第9話 二つの正義
翌朝の空は、雲が薄く伸びていた。夏の名残を削いでいくみたいに、風は乾いている。教室の窓を開けると、潮の匂いは弱く、代わりに消毒液のにおいが廊下から漂ってきた。保健室の前に新しい張り紙が増えたのだろう、とユウはぼんやり思う。
四限が終わるのを待って、ユウは屋上に向かった。ドアを押すと、甲板みたいな熱の抜けた風が頬に触れる。手すりにもたれていたのはトオルで、フェンスの影を足先でなぞるようにしていた。少し離れたベンチに、浅海ソラ。レンズを構えていない。鞄の口は閉まったまま、視線だけが校庭を流れていた。
「来たな」
トオルが振り向く。目の下の隈は、今朝より濃い。
ユウは深く息を吸って、センターで聞いたことの一部を話した。全部ではない。言葉にすると壊れてしまいそうな部分は、いったん胸に戻しておく。その代わり、選択肢の話と、サトルの仮説の骨だけを置く。
「再起動? 弁? ふざけんなよ」
トオルの声は一気に荒れた。手すりを叩いた音が乾いて響く。
「あの女のために世界を犠牲にするのか。そんな馬鹿、いるか」
ユウは何も言わずに立っていた。殴られてもいい、と思った。怒り先行の言葉には、言い返す言葉がどれも薄くなる。
間に入ったのは、やはりソラだった。背筋を伸ばし、しかし両手はポケットの中で落ち着かせたまま。
「トオル、落ち着いて。『犠牲』と『選択』は違う」
「違わねえよ!」
「違うさ。犠牲は、誰かが勝手に払わせるものだ。選択は、当事者が自分で引き受けるものだ」
ソラの声は低いが、角張っていない。トオルは舌打ちして視線を逸らす。フェンス越しに見える校庭では、一年生がバスケをしていた。掛け声が風に切れて運ばれてくる。
ユウは静かに言った。
「俺は目の前を選ぶ。ミナを失ったとき、統計や未来は何の助けにもならなかった」
トオルは振り向く。目は赤い。
「そのわがままが、他の誰かの妹を消すかもしれないんだぞ」
言葉は錘みたいに重かった。ユウはその重さを受け止めるしかない。ソラが小さく息を吐く。
「俺は記録者としては、世界が続く方がいい」
ソラは校庭を見たままだ。
「けど、一人の人間としては、目の前の友達を見捨てたくない。正しいことが二つあるとき、写真のフレームは一つだ。どこまで入れて、どこを切るか。切ったものは、永遠に写らない」
トオルは手すりから拳を離し、頭をかいた。
「わかってる。わかってるつもりだ。……でも、怖い。誰かを失うのが、怖くて仕方ない」
沈黙が屋上に落ちた。三人それぞれの呼吸音が、風の中で別々の方向へほどける。ユウは舌の裏に噛み殺した言葉を押し戻し、ただ頷いた。今は結論を押しつける時じゃない。押しつけられる話でもない。
放課後、議論は続いた。言い尽くしたと思っても、また別の入口が見つかる。正義はどちらかだけに与えられる旗の名前じゃない。どちらの手にも残る、消えにくい汚れのことだ。
「今日のところは、ここまでにしよう」
ソラが言った。「明日、また話せる」
トオルは何も言わず頷き、屋上のドアの向こうに消えた。
◇
夜、トオルは一人で研究センターを訪れた。白は、昼よりも硬い。警備員に用件を伝えると、しばらくしてサトルが現れた。白衣ではない。センターのエンブレムが入ったブルゾンを羽織っている。
「来ると思ってた」
「笑うなよ」
笑ってはいなかった。サトルは面談室へ案内し、椅子を勧める。卓上の蛍光灯の光は、昼間と同じ正確な白さで紙面を照らす。
サトルは淡々と話し始めた。実務的なリスク、想定の幅、制度の遅さ、予算の限界。言葉は固いが、芯は人間の声だ。
「ナミを中心に収束させれば、街単位の光化は遅らせられる。だが彼女の消耗は加速する。停止すれば、この町は救えるかもしれないが、他の地域に負担が跳ねる」
トオルは歯を食いしばった。
「選べるわけがない」
サトルは低く言う。
「それでも世界は、誰かが選ぶことでしか動かない」
沈黙。時計の針が等間隔に白を刻む。トオルは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「俺は、ちゃんと怒ってるからな」
「怒っていてくれていい」
サトルの返事はすぐだった。謝罪ではなく、受領の声だった。
◇
帰り道、海沿いの遊歩道は夜風が強かった。街灯の光が波の上で細かく揺れる。角を曲がったところで、トオルは立ち止まった。そこに、ナミがいた。潮風に前髪を押さえ、ぎこちなく会釈する。片方の袖のリボンは、昼よりも慎重に結ばれている。
「ごめんね、トオルくん」
ナミは先に言った。
「あなたを傷つけるためにここに来たんじゃない」
トオルは鼻で笑った。
「知ってる。だから余計に腹が立つ」
「どうすれば、いいと思う?」
トオルは答えない。並んで歩くしかなかった。足元の砂利が、無意味に音を立てる。
「トオルくん」
「なんだ」
「もし私が消えたら、ユウのこと、見ててくれる?」
返事は、喉の奥で固まった。約束の言葉は軽すぎる。誓いの言葉は重すぎる。トオルは靴先で砂利を蹴り、横を向いた。
「約束はしない。……俺が生きてたら、考える」
ナミは目を伏せ、口角をほんの少しだけ上げた。
「ありがとう」
その「ありがとう」は、たぶん今夜の誰の言葉よりも救いに近かった。
別れ際、トオルは思わず呼び止めた。
「なあ」
ナミが振り向く。
「お前、怖くないのか」
「怖いよ」
あっさり、言った。
「でも、怖いって言葉は、言うだけで形が固定されちゃうから、あんまり使わないようにしてる」
「ずるい」
「うん。ずるいよ」
ナミはそう言って、小さく手を振った。手の一部はもう、風の方が軽かった。
◇
町内放送が夜の空に滲んだ。「本日二十二時、防災サイレンがテストで鳴ります」。音量はいつもより低く設定されているように聞こえた。ユウは机の上のアルバムを開く。ミナの写真。笑っている。ページをめくる指先は震えない。震えたら、指紋だけがページに残る気がして、頑固に力を入れる。
花火大会のページで、ユウの指が止まった。写真の端、ぼやけた輪郭の中に、見知らぬ少女の横顔。鼻筋、目尻、髪の束の流れ。ナミに似ている。気のせい、と言うには似すぎていた。背筋が冷たくなる。偶然の枠の中から、何かがひとつ外に滑り出す。
その時、サイレンが鳴った。定時のテストにしては長い。ユウは顔を上げる。窓をわずかに開けると、冷たい風が入り、音が濃くなる。二十二時を越えて、サイレンは鳴り続けた。町のどこかで、誰かが窓を閉め、カーテンを引く。祈るように手を組む気配が、通り全体に増える。
遠く、海の向こうに光の柱が立った。一本、そしてまた一本。漁船の影が一隻、音もなく消える。見えたのは、光の反射の乱れだけだった。ユウは喉の奥で音を飲み込む。叫びは役に立たない。でも、胸の中で叫ばないと、今回は崩れそうだった。
アルバムに視線を落とす。ミナの笑顔の隣に、あの横顔。写真の粒子が、夜のざわめきに合図を送っている気がする。出会いは、偶然ではなかったのかもしれない。意図のある偶然。準備された必然。どちらにしても、今の自分が掴めるのは、目の前のページの角だけだ。
サイレンはしばらくして止んだ。静寂が、逆に耳を圧した。ユウはアルバムを閉じ、額に手を当てる。呼吸をゆっくり整える。明日に持っていくものと、今夜ここに置いていくものを、雑にでいいから分ける。そうしないと、眠りが来ない。
深夜、玄関のチャイムが鳴った。母はもう寝室で灯りを落としている。ユウがドアを開けると、サトルが立っていた。影は短い。表情は昼より少ない。
「決断の期限は近い」
サトルは前置きもなく言った。
「行政も動く。センターの裁量にも枠がある。君たちに委ねられる時間は長くない」
ユウは拳を握る。手の中に、昼間から持ち歩いていた紙片の角が当たった。見ている矢印。自分で描いた、頼りない線。
「俺たちのものを、俺たち以外の誰が決めるんだ」
サトルは一瞬だけ目を伏せ、短く頷いた。
「だから、来た。外から決められる前に、君の声を聞きに」
「俺の声なんて、たかが知れてる」
「たかが、で十分だ。『たかが』を集めるために、僕はここにいる」
玄関に立ったまま、二人はしばらく言葉を交わした。具体的な日時、会議の場所、関係者の顔ぶれ。乾いた現実の手触りが、ユウの肩に落ちてくる。逃げ道は、親切に用意されていない。
「一つだけ、聞かせてくれ」
ユウが言うと、サトルは顎をわずかに上げた。
「あのアルバムに写っていた子。花火の写真の端。あれは——」
サトルは少しだけ目を見開き、そして視線を逸らさずに答えた。
「確認する。すぐには答えられない。けれど、知る必要があるなら、君が知るべきだ」
「回りくどい」
「白は、はっきりして見えるけど、段階がある。段階を飛ばすと、誰かが眩しさで転ぶ」
サトルは深くお辞儀をして、踵を返した。階段を降りる足音が遠ざかる。ドアを閉めると、家の空気が少しだけ温度を取り戻す。ユウは背中をドアに預け、目を閉じた。明日の朝、走る。走ってから決める。決められないなら、走りながら持っていく。
◇
翌朝の空は、うすい。風は昨日と同じ速さで、違う匂いを運ぶ。昇降口の掲示板には、昨夜のサイレンについての「テスト延長」のお詫びが貼られていた。本当の理由を、誰も紙に書けない。書いたところで、読みたくない人の方が多い。
ホームルームの前、ソラがユウの机に来た。レンズのない視線は、よく届く。
「昨夜、港の灯が三つ消えた。漁協が朝から集まってる。センターの前に車が増える」
「知ってる」
「トオルは」
「来る。昼に屋上」
そのとき、教室のドアが開いた。ナミが立っていた。焦点は、昨日よりほんの少し遠い。歩幅は半歩短い。それでも、笑い方はまだ間に合っている。
「おはよう」
ユウは席を立ち、彼女の肩に歩幅を合わせた。リボンの結び目はきれいだ。ほどけないように結んだ跡が、指の節に残っている。
「昼、屋上に来てほしい」
「行く」
「話すことがある」
「うん」
ナミは頷き、窓際の席に座った。授業開始のベルが鳴る。担任はいつもより簡潔に連絡事項を読み上げ、黒板に日付を書いた。黒板の上の時計は、規則正しく進む。遅れない。急がない。誰の心も待たない。
昼休み、屋上に三人と一人がいた。ユウ、トオル、ソラ、そしてナミ。風は弱い。海の方角は白く霞み、町の屋根が重なり合う。ソラが手すりにもたれ、トオルは地面の割れ目を靴でなぞる。ユウはナミの隣に立った。
「選択の話だ」
ユウが切り出す。
「二つの正義。どちらも正しい。でも、同時には持てない。だから、今日の俺は、目の前を選ぶ。明日の俺が別のことを言ったら、そいつも殴っていい」
トオルは鼻で笑い、拳を軽く振った。
「殴る前に走らせる」
「走る」
「俺も、走る」
ソラは短く頷く。
「僕は、記録者としての正義を捨てない。でも、人としての正義を一緒に持っていていいなら、持つ」
ナミは風に髪を預け、フェンス越しの空を見上げた。白い雲がほどける。
「私も決めた。まだ結論じゃない。でも、方向は決めた」
「聞かせて」
ナミは少しだけ笑った。
「まだ、言わない。言った瞬間に、言葉が先に立つから。言葉より先に、今日の光を見ておきたい」
誰も異を唱えなかった。昼の光が、四人を均等に照らす。影は四通り、重ならない。それでも、足もとは同じ屋上だ。ひとつの場所に、四つの正しさが立つ。風鈴は鳴らない。鈴は鳴らない。代わりに、遠くから運動部の掛け声が上がった。
ユウは拳を握り、開いた。紙片の角は、今日も手の中にある。見ている矢印。頼りない線。二つの正義の間に橋を架けるには細すぎる。細すぎても、握っていられる。握っている間は、落ちない。
「放課後、防波堤」
ユウが言う。
「行こう」
トオルが答える。
「撮らないで、見る」
ソラが続ける。
「うん」
ナミは、ただ頷いた。
世界は誰かの選択でしか動かない、とサトルは言った。だったら、今日の俺たちは、今日の選択を持っていく。明日の選択は、明日持っていく。二つの正義は、順番にしか抱えられない。落とした方は、明日拾いに来る。
風が、四人の間を縫って通る。潮の匂いは薄い。鐘は鳴らない。祈りは短い。具体的だ。
どうか、間に合うものが、一つでも多く。
どうか、間に合わないものに、形が残るように。
白い雲が、ゆっくりと千切れていった。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。四人は互いに顔を見て、小さくうなずいた。それだけで、今日は十分だった。明日はまた、明日の分だけ足りない。足りないものは、走って取りに行く。走れなくなったら、歩いて取りに行く。歩けなくなったら、立って待つ。そのときは、誰かが来る。来られるように、今日のうちに道の途中に目印を置いておく。
白い壁の向こうで、サトルはきっと時計を見ている。行政は書類を揃え、印鑑を探している。海は、今日も規則正しく満ち引きする。世界は続くふりが上手い。それでも、ふりの下に、確かな足音がある。四つの足音が、屋上の床板に薄く刻まれる。
ユウはナミの方へ手を差し出した。ナミは少しだけ迷ってから、その手を取った。手のひらの温度は、昨日と変わらない。変わらないものが、今日も一つあった。変わらないものが、一つあれば、変わるものに名前をつけられる。名前をつけたら、見失いにくくなる。見失いにくくなったものは、少しだけ長く残る。
チャイムが止む。階段へ向かう。ドアの前で、ユウは一度だけ振り返った。フェンス、空、遠い海。全て、同じ場所にある。二つの正義は、今日のところは隣り合って立っている。殴り合いは、今日は要らない。殴り合いの代わりに、走る準備をする。声は大きくないが、息は入る。
授業が始まる。黒板のチョークが、白い線を真っ直ぐ引く。白は怖い。でも、恐れたままでも線は引ける。その線を、今日の自分の歩幅でまたぐ。歩幅は短くても、前だ。前であれば、それでいい。今日は、それでいい。明日は、明日の分だけ、もう少し。




