41. 呪文は唱えられない
「おかわいそうに」
グレース・トリントンにとって、それは長年染みついた自分への呪いの言葉だ。辺境の小さな領地を守る子爵家に生まれ、幼い頃から浴びせられたその呪いに大した威力はなかったけれど。
だからだろうか。最近では確実に自分を仕留めようと、邪悪な顔をのぞかせるようになった気がする。
「お姉様、エクルズ家の夜会に……ハンクも出席するそうです」
「あら、大丈夫よ。もともと私は行くつもりはなかったもの」
泣きそうな表情を見せる弟に優しく微笑むと、私は「貴方もいかが?」と彼の分の紅茶を注いだ。
ハンク・ダドリー卿。
近隣に広大な領地を持つ男爵家の跡取り息子であり、つい先日まで私の婚約者だった男の名だ。夜会に出席するということは、あの美しい令嬢をエスコートするのだろう。近隣貴族だけを招いた小さな夜会だからこそ、針のむしろになることを危惧して、姉想いの弟が教えてくれたのだ。
でも、実は五人目なのだ。彼の出席を教えてくれたのは。
教会、市場、お茶会など、私を見つけてはハンクと新しい婚約者の動向を教えてくれる人は現れる。弟のように本気で私の身を案じる人もいれば、私の反応を楽しんでいる人もいるのだろう。ただ、決まって最後は「おかわいそうに」と皆が口を揃えるのだ。
私はおかわいそうなのかしら?
幼少期に結ばれたハンクとの婚約が、一方的に破棄されたのはつい先日のこと。どこのご令嬢かは分からないが、とても艶やかなドレスを身に着けた美しい女性を伴い「彼女と結婚する」と告げられたのだ。「お前は地味で色気もないから、いつか捨ててやろうと思っていた」とも。
トリントン子爵家に届けられた、わずかな違約金と牛10頭が私の未来への代償だった。
婚約中でも女性にだらしがなかったハンクはなかなか婚姻を結ぼうとせず、婚約破棄を言い渡された頃には、私はすでに20歳になっていた。捨てるつもりだったのなら、もう少し急いでくれれば良かったものを。地味で色気がないことは、そんなにも罪なのだろうか。
爵位も財産も若くもない子爵令嬢が、この後に幸せな結婚を迎えることは難しい。運が良ければ高齢貴族の後妻か地方の地主から声がかかるかもしれないが、それは「おかわいそう」な未来なのだろう。
リッチモンドのお兄様に助けを求めようか?
社交界デビューからしばらく滞在した王都で、音楽の師を通して懇意にしていた公爵子息がいる。お互いに婚約者がいる身だからこそ気楽に付き合えたのもあるが、彼は裕福な公爵家の跡取りにもかかわらず、田舎の子爵令嬢にさえ気さくで優しかった。
リッチモンドのお兄様なら、まともな結婚相手を紹介してくださるかもしれない。しかし、最近結婚したばかりの幸せ溢れる公爵家に「婚約者に捨てられたので婿を探してくれ」など、とてもじゃないが恥ずかしくて言えなかった。
だからこそ、アンドリュー王子から届いた別荘への招待状は、晴天の霹靂だった。
アンドリュー・ヴァンダル第二王子。
王族に多く見られる白銀の瞳が素敵な、年頃の令嬢なら誰もが夢見る正真正銘の王子様だ。すでに御年20代後半だったはずだが浮いた噂もなく、一部からは高潔の貴公子と呼ばれているらしい。同じ夜会に出席したことはあるが、挨拶の機会さえいただけないような殿上人だった。
「アンドリュー王子殿下だって?どういうことだい、姉さん?!」
天から舞い降りた招待に家族中からそう詰め寄られたが、それを一番知りたいのは私なのだから答えられるわけがない。答えられるわけはないが、辺境の地で暮らす子爵家の答えなど一つしかない。
数日後、王家の紋章が輝く馬車に迎えられ、意外と近隣に位置する緑豊かな王家の別荘に足を踏み入れた。
「グレース嬢、ようこそお越しくださいました」
アンドリュー王子自らに出迎えられた私は、まさに夢と現実の区別がつかない状態だったと思う。流れるようなエスコートで、子爵家の何倍にもおよぶ別荘地を案内され、馬車の移動で疲れただろうと豪華絢爛な自室まで用意していただいた。
翌日も私の体調を気遣われながら食事をして、屋敷の裏手にある森や湖を探索して過ごす。そうして迎えた三日目、私はようやくこの別荘に招待されたのが自分一人であることに気が付いた。
「きゃあっ」
「大丈夫ですか?」
その日、いつものように森林浴を楽しんでいた私たちを突風が襲い、私の長い髪が枝に引っかかってしまった。いくら田舎の令嬢といえど、王子様に乱れた髪を見られるのは恥ずかしい。
慌てて枝に手を伸ばした私に「任せて」と微笑むと、アンドリュー王子が優しく髪に触れた。自分の身体の一部に触れられることが、どうしようもなく居心地が悪い。
「も、申し訳ございません。このような髪なのに無駄に伸ばしてしまって……」
「このような髪?」
「はい。くすんだ黄褐色と申しますか、地味で古ぼけた色だとよく言われております」
よく言っていたのは、ハンクだったけれど。
飲み込んだ言葉にじくりと胸が痛んだ。その間にも優しく髪を解いたアンドリュー王子は、彼の手に収まる私の髪束に目を落とし「なるほど」と呟いた。
「それは随分と見る目のない人間だな。貴女の新緑がかった黄金色に、私は何度も目を奪われているというのに。ほら、森の中ではまさに女神のようだと思わないかい?」
あまりのくすぐったさに、逆に意識がはっきりした。
「――殿下が私に望むことは何でしょうか?」
唐突な物言いが不敬だったかしら、とも思ったが、こうやってアンドリュー王子の時間を無駄に使わせる方が申し訳ない。すでに夢見る年頃を過ぎた私には、自分が王子様に見初められたお姫様ではないことは十分過ぎるほど分かっていた。
「……貴女の髪が美しいと思ったのは本当だよ」
困ったような顔をしながら、アンドリュー王子は近くのベンチまで私をエスコートして、腰を下ろすように促した。恐れ多くもご自分のハンカチを敷いてくださる姿に、本物の紳士とはこうなのかと、ぼんやりと感心した。
――しかし、彼の話は私の想像よりも残酷だった。
アンドリュー王子には長年想いを秘めたお相手がいたこと。どうしても奪うことができずに彼女は人妻になったこと。一度は諦めた恋だったが、再会して一夜の過ちを犯してしまったこと。彼女が妊娠してしまったこと。彼女が極秘に出産するつもりなこと。そして、この事実を生涯隠したまま、子どもを育てなければならないこと。
つまり、アンドリュー王子には「妻」という名の「乳母」が必要なのだ。
普通に考えればとんでもない話である。
お姫様になれると期待していたら、本物のお姫様の子守りを命じられるのだから。しかし、嫁き遅れのグレース・トリントン子爵令嬢にとってはどうだろうか?
「よく……私を見つけられましたね。私ほどの適任者はいないでしょう」
どれだけ礼儀を欠いた提案なのか、きちんと理解されているのだろう。眉間に皺を寄せて顔を伏せるアンドリュー王子に、私はふわりと微笑みかけた。
「その恋人とは、今後も関係を続けられますか?」
「いや、それはない。それはあってはならないし、貴女を迎える以上、妻として愛する努力をするつもりだ」
「では、私も殿下を夫として愛する努力をいたしませんとね」
「……まいったな」
二人で顔を見合わせて笑うと、日が沈むまで今後について話し合った。
ちなみに、エクルズ家の夜会には出席した。
「君と交際中であることを広めないとね」と、アンドリュー王子にエスコートされて登場した私に、「おかわいそうに」を口にする者は誰もいなかった。それどころか、郊外の小さな夜会に王族が現れたものだから、会場はパニック寸前だったと思う。
ハンクに会ったかどうかさえ、正直覚えていない。
言葉は悪いが――彼流に言えば眼中になかったのだ。とにかく隣に立つアンドリュー王子が眩しすぎて、ハンクどころか何もかもが霞んで見える夜だった。
泥酔したハンクが会場で喚いていたとか、新しい婚約者が実は娼館出身だったとか、後日、人づてに聞いたような気もするが、それももはやどうでもよかった。とにかく夢のような毎日を、慌ただしく過ごしていたことだけは覚えている。
第二王子妃の生家となるトリトン子爵家には潤沢な支度金が支払われ、広大な領地と屋敷に使用人まで支給された。その後、私の妊娠発覚により私たちの結婚式は早められ、かわいそうだった子爵令嬢は多くの貴族と国民から祝福される花嫁となった。
高潔の貴公子がどこぞの子爵令嬢に汚されたと、私に敵意を向ける令嬢も多かったが、特に気にはならなかった。彼女たちは決して「おかわいそうに」の呪文は唱えられないのだから。
そして私は、大きな詰め物をお腹に入れ、あの緑豊かな別荘で出産をするのだ。濃紫に蒼銀の瞳を持つ元気な我が子と出会うために。
ユージーンは確かに私の子でもあるのですよ、クレア様。
【今話のクマ子ポイント】
ハンクがざまぁされています。
もう少し詳しくざまぁしたかったです。ʕ๑•ɷ•ฅʔ




