したから、それで帳消しになるとでも思っていたのか。


そんなものは、男の手があればほんの数十分で終わる、ただの作業に過ぎない。


それに対して、文乃が差し出してくれているものはどうだ。


偏食のすずのために、野菜をすりおろし、出汁を何時間もかけて引き、魚の骨を一本ずつピンセットで抜き、破れたバッグをミシンで縫い直してくれた。


そして今夜は、走って保育園へ迎えに行き、見知らぬ子どもを風呂に入れ、ご飯を食べさせ、深夜まで帰りを待ち、泣き崩れた自分に温かい土鍋を差し出してくれたのだ。


それらは、金銭やちょっとした力仕事で清算できるような「労働」ではない。


彼女自身の、かけがえのない人生の時間そのものだ。


彼女の若さであり、彼女のプライベートな時間であり、彼女の尊い優しさそのものを、自分たち親子は、底なし沼のように貪り食っていたのだ。


「瀬戸さんには……文乃さんには、文乃さんの人生があるんだ」


航平は暗闇の中、天井を見つめて呟いた。


瀬戸文乃、二十八歳。


食品メーカーで几帳面に働き、休日に丁寧に出汁を取り、誰に対しても分け隔てなく穏やかな笑みを向けられる、美しく、聡明で、芯の強い女性。


彼女には、輝かしい未来があるはずなのだ。


これから先、同世代の誠実な男性と出会い、何の後ろめたさもない、対等で純粋な恋愛をして、周囲から心からの祝福を受けて結婚し、自分自身のあたたかい家庭を築いていくべき人なのだ。


それなのに。


一度結婚に失敗し、妻に逃げられ、四歳の偏食の娘を抱え、深夜まで仕事に追われて生活を破綻させかけているような、擦り切れたシングルファザーが。


その隣に住んでいるというだけの偶然を奇貨として、彼女の人生の貴重な時間を、土足で踏み荒らしていいはずがない。


もし、このまま甘え続ければどうなる?


文乃の優しさに寄りかかり、なし崩しに食事を作ってもらい、保育園のお迎えを頼み、すずの母親代わりのような役割を押し付け続ければ――彼女の婚期を奪い、彼女の未来の選択肢を狭め、彼女の人生を自分たちの泥沼に縛り付けてしまうことになる。


『すずのためだから』


『偏食が治るから』


『パパが助かるから』


そんなものは、すべて大人の男の醜い言い訳だ。


娘を盾にして、若い独身女性の善意に寄生しているだけの、卑劣極まりない寄生虫の論理だ。


「……絶対に、ダメだ」


航平はギリリと奥歯を鳴らし、拳をソファの座面に叩きつけた。


自分は、父親なのだ。


二年前、公正証書にサインをして、すずを一人で育て上げると決めたあの日。


誰にも迷惑をかけず、娘を一人で守り抜くと、あの公証役場の冷たい空気の中で神に誓ったはずではなかったのか。


それなのに、自分は今、隣の女性の温もりに甘え、骨抜きにされ、自分の責任を彼女に肩代わりさせて、情けなくも安堵のため息を吐いていたのだ。


そして――何より。


航平の胸の奥底を、もっとも激しい恐怖と罪悪感で焼き焦がしていたのは、別の、醜悪な感情の存在だった。


「…………っ」


航平は両手で自らの胸元をかき抱き、身を竦めた。


心臓が、痛いほどに激しく脈打っている。


あの時。


鍋焼きうどんを啜り終え、文乃が隣に腰を下ろして、自分の背中にそっと手を添えてくれた、あの瞬間。


背中から伝わってきた、彼女の手のひらの温もり。


ふわりと鼻腔をくすぐった、彼女のシャンプーの柔らかな匂い。


そして、『佐伯さんが倒れそうになったら、私がご飯を作って支えます』と、涙を浮かべて自分を見つめてくれた、あの澄んだ瞳。


あの瞬間に、航平の胸の奥底で爆発した感情は――決して、ただの「隣人への感謝」などという生ぬるいものではなかった。


この人に、抱きしめられたい。


この華奢な肩を、自分の腕の中に引き寄せて、二度と離したくない。


すずの父親としてではなく、佐伯航平という一人の生身の男として、この女性のすべてを愛したい、奪いたい、自分の隣にいてほしい――。


そんな、どうしようもなく身勝手で、熱く、激しい『恋情』が、胸の奥底で決壊していたのだ。


先週のベランダ。


手すり越しに夜風を浴びながら、『文乃さんと話していると、呼吸が深くなる気がします』と口走ってしまった、あの夜から。


いや、もっと前だ。


換気扇の掃除を終えて、狭いキッチンでお茶を飲んだ時。


日曜日の昼下がり、三人でホットプレートを囲み、餃子を頬張って笑い合った時。


自分はすでに、瀬戸文乃という一人の女性に、底なしに惹かれていたのだ。


「……最悪だ」


航平は喉の奥から、乾いた掠れ声を絞り出した。


激しい羞恥と、自己への怒りで、視界が真っ赤に染まるようだった。


恩人に対して。


限界だった自分たち親子を、何の打算もなく救ってくれた聖母のような女性に対して。


子持ちの、バツイチの男が、あろうことか性懲りもなく下心を抱いているのだ。


すずの面倒を見てもらい、美味しいご飯を食べさせてもらいながら、その裏で、その女性を一人の女として欲情し、恋い焦がれている。


これほど不誠実で、これほど醜悪で、これほど恩を仇で返すような裏切りが、この世のどこにあるというのか。


もし、文乃がその感情に気づいたら?


彼女はどれほど怯え、どれほど失望し、どれほど気持ち悪いと感じるだろう。


『親切にしてあげていたのに、この男は私をそんな目で見ていたのか』


『娘をダシにして、私に近づこうとしていたのか』


そう思われた瞬間、彼女のあの柔らかな笑顔は凍りつき、軽蔑の眼差しへと変わるに違いない。


彼女を傷つけたくない。


彼女の純粋な善意を、自分の汚れた欲望で汚したくない。


そして何より――彼女の未来を、自分の不甲斐ない生活の身代わりに捧げさせるような真似だけは、絶対に、絶対に犯してはならない。


「……線を引かなきゃいけない」


航平は立ち上がった。


暗いリビングの窓ガラスに、自分の姿が映っていた。


乱れた髪。青白い顔。けれど、その瞳の奥には、二年前の離婚届に判を押した時と同じ、冷酷なまでの自制の光が宿っていた。


甘えてはならない。


これ以上、あの一線を越えて踏み込んではならない。


文乃の部屋の敷居を跨ぐことも、彼女の作った料理を当たり前のように胃袋に流し込むことも、もう終わりにしなければならないのだ。


「明日……保育園の送迎代行サービスを、月極で再契約しよう」


航平はスマートフォンを手に取り、画面の明かりを灯した。


民間シッターの法人契約プラン。料金は割高だが、事前に専任スタッフを確保できる定期送迎枠の申し込みフォームを開く。


毎月数万円の追加出費になる。自分の睡眠時間を削り、受託案件をもう一本増やさなければ賄えない金額だ。


けれど、それでいい。


それが、父親としての正当なコストなのだ。


他人の独身女性の善意にタダ乗りして解決しようとしていたこと自体が、最初から狂っていたのだ。


そして――食事もだ。


すずの偏食は、文乃のおかげで劇的に改善した。野菜も、魚も、以前のように見ただけで泣き叫ぶことはもうなくなった。


ならば、ここからは父親である自分が、文乃のレシピを真似て、自分で時間をやりくりして作らなければならない。


いつまでも彼女のタッパーに頼り続けることは、彼女の手を縛り続けることと同義なのだから。


「瀬戸さん……」


航平は、三〇一号室へと続く、薄い壁の方角を見つめた。


壁の向こう側。


今頃、彼女は一人分の静かな部屋で、洗った土鍋を片付け、穏やかな夜を過ごしているのだろうか。


あの温かな笑顔。


あの優しい手のひら。


胸の奥で、激しく疼き、暴れ狂う熱い恋情の炎。


航平はその炎を、自らの凍てつくような自制の氷で、力ずくで押し潰し、踏みにじった。


「……さようならを、言わなきゃいけないんだ」


恋人になる資格など、自分にはない。


彼女の隣に立つ資格など、最初から欠片も持っていなかったのだ。


すずのためにも。


そして何より、瀬戸文乃という尊い女性の、これからの幸せな未来のためにも。


自分たち親子は、彼女の生活から、静かに身を引かなければならない。


航平は両手の拳を、白くなるほど強く、強く握りしめた。


爪が手のひらの肉に食い込み、鈍い痛みが走る。


けれど、その痛みこそが、愚かな甘えに傾きかけていた己の魂を繋ぎ止める、唯一の重力だった。


暗闇に沈む三〇二号室の中で、一人の父親が、自らに科した冷酷な誓約の鎖が、重々しい音を立ててその四肢を縛り上げていた。

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