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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第三章 水行の侵食編
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第五話 静かなる、大きな変化

「お願い早く! こっちよ!」


 前を行く二年生の女子の後を、要と達彦は必死に付いて走っている。


 差し始めの夕日の下、ガードレールや縁石によって仕切られた歩道をなぞるように駆け抜ける。


 三人は現在、学校外の道にいた。校門を抜けてから大きく西に進んでいる。


 数分前、女子に懇願されたのだ。「彼氏を助けて欲しい」と。

 

 聞くと、女子は付き合っている彼氏と下校している途中、ガラの悪い男五人にいきなり通せんぼを食らったそうだ。「誰の許可得てこの辺歩いてるんデスかぁ? 通行料払えよコラァ」という恫喝付きで。

 それに対し、彼氏は額に多少の汗を浮かべながらもキッパリと「お断りします」と告げ、女子の手を取って毅然と通り過ぎようとした。

 その瞬間だった。男の一人が女子を彼氏から引き剥がし、羽交い締めにしてきた。

 その上「じゃあこの女代わりにボッシューしまーす」などとふざけた口調で言いながら、乳房や尻を鷲掴みにした。

 言い知れぬ恐怖と不快感を隠さず露わにした女子の表情を見た瞬間、彼氏は憤怒の形相で羽交い締めにしていた男を殴り倒し、女子を開放した。

 そこから先は泥沼だった。仲間を殴られた事で残りの男たちが一斉に彼氏めがけて殴る蹴るを加え出した。

 彼氏は柔道部員だったが、四方八方から包み込むように打撃を受けたため対処のしようもなくなり、すぐにされるがままの状態へと落ちぶれた。

 女子は何もできず、ただ立ち尽くしているだけだったが、一方的に足蹴にされ続けている彼氏が密かに「逃げろ」とアイコンタクトしてきたため、躊躇いながらもその場から駆け出した。

 だが自分だけ何もしないのは嫌だった。だからこそ、助けを呼ぼうと思った。

 そして白羽の矢が立ったのが――今話題の工藤要である。


 哀切にすがりつかれた時は最初は困惑したが、要は結局手を貸す事に決めた。彼女が来る直前「理不尽な暴力を振るわれている者がいたら、まず助けよう」と心の中で意思決定したばかりだったからだ。


 達彦も「五対一だと流石に心配だから、俺も参加するぞ」と言ってついて来てくれた。


「……にしても、「通行料払え」なんて脅し文句か……もしかして、噂をすれば影ってやつじゃねぇだろうな?」


 噂をすれば影――達彦のそんな言葉に、要も思い当たるところがあった。


 女子が来る直前まで、話していた話題だ。


 『五行社(エレメンツ)』――海線堺市最大のギャング団。


 そもそもその組織についての話へ行き着いたのは、最近シオ高生を狙って相次ぐカツアゲ事件のことを話題に出してからだ。


 その話に登場していたカツアゲ犯も「通行料払え」という脅し方で金を巻き上げていたという。そしてそのカツアゲ犯は『五行社』の下部組織の人間。


 だとするなら、女子の彼氏はその新たな被害者となった可能性がある。


 二人は導かれるまま、ただひたすら走行していた。もう何分走っただろうか。


「お、おいおい……い……いつになったら着くんだよ……」


 要の少し後ろを駆ける達彦が、息切れ混じりにぼやいた。要は普段から運動しているから余裕があるものの、達彦は息が上がり気味だった。


「ごめん、でももうすぐだから我慢して!」


 女子が振り向きながら、切羽詰った口ぶりで告げた。彼女もまた呼吸を切らしている。


 後ろへ流れゆく電柱やガードレールなどの景色を、他人事のように呆然と眺める。


 そして一分後、現在走っている路地の遥か向こうから、無数のダミ声のようなものが聞こえてき始めた。


 その小さな声は真っ直ぐ進むにつれて大きく、そしてはっきりしたものになっていき、やがてそれらを発する存在ごと鮮明となった。


「ナメてんじゃねえぞコラァ!!」

「死ね、テメーは!!」

「これぜってー鼻折れてっぞ! 通行料込みで慰謝料もだせやぁ!!」


 怒号を上げる五人の男たち。


 格好がいいと思っているのか、みんな奇抜で脱色しかけた髪型。珍妙な服装。しかし体格は良く、背も高い。


 その五人は路上のど真ん中で小さな円を囲っており、全員でその中心を憎々しげに足踏みしている。


 ――その中心には、ボロボロの誰かがうずくまっていた。


 シオ高の夏服に身を包む、体格の良い男子生徒。


 おそらく、あれが件の彼氏なのだろう。

 

「やだっ、もうやめてぇ!」


 それを裏付けるように女子が涙の混じった声で駆け出し、彼氏を踏みつけている男の一人の袖に掴みかかる。


「引っ込め、このアマァ!」


 だが、その掴まれた袖がある方の腕をひと振りするだけで、簡単に放り出されてしまった。


 そんな女子を、後ろにいた達彦がキャッチ。


 胸の中の彼女を端へ押しやってから、睨みを効かせながら言った。


「白昼堂々と弱い者イジメかよ。この山賊野郎どもが」


 達彦の侮蔑の声に、五人全員が初めてこちらを振り向いた。


 その五人中、女子を突き飛ばした男だけは、鼻の穴から顎にかけて固まった血の筋を伸ばしていた。おそらく、彼氏が最初にぶん殴った奴だろう。


「山賊だぁ? じゃあいきなりしゃしゃり出て来てるテメーはなんなのよ? 通りすがりのヒーロー様か? え?」

「ヒーロー様はこっちの奴だよ」


 達彦は鼻血男の悪態をそう一笑に付しつつ――要を指差してきた。


「え、ええ!? 俺なの!?」

「たりめぇだろ。その女はお前を頼りにして来たんだぞ? 工藤要さんよ」


 あからさまに自分のフルネームを語調を強めて言う達彦。


 それを聞いた五人はピクリと反応したかと思うと、互いに顔を見合わせながら「嘘だろ……」「工藤要……?」「あの……?」「予想より随分チビじゃねーか。ワンパンどころかデコピン一発でやれそうだ。パチだろ」「でも、記事に写ってた奴とそっくりだぜ……?」「コイツも記事の奴と同じで女みてー顔だよなぁ」「じゃあガチの工藤かよ……?」などと小声で話し出す。


 達彦は狙い通りとばかりに口端を歪めつつ言った。


「いいかお前ら、俺が告げた事実をありのまま受け入れられたのなら、これからのお前らの選択肢は一つだけだ。全員ボコった男とその女に詫び入れてから早々にズラかれ。工藤要は善良で寛大な男だからな、言われた通りにすれば一切手は出さねぇ」


 「だろ?」とにこやかなノリで肩口へ触れてくる。


「え……ああ、うん……」


 どう答えればいいかよく分からなかった要は、自信なさげに頷いた。


 達彦はおそらく自分のネームバリューを利用して、連中の戦意を削ごうと考えたのだろう。


 それが成功するなら好都合だと思った。元々争いが好きな方ではないのだ。連中が勝手に怖気づいて立ち去ってくれればそれがベストだろう。


 しかし次の瞬間、そう上手く事が運ぶほど現実は甘くないと思い知らされる。


 驚愕と焦りを持っていた五人の表情が、企むような暗さを帯びた。


「おい……じゃあよ、コイツここでぶっ飛ばしてその写真バラまきゃ、俺たちの名も上がるんじゃねぇか?」

「ああ……俺もそう考えてたとこだぜ」

「アームズの竜胆を倒したのは一騎打ちで、って話だ。少し前に岩国率いるヌマ高の精鋭を一人で総崩れさせたって噂があったけど、それは流石に嘘くせぇよな? 尾ヒレが付いたモンに違いねぇ」

「つまり数押しで突っ込めば、俺らにも勝機があるってことか。女と怪我人は戦力外として、あっちは二人でこっちは五人。数的には俺らが倍以上で有利だ……これ、もしかするんじゃねぇか?」

「やべぇよ、アメリカンドリームならぬジャパニーズドリーム、成り上がるチャンスだ! ここで勝てば俺らを散々アゴで使ってきやがった『五行社』の連中をギャフンと言わせられる! いや……もしかすっと、下っ端グループの一つでしかなかった俺らが『五行社』に加われるかもしれねぇぞ!」


 弁論を重ねる度、連中の士気が薪をくべた火のように高まっていく。


 ――やっぱり『五行社』だったのか。


 話題に出して早々出くわすなんて、つくづくトラブルを呼び込む素敵な体質だと思った。


 そんな要の自虐など知る由もなく、男たちがすさり、すさりと歩み寄ってくる。


 気力を得た大柄な体。勇ましい足取り。そして戦意に満ち満ちた顔貌。五人全員、それらの状態を共有していた。


 もうやるしかない。それを直感で確信した要は「そこにいてくれ」と、路肩で縮こまっている女子に早口で告げる。彼女は黙って頷いた。


 これから確実に起こると分かり切ったケンカに対して、まず心がけるべきことは――機先を制することだとすぐさま判断。


 要は持ち前の瞬発力を発揮し、男たちめがけて突っ込んでいった。


 短距離ですぐにトップスピードへと達した要の五体は、あっという間に五人の一番先頭にいた鼻血男との距離を急迫させた。


 鼻血男の呆気にとられた反応を無視して、問答無用で『蹬脚』を蹴りこんだ。


 加速度を味方につけて踏むように叩き込まれた蹴りに、鼻血男は飛び出そうなほどに目玉をひん剥きながら真後ろへ飛んでいく。二人の仲間を巻き込んでドミノのように倒れ込んだ。


「やりやがったなこのクソボケがっ!!」


 ようやく状況を認識して襲いかかって来たのは、要のすぐ左側にいた男だった。その丸太のように太い腕をこちらへ伸ばしてきている。


 掴まれる前に先に肘で体当たり。掴まれて引き込まれたらその力に乗ってタックル――即席で戦術を組み立て、それを実行に移そうとした瞬間、大きな影が男の手と自分の間へ割って入った。


「――俺がいることも忘れないでちょうだいよ」


 達彦が男の両腕を掴み、正面から取っ組み合っていた。


 心の中で感謝を添えつつ、要は勢いつけて拳を振り出して来たもう一人の男のパンチを頭の動きだけで回避しつつ、あらかじめ取っておいた準備姿勢から『旋拳』を突きこんだ。


 技が本来持つ威力に、皮肉にもダッシュしてきた勢いが上乗せされたようで、男が声にならない声を上げて地面を転がる。停止した後も打たれた箇所を押さえながらのたうち回っていた。


 一時的に余裕を得た要は、達彦の方へ目をやる。


「達彦、大丈夫か!?」


 見ると、二人はいまだ取っ組み合いを続けていた。


 相手の男は要の呼びかけを聞いて少し目を見開くと、すぐに何かに納得するように数度小さく頷く。


 そして、侮蔑するような、いたぶるような眼差しを正面の達彦へ向けつつ語りだした。


「はっ、誰かと思えば鹿賀達彦かよ? よりによってテメーが工藤と一緒とはねぇ。もしかしてあれか? ボコられてから靴裏ペロペロして家来にでもなったんでちゅかぁ!?」

「なんだとっ……!?」

「俺の知り合いは口を揃えてこう言うぜ? 「鹿賀達彦? あんなのもうカスだよ」ってよ。そんなテメーがまだこうして息巻いてられんのは、工藤っていう強いオトモダチがいるからなんだろ? そういうのを世間でなんて言うか知ってっか? 「虎の威を借る狐」ってんだよカァス!!」

「この野郎――ナメてんじゃねぇぞっっ!!!」


 達彦は激昂。掴み合いに使っていた片手を乱暴に離し、それを力任せに大振りさせて男に殴りかかろうとする――マズイ、挑発にのるな。


「ハッハー! スキありーー!!」


 男は同じく自由になった片方の手を拳にし、それを真下から掬い上げるようにして達彦の顎へヒットさせた。


 顎をカチ上げられ「あぐっ……!」というくぐもったうめき声をもらし上空を向きながら、達彦は倒れはしなかったもののアスファルトにベタンと尻餅を付いてしまった。


「達彦っ!」


 そこからさらに躍りかかろうとした男を、要はタックルで横倒しにした。


「おい、大丈夫か!?」

「ってて……頭クラクラすんぜ」

「無理するな。あとは俺一人でなんとかするから!」


 その言葉を聞いた瞬間、達彦は息を呑んで絶句した。だがそのリアクションの意図を尋ねる余裕は今はなかった。


 最初にドミノ倒しよろしく転倒させた三人が、起き上がっていたのだ。


 三者ともに、鬱屈とした怒りに支配されている。


「てめぇ……!!」


 特に、要が蹴っ飛ばした鼻血男の怒り様が輪をかけていた。蹴りを入れられたのだから当然かもしれないが。


 鼻血男は乱暴な手つきでジャケットの懐を漁る。


 そして取り出されたものは――畳まれたバタフライナイフ。


 それを片手のみで器用に、かつ華麗に操り、瞬く間に剥き出しの片刃が外界へ晒された。


「…………」


 要はゴクリと喉を鳴らす。


 再び出会ってしまった。ケンカで刃物を持ち出す相手に。


 誘拐事件から懸念していた事柄が、現実になってしまった。

 

 全身が粟立つ。


 今の自分に対処できるのだろうか。


 訓練はした。だが実戦では相手は自分に当てようと刃を操ってくる。わざと空振ってくれる優しい易宝とは違うのだ。


 でも。

 易宝が何度も紙一重の間隔で体表面を巡らせてきた、長く鋭い鋼の凶刃。

 握りこぶしほどの長さしかない、ちっぽけなステンレスの鉄片。

 一体――どっちが恐ろしいだろう?


 気がつくと、自分は歩き始めていた。


「なっ……!?」


 鼻血男の驚愕の声。


 それにも気にせず、要は一直線に歩みを進める。


 ナイフの刃が、西へ下り始めた夕日の光をまばゆく反射し要の顔へ当てる。まるで威嚇するように。


 だが、一瞬たりとも躊躇はしなかった。


 別に、捨て鉢になったわけではない。


 確かに思っているのだ。今の自分になら、御せると。


「お、おい! コレが見えねえのか!? コレ! ナイフ!! 刃物だぞ!?」


 鼻血男は片手に握られたナイフを全面に出し、わめき散らす。


 脅しているつもりなのだろう。だがへっぴり腰な上に、ナイフを握る手も狼狽で震えている。はっきり言って様になっていない。


 つかつかと歩み寄って行き、とうとうナイフのすぐ近くにまで近づいた。


 しかし、それでも鼻血男はアクションを見せない。自分が目と鼻の先まで来ても、そのカッコ悪い構えをずっと続けている。


 そんな様子を見て、本気で刺す気はないのだとなんとなく悟ることができた。


 要は片足を勢いよく蹴り上げ、ナイフを持つ手を下から強打する。


 鼻血男は「ぐっ!」と呻くと、得物をその手から取り落とした。コンクリートに落ちたナイフがきぃん、と一跳ねする。


 要は鼻血男が拾う前にそれを踏みつけ、足首のスナップではるか真後ろへ滑らせた。


「く、くそっ!!」


 鼻血男は拳を握りしめ、やけっぱちに飛びかかりざまスイングさせて来る。


 しかし力任せなその攻撃は悠長そのもの。要の『開拳』が腹に突き刺さる方が早かった。


 鼻血男は拳の接点から大きく体をくの字に折り曲げて吹っ飛び、胎児のような格好でコンクリートに寝転がった。


 しかし倒した相手にいちいち気を取られている暇はない。まだ敵は残っている。先へ、先へ、先へと意識を集中させろ。


 要は前方に立つ二人の男を睨んだ。


 二人とも怖気づいたような目でこちらを見てくる。


 だがその表情が、急にあくどく歪んだ。


 次の瞬間、


「――!?」


 両腕の上腕部が、グイッと体ごと上へ持ち上げられた。要の足が地面から浮き上がる。


 ギリギリと両上腕部を締め付けていた圧力は、人間の腕だった。それもかなり太い。


「へっへへ…………つーかまーえた♪」


 そんな声がにんにく臭い息遣いとともに首筋を撫で、ぞわりと総毛立った。


 肩の自由が利かないため、首だけで懸命に後ろを見る。先ほど、達彦の相手をしていた男だった。


 要は今、そいつに後ろから羽交い締めにされた状態だった。


「何をする!? このっ! 離せよ!」


 ジタバタと必死にもがくが、自分を拘束する丸太のような腕は全く解けない。


「どうだよ? 俺ァこう見えて昔レスリングやってたんだ。更衣室のロッカーからクラスメイトの金くすねてたのバレて退部になったけどよ、ケンカじゃ今でも相当重宝すっぜこいつは。俺の腕はちょっとやそっとじゃ外れねぇ。もうギブって言っても遅ぇからな…………おい、やっちまえ!」


 その指図を受け、前にいる男二人が指を鳴らしながら幽鬼のように近づいて来る。


 ヤバい。このままじゃされるがままになる――!


「このっ! 離せーー!!」


 どうしようもない焦りを覚えた要は、上腕部を縛る男の両前腕部を掴み、引き剥がそうとする。


 しかし、石のようにビクともしない。


 こうしている間にも、二人の男は着々と自分との距離を縮めて来ている。


「こんっ……のおぉっ……!!」


 さらに根性を出し、膂力を発揮する。だがやはり外れない。


 二人の男が、唾を吐き捨てれば届くほどの距離まで達する。


 要の焦りがさらに激しくなる。心拍数が天井知らずにビートを刻む。


「うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!!!」


 筋繊維がブッ千切れるんじゃないかというほどの力を腕に催促する。


 それでも男の腕は解けない。


 とうとう目の前の二人が懐近くまで立ち、拳を振り上げ始めた。


 要はいよいよ腹を括り、歯を食いしばった――時だった。


「ギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」


 耳元から獣の雄叫びのような絶叫が轟き、鼓膜を爆発させんばかりに揺さぶった。


 かと思うと、いきなり両上腕部の拘束が外れ、要は着地する。


 見ると、前の二人の男は絶叫に気圧されたのか、ギョッとした顔で数歩後ろへ下がっていた。


 本当ならば、ここですかさず二人を攻めるのがベストなのだろう。


 だが男がなぜ急に自分を逃がしたのか、それが気になった。なので、背後を振り向いた。


「う、うわ!! な、な、なんだこりゃぁぁぁーーー!!」


 自分を拘束していた男は、己の両腕をおぞましげに凝視しながらそう叫んでいた。


 いや、正確には両前腕部を見ていた。


 そこには――赤紫色の手跡が出来ていた。


 その痕は、男の両前腕部を輪のように囲っている。


 赤紫とはいうが、どちらかというと黒寄りで「赤黒い」とも表現できるかもしれないその手跡は、明らかに内出血を起こしている痕だった。


「お、お前、それ……!?」


 二人の男のうちの一人が、顔を青くしながら訊く。だが当人は完全に恐慌した様子であるためまともに答えられないでいた。


 そんな敵三人をすっかり尻目にし、要は自分の両腕を呆然と眺めていた。


 自分を羽交い締めするまで、あの男の腕にあんな痕はなかった。つまり、自分を拘束した後に付いたものであるということになる。 


 まさか――俺が掴んだから?


「こ、こいつヤベェぞ! 細腕のくせにとんでもねぇ力だ!!」


 敵の胴間声で我に返り、要は慌てて身構えた。いけない、ボーッとしていたら危ない。


 だが見ると、三人はまるで化け物とでも出会ったような表情で自分から退いていた。


 三人は毒々しい色の手跡と、それを付けた要を交互に見ている。


 やがて、


「お、おい、逃げるぞ! コイツはっきり言って普通じゃねぇ! もうこれ以上やるのはゴメンだ!」

「ま、待てよ! 寝転がってる二人どうすんだ!?」

「置いてけ! それどころじゃねぇんだよ!」

「待った待った、俺を置いてくなよ!」


 手跡を付けられた男を言いだしっぺに、三人はバタバタとその場から逃げ去っていった。


 さっきまでどよもす声に包まれていた路上が、扉を閉じたように静まり返った。


 立っている人間――要、達彦、女子の三人は、何も発せず、動くこともせずにジッとしている。


 その沈黙は、安堵ゆえのものか? それとも、倒れている二人の仲間を見捨てた連中に呆れ、軽蔑したがゆえのものなのか?


 それとも――


「……」


 そんな沈黙の中、要は自身の両手を呆然と見つめていた。









 それからしばらくして、ようやく要たち三人は動きだした。


 まずはリンチを受けていた彼氏を助け起こした。ボロボロだが恵まれた体格ゆえか大した傷ではなかったようだった。そんな彼に泣きながらすがりつく女子の姿を見て、達彦と要は顔を合わせて微笑んだ。


 ちなみに彼氏は財布を奪い取られていた。なので達彦が倒れている男二人を締め上げて所在を問うと、そのうちの一人がポケットからおずおずと財布を差し出してきた。中には現金だけでなく学生証やキャッシュカードなども入っていたので、逃げた三人が持っていなくて全員一致でホッとした。


 要が「もう行け」と指図すると、二人の男はすぐさま脱兎のごとく逃走。


 それから深々と頭を下げて礼を言う二年生カップルと別れ、帰り道の違いで達彦とも途中でさよならした。


 そして現在、要は易宝養生院へ向けてその足を進めている。


 路地を控えめに照らす夕日は、校門を出た時とほとんど明度が変わっていない。日が落ちる時間が伸び始めたからだろうか。


 今からそこへ足を運ぶのは、修行するためでもある。


 だがそれ以上に、易宝に聞きたいことがあったのだ。



 自分の体に、一体何が起きているのか――と。



 「工藤くん、女の子に生まれればよかったのに」と地味にショックなことを中学時代、クラスメイトの女子に言われたことがある。


 そう、それほどまでに自分の体つきは華奢で、かつ腕力に乏しかった。腕相撲でも、中学のクラスの男子に勝ったことはなかった。


 そんな自分が――なぜあんな内出血を起こさせるほどの力を出すことができたのだろうか。


 今にして思えば、片鱗はあったのだ。


 握力測定の時、六十キロ代を叩き出した達彦の握力とどっこいどっこいの測定結果だったこと。


 林と戦った時、菊子を足蹴にされた怒りに駆られて力任せに殴りかかった結果、大きく吹っ飛ばすことができたこと。


 極めつけに、先ほどの内出血。


 いずれも、修行し始める前の自分では絶対に出せなかった結果だ。


 腕力を鍛えるトレーニングの類をした覚えはない。むしろ易宝から禁止されてすらいた。崩陣拳の「繋がりを持った筋肉」は、全身の筋肉の絶妙な発達バランスによって成り立っている。断片的な筋肉を膨張発達させる偏ったトレーニングを行うと、全身の「繋がり」を阻害させ、発力が使えなくなるからだ。


 なので自分の腕は未だに女性のようにほっそりで、なまっ白い。


 しかし現実、その見た目以上のポテンシャルを発揮してしまっている。


 仲間を置いてまで逃げていったあの三人の気持ちが、分かりたくもないのに少しだけ分かってしまった。


 ――明らかに異常なことだ。


 余計なウェイトトレーニングをした覚えはない。


 変な薬物を服用した覚えもない。


 だとするなら、消去法的に猜疑の目を向けなければいけないものは一つ――拳法の修行。


 きっとそこに何かある。そうとしか考えられない。ならば聞こう。


 その気持ちが、歩調を自然と早める。


 そのせいだろうか、思ったよりも早く目的地が見えてきた――易宝養生院。


 その入口からは、上下ともに黒一色の服を着た一人の男が出てきた。易宝だった。


 易宝はポケットから取り出した鍵で戸を施錠すると、「open」と書かれた掛札を裏返して「closed」にし、歩道へ出て歩き出した。


 そんな彼へ近づき「おーい」と声をかけた。


「ん? おお、カナ坊じゃないか」


 易宝は軽く手を挙げ、それに応じてくれた。


 そんな易宝の傍へ歩み寄り、


師父(せんせい)、これからどこ行くの?」

「食材が切れそうから、ちょっくら買い出しに、の」 


 要は納得した。


 易宝は基本的に自炊で食事を済ませており、外食や店屋物はたまにしか食べない。その方が経済的だからだという。


 おまけに彼自身の料理の腕も結構達者で、何度か昼食をご馳走になり舌鼓を打った。


「今日って修行やらないの?」

「……あー、いや、おぬしがなかなか来ないから今日は休むのかと思ってのう。だから代わりにその時間で用事を済まそうと考えたんだが……休んだわけじゃなかったのか?」

「うん、まあ……確かに遅くなったけど」

「それはすまんかったな。今日はやってもいいんだが、買い物してからでいいかのう?」 

「いいけど……じゃあさ、俺もついて行くよ。いいだろ?」


 俺の体の事とか聞きたいし。


「まぁ……構わんが」


 その一言で、同行が決定した。


 二人は横並びで、オレンジ色の日光の照らす町並みを歩き出す。


 最初はさっき来た道を戻るように進んでいたが、ちょくちょく曲がり角を曲がったことであっという間に違う道へと出てきて、そこをさらに歩いた。あまり通らない場所だった。


 道中、要は易宝に遅くなった理由を説明した――『五行社』のことと一緒に。


「ふんむ……グループ構成に五行説を持ち出すとは、生意気な小僧どもだのう。まるで三合会(さんごうかい)だ。しかし、たった五人で天下を取るとはなかなかやる」


 易宝が顎に手を当てながら、興味ありげに呟く。


「……俺、思うんだけど……その五行説っていうのは中国の思想なんだろ? だったらそれ関係で『五行社』も拳法使いって可能性は……」

「さあ? 会ったことがないからわしには何とも言えん。それよりおぬし……これから用心した方がいいかものう」

「……え? 何で?」


 易宝はニヤリと笑う。意地の悪そうな顔だ。


「末端をぶちのめしたんだ。もうその時点でおぬしは『五行社』ってのと関わりを持ってしまったようなものだ。枝葉から幹へと続くように、どんどん格上が寄って来るかもしれんぞ?」

「や、やな事言うなよー! マジにとらえるだろー!?」

「あながち脅しでもないぞぅ? わしがその生き証人だ。あれはいつだったかのう、若い頃初めて香港を訪れ、そこにいた蛇鞭掌(じゃべんしょう)の連中と揉め事を起こした時だった」


 懐かしむ目をしながら語りだした。


「蛇鞭掌はその土地では一大勢力の一つでのう、香港のいたるところに分館が建っておったよ。それを知らずにケンカを買って勝利した時には後の祭り。門弟に手を出した報いを受けさせようとあちこちの分館という分館から門人が出てきて、追いかけっこが始まってしまった。さっきも言ったが、分館は香港のあちこちに点在している。だから敵の巣がそこらじゅうにあるわけで、まるでお巡りの大捕物のターゲットにでもされてるような錯覚を覚えたよ。そうして一晩中逃げ続け、ようやく香港から脱出することができたのだ。やれやれ、自業自得とはいえ最悪の香港旅行だった」

「たった数人やられた程度で、そこまで血眼になるもんなのか?」

「なる。特に中国人のような面子を重んじる連中なら大いにのう。門人に手を出されて黙っていたら甘く見られる。そしてそこからさらに二度、三度と後続を許す可能性が生まれる。それではあまりに面子が立たん。だからこそ具体的な報復行動を行う事で後続を絶つ。そうして香港一大勢力の体裁と威厳を守るのだ」


 易宝のその説明は、記憶の中にある誰かの発言と噛み合うものがあった。


 その誰かとは――四月に闘った紅臂会(レッド・アームズ)のリーダー、竜胆正貴だ。


 奴も同じようなことを言っていた。「メンバーがやられておいて報復しないんじゃ甘く見られる」と。


 武術門派が、そんな不良集団と同じようなことをしていることに、要は若干癇に障った。


「でも、それじゃヤクザとあんまり変わらないじゃんかよ」

「仕方あるまい。武術界には綺麗事では済まない事だってある。特に面子に関しては武術界にかかわらず、中国社会のほぼ全ての場面で重んじられる。良くも悪くも、な」


 要は幾度か逡巡してから切り出した。


「あのさ…………師父はもし誰かに負けたら……」

「勝った奴の元へすっ飛んで仕返しに行くかって? バーカ、わしはそんなモンスターペアレントみたいな真似せんよ。わしからすりゃ、子供の喧嘩に大人が参加するなどマナー違反以外の何者でもないからのう。というか、それ以前におぬしが嫌だろ?」


 頷く。


「なら、『五行社』とやらも、おぬしがなんとかするしかあるまい。たとえ連中がまた来ようと、その拳で迎え撃て」

「うん……でも俺、敵うのかな。そんなとんでもない奴らに」

「そのための修行だろう? 人間は自分を裏切ることもあるが、修行は絶対に自分を裏切らん。精進せいよ」


 頭にぽんと手を乗せられる。


 まだ少し不安だが、あの五人にはとりあえず勝ったんだ。今はそれに喜んでいよう。


 あの五人との立ち回りについて思い返したことで、要は連鎖的に大事なことを想起する。


「そうだっ。あのさ、師父、ちょっと聞きたいんだけど……」


 それに対し、易宝は視線と表情で「言ってみろ」と下知してきた。


 無言のお言葉に甘えて、要は口火を切った。


「最近――俺の筋力が異常に強くなってる気がするんだけど」


 易宝は目を見開いた。


 間違いない。何か知ってる、そういう顔だ。


 つまり自分の筋力の異常向上の原因は十中八九、武術にあるということ。


 極めつけに、


「ふんむ――ようやく気がついたか」


 そう言った。


「やっぱり何か知ってるのかっ? 俺の体がおかしいわけじゃないんだろ? ならやっぱりこれって武術の修行のせいなのか? でも俺、腕を鍛えるトレーニングなんかしたことないぞっ?」

「まあまあ落ち着け。別におぬしの体がおかしいわけじゃない。それも崩陣拳の修行の成果の一つだよ」

「でも、腕を鍛える修行なんかしてないよな? どっちかっていうと、足ばっかり酷使してたような……」

「それは――ん?」


 易宝はそこでふと言葉を止め、今歩いている路肩とは反対側にあるコンビニを注視する。


 一台のセダンが、路肩とコンビニの駐車場を隔てる段差の上に前輪を乗り上げていた。


 そしてその車体を、後部から一生懸命に押している男性が一人。


 おそらく、駐車場に入り切る前にエンストを起こしたのだろう。路肩側へはみ出た後輪をなんとか段差に乗せようとしている。


 男性は汗水流し顔を真っ赤にして頑張っているが、車体はなかなか上がってくれないようだ。


「カナ坊、ちょっと待っとれ」


 易宝はそう一言添えると、その場を離れて行ってしまった。


 「あ、ちょっとっ?」という要の呼びかけにも応じずすたすた歩いていき、すぐにエンストした車の傍らにたどり着く。


 車を押していた男性を手振りでやんわりと退けたかと思うと、易宝はリアバンパーの下に片手の指を引っ掛け、



 そこから――持ち上げた。



「はっっ????」


 一瞬、我が目を疑った。


 しかし、間違いない。


 易宝は片手で車の後部をめくるように持ち上げ、後輪を浮かせたのだ。


 彼の腕は成人男性の平均的な太さしかない。だというのに車一台を一人で、それも片手で持ち上げるというとんでもない行為を現実のものとしてしまっている。


 しかもそれをしている易宝の顔つきには、疲労感や苦痛が浮かんでいなかった。普段通り、日常生活を送っているかのような表情。


 傍らの男性も、目玉が飛び出んほどに易宝を凝視している。


「これ、ここの駐車場のどっかに置いておけばよいか?」


 まるで買い物袋を家の中に運び入れるがごとき軽いニュアンス。


 男性はあまりのことに口が開けないのか、それとも元々口下手なのか、コクコクとただ首肯するだけだった。


 易宝「あいわかった」とこれまた軽々しい口調で返事をすると、そのまま歩を進め始めた。それとともに、車の前輪もコロコロと前転を開始。


 そのまま手押し車よろしく移動させること十数秒後、セダンは易宝の「よっこらしょ、っと」という吞気な呟きとともに駐車場の一角へ整然と収められた。


「それじゃあ、用心しての」


 易宝はそう告げると、要の立つ場所へと戻ってくる。男性は何も言えず、ただ呆然と路肩に立ち尽くしていた。


「さーて、んじゃ行くとするか……ん? どうしたカナ坊? そんな変な顔して」


 易宝が怪訝そうな顔で見つめてくる。


 要は戦慄きながら、震えた声で問うた。


「な…………な、な、な、なんなんだよさっきのっ!?」

「さっきの?」

「車一台を片手で持ち上げたやつだよ! なんで!? どうしてそんな細い腕であんな力が出せるっ!?」

「――おぬしと同じ理由で、だよ」


 面食らった。


 細い腕とは不釣合いな力。


 程度は違うけど――条件はまんま俺と同じじゃんか。


 要は思った。易宝はこれから説明する内容の前置きとして、あんなことをしてみせたのでは? と。


「カナ坊、おぬしは毎日の修行の前、必ずある一つの練功法を行っているはず。それは何だ? 言ってみろ」

「え? そんなの『頂天式』に決まってるじゃん」


 要は修行の前、必ず『頂天式』をやらされていた。


 この練功法は、崩陣拳という拳法を修めるためには欠くべからざるものであり、そしてその拳の性能を高めるために必要不可欠なものだと、易宝に口を酸っぱくして言われていた。なので、要も言われるがままに実行していた。


 そう。全身に「繋がり」を作る以外に、何か「特別な意味」があるのだと信じながら――


「…………まさか」


 その「特別な意味」って…………!


 要の表情を見て閃きを悟ったのか、易宝が得意げに笑みを浮かべながら、


「そうだ! おぬしの体に起こった変化、そして先ほどのわしの力、それこそが『頂天式』のもたらす恩恵が一つ!」

「恩恵……!?」

「そう。『頂天式』は姿勢反射を使って全身の筋肉を効率よく稼働させ、全身に「繋がり」を作るためのもの。だがこの練功法の意義はそれだけではない! 全身の筋肉が効率よく稼働した状態、それはつまり全身の筋肉へ総合的に負荷がかかった状態だ! 負荷をかければ筋肉は強くなる。つまり『頂天式』は、全身の筋肉全てを同時に強化する筋力トレーニングでもある! しかも従来の筋力トレーニングと違い、激しい負荷によって筋肉を急膨張させて即席で強くするのではない。全身の筋肉に緩やかな負荷を与え、それを何日何ヶ月何年と継続することで、ゆっくりとだが確実に筋力を向上させていく。筋肉を膨張させるのではなく、筋肉を構成する繊維一本一本を少しづつ練り上げていくことで、筋肉をほとんど膨張させないまま、その性能をバランスよくどこまでも伸ばしていく。いわば「高度な筋トレ」というわけだ」


 要は両手をしきりに開閉させ、それをジッと見つめる。


 そう、だったのか。


 そうなると、初めて易宝に会い、その時に『頂天式』を教わった去年から、すでに自分の筋力の成長は始まっていたことになる。


 病気の時以外、毎日欠かさず練ったことで、自分の筋繊維一本一本が着実に鍛えられた。それゆえのこの腕力だ。


 しかし、易宝はきっと何十年という単位で『頂天式』を練ってきたことだろう。ならばその力は推して知るべしだ。


「さらに、全身の筋肉が鍛えられることで、崩陣拳の技の威力も底上げされる。なにせ全身の筋肉の力を総合させて打つんだからのう、その元である全身の筋肉が強ければその分威力が上がるのは必然だ」


 易宝はなおも説明する。


 その時にはすでに、要には現実感がなくなりかけていた。


 それはそうだ。線の細さを保ったまま車を持ち上げられる力を付ける方法なんて、今までの人生で出会ったことがない。もはや漫画の世界だ。


 林の言葉を思い出してみるといい。



『テメェみてぇな野郎が一番ムカつくぜ。自分がどれだけ上等な武術を学んでいるかも知らねぇで蓄積を怠ってる、向上心の欠片もねぇクソッタレ。こんなボケナスがあの崩陣拳を次ぐ者だなんて、虫唾が走って仕方がねぇ』


『ったく、こんな平和ボケしたバカガキが「鄭家の秘拳」をサークル感覚で学んでると思うと死ぬほどムカつくぜ』


『崩陣拳はとある理由から、「革新的な武術」と武術社会で高く評価された。だが当の鄭煕陽は自らが作ったその強力な拳法に対し、それ以上に危機感を抱いた』


 

 あらゆる言葉を用いて、崩陣拳という拳法を特別なものと表現した。


 誘拐事件から間もない頃は考える余裕がなかったが、最近になって疑問が再燃した。崩陣拳というものに対する疑問が。


 ……ここは、問う所だと思った。


「なあ、師父――――崩陣拳って、一体なんなんだ?」


 追いすがるような問いかけ。


 易宝はそれを境に、沈黙した。


 だが、やがてしばらくすると、


「きっと――近いうちに話してやれる。だからそれまではお預けだ」


 薄く笑いながら、保留の意を示した。


 ――そこから先は、何も聞けなかった。









 ――同時刻。


「クソッ……! 酷い目に、あったぜ…………!!」


 斎藤和希(さいとう かずき)はそう息切れ混じりに吐き捨てながら、路上端の自販機のそばにしゃがみこんでいた。


 もう二人ほどいる仲間が「ああ……」「あれはヤベーよ……」と同調の意を表した。


 和希は恐る恐る、自分の両前腕部にびっしり付いたソレへ目を向ける。


 手の形をした内出血の痕。


 女みたいな顔で、なおかつ華奢な体つきをした少年がこれを付けたのだと触れ回ったとして、一体何人が信じるだろうか。


「ヤベェよ、あいつ……絶対ヤベェ……!!」


 その少年――工藤要の顔を思い浮かべた途端、さっきのケンカの場面が否応なしに思い起こされた。


 新聞記事に貼ってあった写真だけでは、工藤要の背丈がどのくらいなのか正確に検討がつかなかった。だが今日初めて見た要は、思っていたよりもずっと小柄でほっそりとしていた。


 タイムマシンがあったなら――その頼りなげな見た目ゆえに侮ったさっきまでの自分を全力でぶん殴ってやりたい。


 工藤要を後ろから羽交い締めにした瞬間、勝ったと思った。レスリング経験者の自分の腕から単独で逃れられた者は、『五行社』の「土」以外に知らない。なのでこのまま仲間たちにボコ殴りにさせればいい。和希のグループは、今までそういう総合力を駆使してケンカに勝ってきたのだ。


 しかし、その予想はあっけなくぶち壊された。


 羽交い締めにされた工藤要が自分の前腕部を掴んだ瞬間、その箇所からとんでもない圧力を感じたのだ。


 工藤要の握力。


 その小さくなめらかな手と指は、見た目とは不釣合いな力で両前腕部を激しく圧迫してきた。


 最初は少し驚いただけで、別段気にも留めなかった。意外と力あるな、くらいにしか思っていなかった。


 しかしその力は徐々に強くなっていき、最終的には腕の肉を引き裂かんばかりにまで強くなった。


 和希はたまらず声を上げ、要を解放してしまった。


 そしてその爪痕が――こうして今もくっきり残っている。


 痕を目にして、改めて思った。工藤要は普通じゃないと。


 「羊の皮を被った狼」という言葉はよく聞くが、あの少年がまさにそれだろう。


 きっと、あとの二人も同意見に違いない。


「もう……シオ高にタカリかけんの、やめようぜ……」


 和希は呟いた。


 もしまたシオ高生に手を出したりなどすれば、工藤要がすっ飛んできて叩きのめされるだろう。まるで子を傷つけられた猛獣のように。


 二人は反対の素振りを見せない。なので自分と同じ思いであると解釈した。




「まったく、情けない人たちですねぇ。威勢がいいのはそのファッションだけですかぁ?」




 その時、嘲るような声が届いた。


 ……聞き覚えのある声。


 それも、自分の記憶の中で「とびきりヤバい奴」というカテゴライズがなされている人物の一人。


 ぎこちない首の動きで、和希は声のした方を向く。


 やはり、読んだ通りの人物だった。


「あ、あんた……「水」っ!?」


 そう、『五行社』に名を連ねる一人。水行の称号を担うその人だった。


 「水」は続けざまに言う。


「あなたたちのような弱小グループがシオ高生という金ヅルをなくしたら、僕らへの上納金を一体どうやってこしらえるって言うんですか? 盗難品の転売やひったくりなんて、もうちょっと手際がよくないと成功しませんよ?」


 ズバズバと切り込むような苦言。


 たとえムカついたとしても、自分たちではどうしようもない。全員軽々とあしらわれ、蹴散らされるのがオチだ。


「仕方ありませんから、あなたがたの無能は僕が補完してあげます。だから安心して今まで通り集金を続けてください。言っておくけどこれはあなたがたのためでは断じてありませんよ? 僕らに利益があるからやるだけです。暇なヤンキーの道楽じゃないんですよ『五行社』は」

「……いったい、何するつもりなんだ?」


 問う和希に、「水」はクックッと愉快そうに喉を鳴らしてから、嬲るような口調で答えた。


「なぁに――明日になったら分かりますよ」


読んで下さった皆様、ありがとうございます!


はてさて、このSSを勢いで書き始めて一年が経過しました(いや、書き直す前を加算するともう少しかかってますが……)。

早いものですねぇ(=^ェ^=)


これからも地道に書き積んでいきますので、どうか見守ってやってください。

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