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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第三章 水行の侵食編
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第三話 『高手(ガオショウ)』

「この夏臨玉、不覚を取ったか……」


 臨玉は苦い表情で、大皿に乗ったリンゴの切れ端の一つをフォークでさくりと刺した。


 数十年来の一勝負は易宝の勝ちで幕を下ろし、現在四人は再び居間のテーブルに座していた。勝負を行う前と同じ席位置で。


 四人の傍らには冷えた緑茶の入ったグラスが置かれており、テーブルの中央にはいくつかに等分されたリンゴの切れ端の乗った大皿がある。これらは先ほどの勝負で使われた二つのリンゴを切ったものだ。直射日光を浴びていたにもかかわらず、奇跡的にみずみずしさを失っていなかった。


「くくく、おぬしは頭に向かって来る飛び道具を、必ず頭の位置「だけ」をずらして避けるクセがある! 体力の消費を極力抑えるのには向いているが、今回ではそれがアダとなったのう、夏臨玉! あの位置から動かれたら流石に勝ち目はなかったわい。これでまた並んだのう」


 易宝はそううそぶきながらリンゴの切れ端を摘み、機嫌よさそうにかじりついた。


 逆に臨玉はフォークに刺さったリンゴの端っこを控えめに噛み取り、その高貴な執事服に似合わぬ貧乏臭い面持ちで口内をシャリシャリ鳴らしながら、


「負け犬の味がする…………うう……お嬢様にかっこいい所をお見せしようと思ったのに……なんと無様な…………」

「ぶ、無様だなんて! 大丈夫! 臨玉さんすごかったよ? わたしじゃ絶対あんな動きできないなぁー」

「ホントデスカー!?」


 菊子にフォローされた途端、しなびた花のようだった臨玉は嘘のように笑み満開となった。早っ、もう立ち直ったよ。


 だが、菊子の言うとおり、先ほどの勝負は確かに凄かった。


 卓越した身体能力は言うに及ばず、川の流れのように休みのない駆け引きの連続、そして、互いに一歩も譲らぬ勝利への執念。それら全てが常軌を逸していた。


 あれが、自分の遥か上に立つ武術家の戦い方なのだろうか。


 でも、


「凄いけど、やってることがリンゴの奪い合いだと思うとちょっと笑えてくるなぁ」


 要がそう軽い笑いを浮かべると、易宝が「甘いな」とばかりに口端を歪めつつ、


「さっきの勝負には、まあ確かに娯楽的要素もあるが、実は戦術の訓練にもなっとるのだぞ?」

「戦術?」

「そうだ。畳やリングの上でなら、アメ公ばりの(こす)いゲームメイクでもされん限りフェアな試合が望めよう。だが武術はそういった競技とは違う、戦うための技術だ。それゆえに一対多数、武器持ちが相手といった理不尽でアンフェアな状況下に追い込まれる時が必ず訪れる。そういった場面を切り抜けるには殴る蹴るの技だけでなく、地形や相手のクセといったあらゆるものを利用した戦い方も覚える必要がある。今回わしが自分のリンゴを中庭の塀で跳ね返らせたように、のう。わしらの勝負はケンカでもあるがその一方、ルールによってわざと動きをがんじがらめにすることで、その中でどう立ち回るかを工夫するための訓練なのだ。カナ坊、おぬしもあるはずだぞ? 秩序のない状況を工夫で乗り越えたことが」


 要は瞠目した。


 確かに、自分は今のところ薄氷の勝利ながらも、自分よりも強い相手を二人下している。そして、その時は決まって工夫し作戦を立てていた。

 竜胆正貴は、その戦闘スタイルの主軸ともいえる足を破壊し。

 追いつけないほどのスピードで動く林越は、自分の元へ到達するタイミングを計算し、その上で隙を作って猛攻を仕掛け。


「戦術」という言葉自体は敷居が高そうに聞こえるが、自分のやってきたことも立派なソレなのではないだろうか。


 なるほど。それは理解できる。


 しかし――


「あんたたちの闘いって、工夫とかそういう次元を超えてるように思えるんだけど……まるで――」

「「まるで、互いの未来の動きを知った上で動いているみたいだった」か?」

「っ!」


 易宝に口に出そうとしていた言葉を先に言われ、要は思わず面食らった。


 そう。そうなのだ。


 あの時の二人の攻防を見て、要はそれを強く感じていた。


 片方が攻撃を仕掛けて来て、その後にもう片方が対処するというのは分かる。相手のモーションがないうちから、適切な防御や回避などできる訳が無い。必ず前持った情報が必要だ。それが「普通」なのだ。


 しかし、先ほどの二人の攻防は――その「普通」を完膚無きまでにコケにしたものだった。


 例えば一番最初、互いのリンゴに手を伸ばし合った時。あの時、易宝は臨玉が動き始めてから反応したのではなく「動き始める前」から反応し、全身を捻りながら手を伸ばしていた。しかも、その伸ばした手はすぐ後に急接近してきた臨玉のリンゴとは僅差の位置だった。


 もう一つは、臨玉が飛び上がった時。滞空状態で人間は思うように動けない、そしてそこは大きな隙となる可能性を孕んでいると、いつだったか易宝に教わったことがある。まして臨玉の走雷拳は地に足を付いてこそ馬鹿げたスピードを叩き出せる拳法。宙を舞うなど魚が自ら陸地に上がるがごとき愚行のはず。だというのにそんな状態に身を置いたのは、それから一秒足らず後に繰り出された強大な『震脚』でバランスを崩されないようにするためだとしか考えられない。


 極めつけは、易宝が全身を捻る動作で臨玉の手を払った後、すぐさまそのリンゴを奪おうとして失敗した時だ。


 易宝はその時の臨玉の前蹴りに素早く反応し、片手でそれを防ごうとした。しかし実はあの段階では、臨玉はまだ蹴りの予備動作を行っていなかった。


「蹴り足を地面から浮かせ始めたのが見えたから反応した」のならまだ分かるが――その時の臨玉はまだ「それ」すらしていなかったのだ。


 これら全ての動作に共通している事は、「相手が攻撃を仕掛けるモーションを見せる前」に反応していたという点だ。


 偶然も三度続けば必然、という言葉があるが、今回はそれがあまりにも言い得て妙な気がする。


 もしかすると、この二人は――――


「工藤くん、君の考えている通りだよ。だが君の考えには一つだけ、小さいようで大きな間違いがある」

「間違い……ですか?」

「ああ。君は僕と易宝の闘いを見て「まるで、互いの未来の動きを知った上で動いているみたいだ」と心中で形容した。だがその形容の中には物事の本質を見誤らせる言葉が二つ入っている――「まるで」や「みたい」ではないんだよ」


 ――臨玉の言っている意味が理解出来なかった。


 いや、本当は理解できた。だがそれをティッシュペーパーが水を吸うがごとくすんなり受け入れてしまうと、自分の中で何かが壊れてしまうと思ったゆえに、潜在意識がリミッターをかけたのかもしれない。


 そう。「常識」というものの一部が壊される事を本能的に恐れて――


「我々には「()える」のだ――相手がこれからどのような動きをするのか、が」


 易宝のその言葉を聞いた瞬間、全身が総毛立った。


 隣を見ると、先程までリンゴを黙々とかじっていたはずの菊子も、食指が微動だにしていなかった。


 そんな自分たちを尻目に、臨玉は先を続ける。


「人間の脳というのは五感のうちいずれかを損失した場合、残った他の感覚の一部を強くして不足分を補おうとする本能のようなものが存在する。例えば視覚を失い全盲となってしまった人には、その失ってしまった視覚を補う形で触覚や空間認識能力が鋭くなった者が多い。発達障害や精神障害を持つ代わりに天才的なセンスを発揮するサヴァン症なんかも、もしかしたらそれに含まれるのかもしれないね。我々のこの能力は霊術や超能力の類ではなく、そういった脳の「感覚の不足分を補う働き」を活かして手に入れた、いわば第六感さ」

「第六感……?」

「そうさ。多くの闘いを経験していると、どうしても既存の感覚だけでは対応しきれない場合が多々出てくる。すると脳はそういった感覚的な「不足分」を補うべく、闘いで生き残ろうという本能のままに「新たなる感覚」を生み出す。それが我々の持つこの能力だ。銃弾は速すぎるため、撃ち出された後だと人間の筋反射のスピードではとても回避できない。だが僕らは発砲される前に、銃弾が発射されるという事実、タイミング、弾丸の通過軌道などを前もって「先読み」し、その上で動く事で、音速で動く物体も容易に回避できる。僕も易宝も数多くの闘いを経験し、その過程でこれを身につけたんだ」


 …………にわかに信じられなかった。


 臨玉は超能力ではないと言い張るが、要からすればそれは超能力と呼ぶにふさわしいものだった。


 だが、信じるための材料は先ほどの勝負でたくさん提供されている。


 思えば、臨玉が後ろから跳ね返って飛んで来たリンゴの存在に振り向かずに気づいた点も、普通ではありえない。だがその「先読みの能力」で読んだ上で回避したのだとすれば、理屈に穴が見当たらない。


 どうしていいかわからなくなった要は、冷たい緑茶でも飲んで気を紛らすべくコップに手を伸ばそうと思い至った刹那、


「おぬし今――コップに手を伸ばそうと思っただろう?」

「っっ!!」


 易宝のその指摘にビクッと反応し、思わず手を硬直させた。


 コップを持つはずだった手が職務を放棄し、じとりと手汗を浮かせながら懐で止まっている。


 してやったり、とばかりにニヤつく易宝。


「あ、お嬢様、今右頬っぺに触ろうとしましたね?」

「ひうぅっ?」


 見ると、菊子も同じような指摘をされ、驚きと戸惑いの同居したリアクションを見せていた。


 彼女はそのまま油の差していない機械のようなぎこちなさでこちらを振り返り、口パクでこう言った――「合ってる」と。


 ――嘘だろ。


「カナ坊、わざわざ頬を抓ろうとしなくても、これは夢でも幻でもないぞ」


 これは夢ではないかと確かめるための動作すら、易宝に先読みされた。


「まあ未だに半信半疑かもしれんが、確かに可能なのだよ「我々」には。そういった能力を持っているのが我々――――『高手(ガオショウ)』なのだから」

「ガオ……ショウ」


 聞き覚えのない単語を、要は我知らず諳んじていた。


 聞いた所、日本語ではない。おそらく中国語だろう。


「日本でいうところの「名人」とか「達人」かのう。英語圏じゃ「グランドマスター」なんて大層な呼び方もされていたな。『高手』とは武芸を学ぶ者の入神の領域、いわば「武人の究極体」だ。身体能力はいずれも常人の範疇を超え、その拳は同じ『高手』でない有象無象の武人を一殴りで屠ってなお釣り銭がもらえるほどの力を誇り、おまけに先ほど言った先読みの能力、それらを三拍子揃えた最強の存在だ。そしてその単独の戦闘力は――最低でも軍の特殊部隊一個小隊分に比肩する」


 あまりにオーバーな説明内容に、要は数秒間思考ごと硬直する。


 そして、盛大に吹き出し、バカ笑いした。


「あっははははは!! やだなー師父ー、冗談きついってーー!! そりゃ、師父と夏さんが強いのは認めるよ? でもさ、特殊部隊と同じくらいってのは……はははっ………! 漫画じゃねーんだから……くくっ……はっはっはっはっ!」


 だがその笑いは冗談を可笑しがるニュアンスだけでなく、先ほどの「先読みの能力」の時と同様、既成概念を打ち砕かれるのを阻止するための防衛本能的なニュアンスも同時に秘めていた。 


 しかしムキになるでもなく腹を立てるでもない、ただすまし顔で落ち着き払って座している自称『高手』二人を目にした途端、「易宝の話は本当なのかも」という考えを否応なく抱かされてしまった。


 そもそも、つい先程から信じざるを得なくなった「先読みの能力」ですら常識はずれな話なのだ。「単独で特殊部隊に比肩」なんてデタラメ臭い話を信じようとする方向に頭が働いてしまうのは、仕方の無いことだった。


「はははは…………ははっ……は……」


 笑っている自分がどんどん無様に思えてきた要は段々その笑声を縮めていき、やがて無音になる。


 そして、訊いた。訊いてしまった。


「………………まじ?」


 コクリ、と二人同時に首肯。


 ――なんてこったい。


「カナちゃん大丈夫? 心ここにあらずって顔してるよ?」


 菊子が何か言っているが、よく聞こえなかった。


 今の要はそれどころではなかった。


 ありえないはずの事象の存在を一気に二つも押し込まれたせいで、脳が絶賛エラー中。自分の頭の中のオペレーターたちは、そのエラー正常化にてんてこ舞いだった。


 はっきりしない思考状態のままの要をよそに、易宝はからかいの笑みを浮かべつつ、


「ひひひひ、まあそういうわけだ。だが『高手』はその分、それまでに至るための条件が非常に難しい」

「……じょうけん?」


 明瞭になってきた頭のまま、要は幼児のようなたどたどしさで訊く。


「自分の体に最も適した武術と気功術の功夫を高い水準で身に付け、なおかつそれらを満たした上で途方も無いほどの戦闘経験を積むこと。自分の体にそういった得難い「好条件」全てが噛み合った時、初めて『高手』が一人生まれる」

「……才能、とかじゃないんだ?」


 要のその言葉を、臨玉は一笑に付しつつ言った。


「才能なんてものは所詮、早く身につけられるかそうじゃないかの違いでしかないんだ。進む道が同じである以上、歩いても走ってもその道程と目的地は変わらない。それ以上に重要なのは――自分の肉体と相性のいい武術を見つけることだ」

「相性の良い……ですか?」

「そう。人間関係において、相性の良い人と良くない人がいるだろう? それと同じで、武術とその使用者の肉体にも一種の「相性」がある。先天的な相性が、ね。そしてそれは自分では決して気づけないもので、苦手な動きだらけな門派が実は相性の良い拳だったり、得意でやりやすい動作の多い門派が実はハズレだったりすることもある。『高手』になるには、そういった曖昧で不明確な「相性」を見つけなければならない。『高手』になりたかったとしても、自分の体と相性の良い武術をいつまでたっても見つける事ができず、そのまま生涯を終えた者も数多い。中国に伝わる拳の数は、文化大革命で多くの門派が失伝したことを含めてもまだ星の数ほど存在する。その中からたった一つの当たりくじを引き当てないといけないんだ。分かるかい、その難しさが? ある意味、才能の有無よりも厳しい条件なんだよ」


 要は驚きと理不尽さを同時に感じていた。


 確かにそれは大変な条件で、そして残酷な話かもしれない。努力云々の前に、まずは宝くじで一等を引き当てるほどの運が前提でなければ報われることがないというのだから。


 ある意味平等で、そして不平等。


 この二人はまさしく、広大な砂漠から望ましい砂粒一つを手に入れた強運の持ち主なのだろう。


 さらに次の瞬間――易宝は衝撃的な台詞を吐いた。


「そしてそれを見つけ、なおかつ気功術とともにハイレベルに昇華させ、その上で多くの戦いを経験する。そうすればいつか何の前触れもなく『高手』へと至っておる。武功と気功を同時に極めた『高手』は、みな常人よりも肉体年齢の経過が緩やかであるため、外見と年齢の齟齬が激しい者が数多い」


 え…………!?


 要は思わずテーブルに身を乗り出し、


「じゃあ、あんたたちの見た目が若いのって…………!?」

「『高手』の特権ってやつだのう。わし的にははっきり言って必要ないが」


 要と菊子は同時に息を呑んだ。


「カナ坊にはまだ教えていないが、気功術というのは仙人になるための修行法の一つ「内丹術(ないたんじゅつ)」の流れを汲む技術だ。外界から「気」という生命エネルギーのようなものを取り入れ、それを自在にコントロールして肉体に影響を与える技術。それとともに、さっき言った「自分の肉体と最も相性の良い武術」の功夫を高い水準まで鍛え上げると、その肉体が一種の化学反応を起こす。その化学反応によって『高手』の老化スピードが緩やかなものとなるのだ。だが別に仙人よろしく永遠に生きれるわけではない。人より少し年数が伸びて、体が耄碌するのが遅くなるだけだ。ま、これはオマケみたいなもんだな」

「そうだね。僕ら的には「別に見た目が若いから何?」って感じだし」


 そうしれっと言ってのける『高手』二人。


「……さあ、こんな話はもうお開きにして、そろそろ食事に戻ろうじゃないか。いい加減食べないと変色して美味しくなくなってしまうよ」


 臨玉のその言葉を合図に、全員がリンゴに手をつけ始めた。


 要も一切れ取ってかじりつく。


 だが、頭の中へ一気に押し込まれた非日常的な事柄に今なお気を取られているせいか、味を一切感じなかった。











 それからしばらくの間、四人は茶を傍らに談笑を繰り返し、気がつけばすでに二時間以上が経過していた。空はすでに夕方に差し掛かろうとしている。


 菊子と臨玉は帰ることとなった。いい加減今日の本来の予定を達しなければならないためだという。


「――本日はありがとうございました。リンゴとお茶、御馳走様でした」


 玄関口の前に立つ菊子が、背筋を伸ばして恭しくこうべを垂れる。


 相変わらず育ちの良さを感じさせる振る舞いだ。ついさっきまでとても名残惜しそうにフェイフォンを手放した気弱な女の子の姿が、そこにだけは無かった。


 菊子と臨玉は三和土(たたき)で靴を履いて立っており、自分と易宝がホールの段差側でそれと向かい合っている。


「いやいや。大したもんが出せなくて悪かったのう」


 易宝がからからと苦笑しつつ言う。


 対し、臨玉は不敵に口端を歪めながら、


「易宝。僕ら二人は今のところ勝ち星が並んでいるが、僕は「引き分けなら別に負けてないから、現状維持でいいや」なんて満足するような小さい男じゃない。近いうちにまた君を襲いに来る。くれぐれも油断しないでいることだね」

「ふん、上等だクソメガネ。いつでも来い」


 易宝も偉そうに鼻を鳴らしてそう返す。


 なんというか…………これはこれで、上手く回った関係なのかもしれない。


 仲良しこよしではないが、かといって憎しみ合うでもない。純粋に勝負事でつながった間柄。


 もしかすると、これが「ライバル」ってやつなのだろうか。


「あの……カナちゃん」


 そんな二人を苦笑いしながら見ていると、菊子が小さくそう呼びかけてきた。


 なに、と振り返る要。


 菊子は細くなめらかな両の人差し指を絡ませながら、もじもじと恥ずかしげに立っていた。


 すでに見慣れた仕草――そう思えたのは、彼女との距離が近くなったからなのか。


 そう考えると、何故か知らないが嬉しく感じた。


 やがて彼女は、決意を固めたような意気込みで口を開いた。


「また――来てもいいですかっ?」


 自分と、その隣の易宝に目を向けながらの言葉。


 だが彼女は、自分に対して特に多く視線を送っているような気がした。


 ――また、ここに来ちゃダメかって?


 そんなの、決まってる。


 要は易宝と一度顔を見合わせ、アイコンタクト。どうやら彼も同じ意見だったようだ。


 二人同時に前を向き直り、そして、


「いつでも来るといい」「好きな時に来なよ」


 同じタイミングで返答した。


「…………っ! あ、ありがとう……カナちゃん、劉さんっ……」


 すると菊子は今にも泣きそうな、だがそれ以上にとても嬉しそうな顔で笑う。


 要はそれを見て、呆れと微笑ましさを同時に心中に抱いた。よっぽどフェイフォンの奴が恋しいのか。猫思いだなぁ、もう。


「……む」


 だが隣の臨玉は、彼女とは逆にとても複雑そうな表情を浮かべていた。


 かと思えば、ズボンのポケット近くをしきりに何度も握ってせわしなさを見せる。一体どうしたのだろう。


 しばらくすると、突如臨玉がこちらへ近づき、自身の右腕を要の首根っこに回してがっちりホールドしてきた。ヘッドロックのような体勢だ。


「うわ! かっ、夏さん!? 何を!」


 臨玉は困惑の声を無視して要を段差から引きずり下ろし、三和土の端っこへ引き寄せる。


 そして、二人に聞こえないほどの小声で囁いてきた。


「工藤くん、これからもお嬢様と関係を続けるのなら――間違いだけは起こさぬように」


 恫喝するような声色だった。


 ていうか――間違いってなに?


「誤解しないでもらいたいが、僕はこう見えて君の事を非常に高く評価し、認めている。旦那様もあの事件以降、君に「いつでも気軽に遊びに来てくれ、歓迎するよ」と大変好意的だ。だから、もしもお嬢様が君ともっと「深く」関係を持ちたいというのなら、僕と旦那様は泣いて暴れるが最後は涙を飲んで受け入れよう。真に願うはお嬢様の幸福なのだからね。ただし――年相応の分別は最低限持ち合わせるように。間違っても在学中にお嬢様を妊娠させた、などという展開にはならないように」


 ギリギリギリギリギリギリギリギリ。


 そう自分の首を締める力は、菊子への愛をそのまま表現しているかのようだった。


 しかし、その膂力に苦しむ以前に、


「あ……ああああああああありえませんよそんなことっ!!!」


 要はこの上なく顔を真っ赤にしながら、全力で臨玉の言葉を否定する。


 ていうか前提からして間違ってるよ。別に俺とキクはそんな色っぽい関係じゃないし。まあそりゃ、大切な存在ではあるけど…………。


「カナちゃん、どうしたの? お顔が真っ赤っかですよ?」

「な、なんでもない!!」


 菊子の指摘を即座に切り捨てる。よかった、聞かれてないみたいだ。


「それではお嬢様、そろそろ出発しましょう」


 先ほどとは打って変わって涼しい笑顔を浮かべる臨玉が、菊子にそう促した。


「あ、はいっ」


 菊子は反応し、白いつば広帽子を深くかぶる。


 二人はくるりと踵を返す。


 臨玉が引き戸を開け、レディーファーストとばかりに菊子を先に通した。


「ばいばい、カナちゃんっ」


 戸を抜けて少ししたところで菊子は振り返り、嬉々として手を振ってそう声をかけてきた。


 要もにこやかに手を振り返すと、恥ずかしそうに一層帽子を深くかぶり、とてとてと走り去っていった。


 臨玉も軽くこちらへ会釈すると、戸を出て菊子の後を追った。


 易宝養生院が元の人数に戻る。


「やれやれ、おぬしもなかなか隅に置けん男だのう、カナ坊や」


 早速、易宝がニヤけた声と表情でそんなことをのたまってくる。


「どういう意味?」

「いーや、なんでもないぞ」


 意味を解しかねた要は思わず尋ねるが、易宝は意味ありげな口調ではぐらかす。なんなんだよ、もう。


「さぁてカナ坊——修行の続きといこうか?」


 ビクッ——「修行」というワードに、条件反射のように全身が固まった。


 そして、恐る恐る訊いた。


「…………『三宝拳』の練習?」

「たわけ。あやつら二人が来る前にやってたやつの続きだ」

「……覚えてないなぁ。最近物忘れが激しくて……」

「じゃあわしが代わりに教えてやる——刃物に慣れるための訓練だ」


 要は一気に玄関口まで駆け出——そうとしたが、その前に易宝に腕を掴まれてしまった。


「うわーー離せーー!! 俺はまだ死にたくなーーい!!」

「だーい丈夫だと言っただろうが。わしら『高手』には先読みの能力があるんだ。おぬしがビビってあらぬ方向へ動こうとしても、わしならそれを即座に読んで刀を空振らせてやることができる。だから……」

「だから?」

「安心して斬られい」


 安心できるかーー! そういう問題じゃねーー! 要のあらゆる叫び声が易宝養生院にこだまする。





 こうして、要は再び地獄を見たのだった。

読んで下さった皆様、ありがとうございます!


最近、カミナリ多いですね……

パソコンで文字打ってる時に停電した時は焦りました。パソコンはちゃんとした手順で電源落とさないと面倒くさいらしくて……今のところは何も問題ないですが。

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