今日もただただ生きてて偉い
俺こと夏老真太は、前世では冴えないサラリーマンだった。
毎朝五時半に出社し、出勤のタイムカードを九時に押し、十七時に退勤のタイムカードを押して、二十六時まで自主的に居残りをする。
そんな生活を休みなしで三年ほど送ったある日、突然目の前が真っ暗になったと思ったら、気づいた時には俺はこの世界にいた。
異世界転移……というやつなのだろうか。
ここは剣も魔法もチートもない世界。そして、争いも悪意も、悪口の概念すらない世界だった。
昼過ぎを回って太陽も一段と高くなっていた頃、俺は目覚めた。
「あ、おはようシンタ。今日もきちんと眠れて偉いね」
隣で、綺麗な夕焼けのような髪を肩まで垂らした、白いワンピース姿の美少女が微笑んでいる。
俺と一緒に暮らしているアンナ、という女の子だ。
アンナは俺が訳も分からないままこの世界に来たあと、最初に出会った子だ。歳は十八歳だという。不思議なことに、前の世界では三十路を過ぎていた俺の体も、ここではティーンエイジャーほどに若返っていた。
「おはよう、って言ってもいいのかな。もう十三時回ってるけど」
俺はまだ眠たい目を擦りながら頭を掻いた。
昨日は二十二時に寝たから、十五時間くらい寝ていたようだ。昨日は本を読んでいたり、絵を描いていたりして、少し夜更かししてしまった。
「全然平気だよ。むしろ、無理に早起きしなくて偉いと思う」
そう言って、アンナが俺の頭を撫でた。
少し日に焼けた小麦色の肌が、真っ白なワンピースによく似合っている。
そう、この世界は何時に寝て、何時に起きても良いのだ。何なら一日中寝ていても、「そんなにゆっくり過ごせて偉い」とアンナは褒めてくれる。
まあ、彼女は早起きをモットーにしているらしく、毎朝十一時くらいに起きているのだが。偉い。
わざわざ早起きする理由を聞いてみたところ、早く起きると、俺の寝顔を見られてお得な気分になれるから、らしい。
また、寝ている間にも洗濯したり掃除したりと、色々と世話を焼いてくれる。これも本人いわく、「シンタのために何かするのが楽しい」からとの事だ。ありがたい。偉い。
つまり、Win-Winの関係である。
「もうお昼かあ……お腹が空いたから、近くで果物でも取ってこようかな。よかったらアンナの分も取ってくるけど」
「ありがとう。シンタのそういう気遣いができて優しいところ、本当に好きだな。でも、一緒に行ってもいい? せっかくだから少しお散歩しようよ」
「ありがとう、アンナもいつも褒めてくれて偉いな」
俺が褒めると、彼女は頬を染めて、すごく嬉しそうな顔をする。
こんなにチョロくて大丈夫かと、はじめは少し心配だったが、幸いにもこの世界に来てからの一年間、いまだに悪人どころか性格の悪い人にも会ったことがない。
村を出て少し歩くと、麦茶の小川とおにぎりのなる木が見えてきた。
お昼時だからか、木の下ではみんな仕事の手を止めてご飯を食べている。
俺とアンナに気付いた村長が手を振った。
「おーい。シンタ君、アンナちゃん。今日もちゃんとお昼にご飯を食べにくるのはいいことだ。素晴らしいね」
「ソンチョさん、こんにちは。いえいえ、当然のことをしてるだけですよ。お腹も減りましたし」
「いやあ、君は本当に謙虚で素直だな。当たり前のことを当たり前にできる人が一番偉いんだ。ささ、こっちに来て食べなさい」
村長が椅子を勧めると、アンナと俺はその席に座る。
前世の会社では、遅刻をしないとか、朝の掃除をちゃんとするとか、そういうことを「当たり前」と呼んでいた。そして、その当たり前ができないと「当たり前のことが当たり前にできない人」みたいに言われた。
だが、この世界ではそんなふざけた理屈は通用しない。安心して欲しい。この世界でそんな事を言う不埒者、いや、外道はいない。
この世界でいう当たり前とは、お腹が空いたらご飯を食べるとか、眠くなったら寝るとか、トイレに行きたくなったら我慢しないとか、そういうことだ。
コップで小川の麦茶を掬ってから、手を伸ばして枝からおにぎりの実を取る。アルミホイルで巻かれた包みを取ると、炊き立てのツヤツヤした白米が顔を出した。
一口食べる。
「シンタの食べっぷりって本当に気持ちが良いよね。見てるだけで、こっちまで幸せになっちゃう」
アンナが目を細めて俺を見た。
そんなに潤んだ視線を向けられると何だか食べづらいけど、そんなに幸せそうにされると、こっちまで嬉しくなる。
「おっ、おかかだ。当たりだな」
おにぎりの中身はおかかだった。
確か昨日は梅ぼしで、その前はのりたまだった。日替わりで具が違うので、食べていて飽きない。
この世界では、いろいろな食べ物がそこかしこに生えているので、働かなくても食事には困らない。
また、住民登録すれば、国が住む場所や洋服、ちょっとした生活費も全て用意してくれるので、自由気ままに生活できるのだ。国民性なのか、おかげで犯罪も聞いたことがない。
最初こそ悠々自適なその日暮らしをしていたのだけど、暇を持て余すのもなかなか大変なので、今はその日の気分で三日に一回くらいは二、三時間働くようにしている。
自分ではこのくらいは当然だと思ってるのだけれど、今や俺は村でもかなりの働き者と言われており、少しむず痒い。
まだ少し、前世のブラック気質が残っているのかもしれない。
それに、働いて貯めたお金で、毎月月末にアンナにプレゼントを買うのが俺の密かな楽しみでもあった。
「今日はこの後、またお仕事なの?」
アンナがそれとなく聞いてくるが、本音は、この後も一緒にいたい、ということなのだろう。
目を見ればわかる。このところ仕事続きで少し寂しい思いをさせてしまっているのかもしれない。
「うーん、今日はこの後、デザートの森に行って、プリンとチョコを食べるバイトが入ってるけど、よかったらアンナも一緒に行く?」
「行く!」
即答だった。
森にはプリンとチョコ以外にもケーキやシュークリームもなっているので、甘いものが好きなアンナにはもってこいの仕事だろう。
ちなみに、これが何の役に立っているかは不明だが、お金はしっかり貰えるので、そんなことは考えなくても良いことだ。
「あ……でも、食べ過ぎて太っちゃったらどうしよう。シンタに嫌われちゃうかも」
「アンナのおいしそうに食べてるところ、俺は好きだからそんなの気にしないさ。もし体重が気になってきたら、この前見つけた一粒食べれば一キロ痩せる木の実があるから、それも採ってきてあげる」
「ありがとう! 大好き!」
こらこら、人目があるところで抱きつくなよ。
そう思いながらも、不思議と悪い気はしなかった。
おにぎりの木の根元に付いている蛇口をひねって、食後の味噌汁を一杯飲んだ。
味噌汁は白味噌だった。ワカメと豆腐、そして九条葱。出汁が効いていておいしい。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
最近、デザートの森には「供物を要求する危険な魔族」が出るということを。




