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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第8話 研究センターの白

 臨海医科学研究センターは、港に背を向けるように建っていた。

 白い壁、白い床、白い照明。白は清潔の色だと誰かが言ったけれど、ここにある白は、たぶん忘れさせるための白だ。匂いも音も、余計な色も、みんな薄めて、見えるものだけを整える。受付カウンターの向こう、女性の白衣の袖口から覗く静脈の青まで、白に飲み込まれているように見えた。


 自動ドアの前で一度だけ深呼吸して、ユウは中へ入った。

 場違いな自分のスニーカーの汚れが、床の光にやけに目立つ。

 横を歩くナミは、いつもより背筋をまっすぐにしていた。片手のない袖は、朝結んだリボンのまま。解けないように、何度も指で確かめた跡がある。

 受付の女性は、事前に連絡が入っていたのか、名前を聞くより早く会釈をして、来客者カードを二枚差し出した。


 「白石ナミさん、春日ユウさんですね。こちらへどうぞ」

 通された廊下は、窓ガラス越しに海が薄く見えた。波は遠く、音は届かない。

 案内された面談室には、既視感のある横顔があった。

 生徒会長のサトル。いつもの制服ではなく、胸元にセンターの職員証を下げている。

 「来たね」

 思っていたよりも低い声。冷たくはないが、家庭科室の蛇口みたいに無機質に整った温度だ。


 ユウは一瞬だけ立ち止まり、それから椅子を引いた。

 ナミは向かいに座り、サトルをまっすぐに見る。

 彼は薄いファイルを机の上に広げ、中の紙を並べ始めた。

 「終焉病に関する今の統計。町のデータ、県のデータ、国のデータ。光化の進行段階と、既存の介入の限界」

 指先で紙を押さえ、説明は歯切れがいい。

 ユウの視線は文字の上を滑っていくばかりで、内容が掴めない。数字は現実なのに、今は誰かの夢の落書きみたいに遠い。


 サトルは次に、白い封筒を取り出した。

 表に〈白石ナミ〉と印字されている。

 「閲覧の同意が必要だ。読む覚悟はある?」

 ナミは頷き、封を切った。

 中から現れた書類は、いくつかの時代を跨いでいた。出生時の記録、幼児期の健康診断のコピー、数列のように並んだDNA配列の断片、そして一枚の、冷たい活字。

 〈再生因子保有者・試作体04〉

 ユウの喉が鳴った。

 サトルは視線を逸らさずに続ける。

 「終焉病は環境因子でも感染症でもない。僕らは仮説を採っている。人類の『再起動』だ。蓄積しすぎたものを、光に変えて放出し、世界のシステムを軽くする。君たちの世代の脳と身体に、無自覚にたまった“全体の疲労”を、どこかで逃がす仕組み。ナミは、その流入と流出を制御するための“弁”として、設計された可能性がある」

 「弁って、何だよ」

 ユウは思わず立ち上がり、机の縁を掴んだ。

 「彼女は、人間だ」

 サトルはユウを見返し、言葉を選ばなかった。

 「それでも、だよ。人間でありながら、役割を負わされた存在だ。君が怒るのは当然だ。でも、これはここで生まれた事実だ」

 言い争う気配を、ナミの声が切った。

 「……知ってたよ。全部じゃないけど、なんとなく」

 ユウとサトルが同時に彼女を見る。

 ナミは書類から目を離し、笑おうとして、うまく笑えなかった。

 「だから写真を拒んだの。記録されるための生じゃないって、自分に言い聞かせたかった。浅海くんのせいじゃない。私のせい」

 サトルは目を伏せ、封筒を袋に戻した。


 室内の空気が白くなりすぎて、息苦しくなった。

 サトルが小さく息を吸う。

 「休憩にしよう。廊下に自販機がある。甘いものを飲んだほうがいい」

 ユウはうなずくことしかできず、立ち上がった。


 廊下は、面談室よりも少しだけ人間の匂いがした。

 自販機の前で、缶コーヒーを二本。

 ベンチに腰を下ろし、ユウは額に手を当てた。

 「どうして、今まで黙ってた」

 黙っていたのは、サトルでもセンターでもなく、隣にいる彼女に向けての言葉だった。

 ナミは缶のプルタブに指を掛けて、開ける前にユウを見た。

 「だって、黙ってても君は一緒にいてくれたから」

 それはずるい答えだった。

 でも、ユウは返す言葉を失った。

 開けた缶から立つ湯気が、白い廊下に紛れて消える。

 「私、弁なんだって。水道の蛇口みたいだね。開けたり閉めたりして、流れを調整するの」

 「そんな言い方、するな」

 「ごめん。でも、言葉を柔らかくしないと、硬いまま喉に刺さるから」

 ユウは黙ってうなずいた。

 彼女の声は落ち着いているのに、握る缶の指先がほんの少し震えているのがわかった。


 休憩を終え、面談室に戻ると、サトルは机の上の紙を二枚に分けていた。

 「選択肢は二つ。ひとつは、ナミを中心に流入を収束させること。世界全体の光化を遅らせる代わりに、彼女の消耗は加速する。もうひとつは、ナミのプログラムを止めること。局所的に終焉の流れを断ち切る。彼女の消耗は抑えられるが、均衡が崩れて、別の場所で大きな崩れが起きる可能性が高い」

 ユウは紙を見て、すぐに顔を上げた。

 「選ばせるのか」

 「酷だと分かっている。でも、選ばないことも選択だ。時間は、短い」

 サトルの声は、最後だけに少し熱を帯びた。

 ナミは椅子の背にもたれ、天井の白をじっと見た。

 「私が選ぶの?」

 「君が選んでいい。でも——」

 サトルは言いかけて黙る。

 「君が選ばなくても、世界は勝手にどちらかに転ぶ。だったら、選んでほしい」


 返事は、その場では出なかった。

 紙の白が、海の白よりも遠い。

 ユウは、ナミの視線の先から目を逸らさないように、ナミの横顔だけを見ていた。

 彼女の輪郭は、今日もまだ、ここにある。


 建物を出ると、潮の匂いが強かった。

 白ばかり見続けた目には、夕焼けがきつい。

 港の空には、点々と光の粒が浮かんでいる。消えた人々の残光か、海風に舞う塵か、どちらでもよかった。

 「ねぇ、今日は寄り道してもいい?」

 ナミが言った。

 「どこへでも」

 「防波堤」

 ふたりは海沿いの道を歩いた。センターの白が背後に遠ざかるたび、色が戻ってくる。


 防波堤には、夕飯前の人たちがまばらに座っていた。

 堤防の縁まで歩き、二人で腰を掛ける。

 波打ち際に落ちたガラス片が夕陽を反射して、ナミの欠けた手の先に小さな星座のような光を描いていた。

 「きれい」

 ナミは素直に言った。

 ユウは思い出す。ミナが熱を出した夜、額に貼った冷却シートの表面で光が流れたあの模様。あのとき、ミナは笑って、すぐに寝た。眠るときの顔は、いつも少し子どもに戻る。

 胸の奥が痛む。

 「俺は、たとえ世界がどうなっても、お前を守る」

 言葉はまっすぐに出た。

 ナミは「重いね」と冗談めかして笑うけれど、その笑みの端はわずかに震えていた。

 「重くないと、持っていかれるから」

 「何に」

「白いもの全部に」


 堤防の下、砂浜に降りる階段は湿っていて、足元が少し滑った。

 夕陽が低く、二人の影が長い。

 「サトルは、嘘をつかないね」

 「たぶん、つけない」

 「じゃあ、あれは本当なんだ。選択肢、二つ」

 「……ああ」

 「春日くん。私、どっちを選んでも、きっと後悔すると思う。だから、後悔しない方を選ぶんじゃなくて、後悔するのに耐えられる方を選ぶ」

 ユウは砂を踏みながら、彼女の言葉を胸の中で転がした。

 耐える。

 走るときに覚えた言葉だ。苦しくても、フォームを崩さない。崩したほうが楽になる瞬間は、いつだってある。でも、崩した後で戻すのは、崩す前の何倍も難しい。

 「俺は、どっちでも君の手を握ってる」

 「片方しかないけど」

 「それでいい」


 波が寄ってきて、つま先を濡らした。

 ナミは濡れた砂を踏んで、小さな円を描く。

 円の中心に、拾ったガラス片を置いた。

 「これ、星の真似」

 「どの星」

 「どれでもない星」

 「どれでもない星、好きだ」

 「でしょ」

 ナミは笑い、ポケットから小さな紙片を取り出した。センターで手渡された注意事項の裏面だ。

 そこに、さらさらとペンで線を引く。

 「何を書いてる」

 「流れ」

 ナミはペンを止め、ユウに見せた。

 紙の上には、矢印がいくつも描かれている。海から空へ、空から街へ、街から人へ、人から光へ、光からまた海へ。閉じるのではなく、薄くほどける円。

「止めるのは、怖いね。どこかに溜まるから」

 「止めないのも、怖い」

 「そう。だから、弁が必要だった。……弁のまま終わるのは、やだ」

 ユウは答えを急がなかった。

 かわりに砂に膝をつき、ナミの描いた円の外側に、もうひとつ小さな線を足した。

 「見ている、って矢印」

 「誰が」

 「俺が」

 ナミは目を細めた。

 「それ、いる?」

 「いる」

 「じゃあ、描いて」


 風が強くなり、紙片がふわりと踊った。

 ナミが慌てて押さえる。指先は透けているのに、ちゃんと重さがあるように見えた。

 「ねえ」

 「何」

 「明日も、ここに来ていい?」

 「いい。毎日来よう」

 「毎日は飽きるよ」

 「飽きたら別の場所に行く」

 「……そうだね」


 陽が落ちきる前に、堤防の上から名前を呼ばれた。

 「おーい」

 浅海ソラが手を振っている。トオルの姿はない。今日はバイトだと言っていた。

 ソラは階段を降り、二人のそばまで来ると、肩から外した鞄を砂に置いた。

 「撮らない」

 最初に言ったのは、その一言だった。

 「今日は?」

 「今日は、見て帰る」

 ユウは頷き、ナミは小さく笑った。

 ソラは海を見ていた。

 「面談、聞いた」

 「誰から」

 「誰でもない。表情でわかる」

 「探偵みたいだな」

 「写真部だから」

 ソラは両手をポケットに入れ、足元の砂を軽く蹴った。

 「選ぶのは、君たちだ。僕は、君たちが選んだ日を、見逃さないようにする」

 「撮らないって言ったのに」

 「撮らなくても、見逃さない方法もある」

 ナミはソラを見て、ふっと息をこぼした。

 「浅海くん、ずるい」

 「よく言われる」


 夜が降り始めると、港の灯がひとつずつ点いた。

 センターの白い壁は、もう見えない。

 かわりに、街の家々の窓が四角く光り、遠くの観覧車は動いていないのに、鉄骨が潮で光る。

 ナミは立ち上がった。

 「帰ろう。今日の分、残しすぎると明日に響く」

 「明日に響く?」

 「うん。残すのは、少しずつでいい」

 ユウはうなずき、歩き出した。

 ソラは少し後ろをついて来る。三人の足跡が、波に消される前に、短い列をつくる。


 帰り道、センターの前を通ると、ガラスに中の灯が反射して、街の光景が薄く二重に重なって見えた。

 ナミがガラスに近づき、自分の姿を映してみる。

 片手のない輪郭が、ガラスの表面でさらに薄くなる。

 「白って、怖いね」

 「怖い」

 「でも、今日の白は、なんとか歩けた」

 「明日の白も、なんとかする」

 「頼もしい」

 ナミはそう言って、わざとらしく胸を張った。

 ふたりの影が重なり、ソラの影が少しだけ離れて重なる。


 角を曲がると、坂の上に町の神社の屋根が見えた。

 先週の夏祭りの提灯はもう外されて、鈴は風に鳴らない。

 ナミが足を止めた。

 「寄ってもいい?」

 「いいよ」

 階段を上り、賽銭箱の前に立つ。

 ナミは手を合わせた。

 目を閉じない祈り。

 ユウも隣で手を合わせ、目を閉じない。

 祈りは短く、具体的に。

 今日覚えたやり方で。

 どうか、間に合うものが一つでも多くありますように。

 どうか、間に合わないものに、形が残りますように。


 家の前で別れるとき、ナミは振り返らなかった。

 振り返らない背中が、今夜は確かだった。

 玄関の灯りが点き、ドアが静かに閉じる。

 ユウはポケットの中の紙片を確かめた。

 あの円。

 見ている矢印。

 指で端を撫でると、紙は少し柔らかくなる。

 明日のポケットにも、入れておこうと思った。


 夜、ベッドに横になると、天井の白が昼よりも青く見える。

 携帯が震えた。

 ナミから。

 『今日、ありがと。明日も、行けたら行くね』

 『行こう。行けなかったら、探す』

 送ると、既読がついた。

 『重いね』

 『重くないと、持っていかれるから』

 返事は来なかった。

 来なくても、いい夜がある。


 目を閉じると、センターの白と、海の青と、ガラスの星座が交互に浮かぶ。

 サトルの言った「二つの選択肢」が、胸の中で形を変えながら居座っている。

 選ぶのは明日じゃないかもしれない。明後日かもしれない。もっと先かもしれない。

 それでも、走るコースに目印を置くみたいに、今のうちに心に白線を引いておこうと思った。

 迷ったら、ここに戻る。

 戻って、また走り出す。

 そのための線だ。


 窓の外で、遠く、遅れて上がった花火がひとつだけ小さく開いた。

 音は届かない。

 光だけが届いて、天井の白に薄く映る。

 白は怖い。

 でも、怖いものに目を開けたまま色を流し込むのが、きっと、今の自分の役目だ。

 ユウは布団を引き上げ、胸の上で拳を握った。

 握った手の中に、紙片の角が小さく当たる。

 その感触は、重すぎず、軽すぎなかった。

 明日も、持っていける重さだった。

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