僕と廊下で約束を
画面の割れたテレビを跨ぎ、なお逃がすまいとしている鉄骨の間を、体を横にしてすり抜ける。
みっちゃんが小さく悲鳴を上げた。振り返ると、おっぱいが邪魔をしていた。これはいけない、と僕は思った。
「みっちゃん、おっぱい大丈夫!?」
「無事!」
服が引っかかってしまっていた。一度退こうとして、服が嫌な音をたてる。
「みっちゃん危ない! 服とか、危ない!」
僕の言葉に頷く。こういう時、漫画では大きく服が裂けて男子の心をときめかせる。読者サービスである。しかしいざ目の前にチャンスが訪れると、ずいぶん慌ててしまうのだった。
そんな危機的状況でみっちゃんが鉄骨を握る。「えい」とかなづちでも振るうように一声上げると、悪魔の爪を柔らかに曲げてしまった。
ワイシャツは無事、ちょっぴり穴が開く程度で済んだ。
「ちょ、ちょっとみっちゃん、今なにしたの」
「曲げた!」
すり抜けると胸のあたりのほこりを払って、平然と言ってのける。
彼女の腕は、なんら変哲のない腕だった。つつくと「くすぐったいなあ」と面白そうに笑う。
僕と同じだ。
彼女も、変な病気にかかってるんだ。
胸の底から喜びがせり上がってくるのを感じながら、一つの確信めいたいものが首をもたげた。
やっぱりあそこは、病室なんかじゃなかった。
治療するための部屋ではなく、僕やみっちゃんを閉じ込めておくための、檻だったのだ。
長く伸びた廊下の壁沿いに小指ほどの配線や、腕より太いパイプが這っている。白熱灯は鼓動を打つように明滅して、生まれる影は暗かった。壁は濡れていてつやつやしていた。もしかすると僕らは蛇に飲み込まれたのかもしれない。
そんなことを思っていると、みっちゃんが「おおまきばはみどり」と歌い始めた。
「くさのうみ、かぜはふく」
「みっちゃん、静かに。見つかっちゃうよ」
「この辺り、わたしとギフト以外誰もいないみたい」
何を根拠にと思ってから、僕はみっちゃんの顔を見た。
「……分かるの?」
「わかるよ」
うさぎみたいに鼻をひくつかせ「においがしない」と得意げに言う。
「みっちゃん、それいつから?」
「それって?」
「腕と、鼻」
みっちゃんが眉をひそめる。
「ギフトはむずかしいことを言う」
「最近、熱を出さなかった?」
「ずっと健康だって言ったよ」
「お医者さんから何か試験を受けなかった?」
僕の言ったことを転がすように考えてから「うけてない」と答える。
僕は、空想カタパルトが高熱によってもたらされたと考えていた。それは今まで暮らしてきて、見たことも聞いたこともない現象だ。みっちゃんが見せたものもそれに近い。
でも熱を出していないという。それはどういうことなのだろう。
いつから強い腕力や嗅覚を得たのだろうか。僕はふと、さっきみっちゃんが言ったことを思い出した。「生まれたときから」
「ギフトも歌おうよ!」
考え事をしていたところ、右耳から左耳へ勢い良く駆け抜けた。
「今度はわたしの番!」
「……番って?」
「さっき、ギフトの質問に答えたでしょ? 今度はわたしの番だよ!」
「いいよ僕は」
「う・た・お・う」
耳元できぃんと余韻が鳴る。
「分かったよ。おおまきばはみどり」
みっちゃんは褒められた幼い子供のように頬を緩ませると、「よくしげったものだ、ホイ!」と、作曲家に謝った方がいいと思われる出鱈目っぷりを発揮した。
そうして「おお牧場はみどり」の一番を終え二番も越え、最後の「ホイ!」を最高潮で迎え歌い切る。コンサートをやりきったような表情で「つかれた!」と腕を振り上げた。
「それはこっちの台詞だよ」
「ギフトと歌うのは楽しい」みっちゃんが僕の手を取る。「ギフトと歩くのは楽しい。ぜんぶ楽しい」
並んで歩いてみて分かったが、みっちゃんは僕より少しだけ背が高かった。元より中学生と予想をしていたが、そんな風にさっぱり見えない。
こんなことあまり考えたくはないが――彼女はきっと、そんなに頭が良くない。話をしていて上手く意思疎通が出来ない感覚が、歳の離れた女の子に似ていた。
「みっちゃんは、生まれたときから部屋にいたって言ってたけど、友達はいなかったの?」
「いたよ。パパが連れてきてくれた」
「じゃあ寂しくはなかったんだ」
みっちゃんは濡れた犬みたいに首を振る。
「すぐ一人になっちゃうから」
長いまつげを下に向ける。「わたし、もうともだちはいらない」
ぴたりとみっちゃんが歩みを止める。みっちゃんが靴を履いてないことを思い出す。タイツを穿いているものの、裸足も同然だ。
「みっちゃん、僕の靴を――」
「ギフトはいなくならないでね」
つないでいた手に力が込められる。
「わたしといっしょに歩いて、話をして、そばにいるだけでいいから」
それを友達と言うんじゃないだろうかと思ったが、みっちゃんの透き通るような瞳に、僕は言葉が出せなくなってしまった。
こういう時だから、おっぱいを見てしまう。縁日で水に流れているヨーヨーのようにまんまるいおっぱいは、眺めているだけで落ち着いた。
ぼんやりしていたから「どうしたの?」と聞かれ、素直に「おっぱい」と答えてしまった。みっちゃんが僕の肩をたたく。「へんたい」
「ごめん、つい」
「ギフトはおっぱいが好きなの?」
「好きだよ」
「さわる?」
「触るのは早いかなあ」
触っていいよと言われて、何も考えず触るのではなんだか勿体ないように感じる。
「わび、とかさび、って言うのかな」
みっちゃんが眉をひそめた。
「ギフトはむずかしいことを言う」
「僕も、こればかりは難しいと思う」
大概、好きなものは真っ先に食べる僕だが、ことおっぱいに関してはまっしぐらになれなかった。理由は分からない。
「それなら」みっちゃんが手を合わせた。「ここから出たらさわるというのはどう?」
「ご褒美ということだね。それはいいかもしれないね」
「きまりだね」
みっちゃんが嬉しそうに微笑んだ。
「それより、靴。僕の貸すから」
「いいよ。わたし、裸足のほうがいい」
「タイツが汚れちゃうよ」
「じゃあおんぶして」
繋いでいた手を離し、僕に向かって両手を伸ばす。
「いや、駄目だよ。それじゃ僕はおっぱいに触れてしまう」
「あ、ほんとうだね」
伸ばした手は行き場を失い、病気の象の鼻みたいに垂れ下がった。
みっちゃんは頑なに靴を履くことを拒んだ。理由は「きゅうくつ」とのことだった。
無理矢理靴を履かせる趣味は無いので、仕方なく再び歩き出す。
*次回は18日19時頃更新予定です。