第7話 欠けていく輪郭
夏祭りの夜から一週間。
白石ナミの左手は、戻らなかった。
戻らないというより、そこにあるべき形のほうがいつの間にか「なかったこと」にされていく。袖の中で肘から先が淡い光の粉になって風に溶けるたび、春日ユウは反射的に掴もうとして、指先を空振りした。掴みそこねた指は空を切り、軽い痛みだけが手のひらに残る。
学校は変わらないふりを続けている。
出欠を読み上げる担任の声は抑え気味になり、空席の名札は黙って外されて、黒板脇の「行事予定」の紙は何度も書き換えられては未定に戻る。
終焉病が日常を浸食して、町全体が息を潜める生き物になったみたいだ。休み時間に笑い声が上がると、誰かが無意識に窓の外を見て、笑い声はすぐ小さくなる。
始業前、写真部の浅海ソラが音もなく教室に現れた。
ナミの席の前に立ち、袖口に視線を落とす。
「撮らせて」
短いお願いだった。
ナミは穏やかに首を振る。
「私を残す写真はいらない。あなたの目に今の世界が残れば、それで」
ソラは言葉を失い、代わりに教室の窓を開けた。
海が見える。波は規則正しく寄せては返すのに、沿岸の漂流物は増え、堤防の上に座る大人の背中はどれも丸い。
シャッターは海に向けて一度だけ落ちた。
「今日は、それでいい」
ソラはそう言い、レンズキャップを戻した。
ユウは机の下で拳を握っていた。
「大丈夫?」
ナミが小声で尋ねる。
ユウは頷いた。頷くことなら、まだできる。
「後で、屋上行こう」
「うん」
◇
昼休み、屋上。
フェンスの向こう、海は薄い灰色で、漁船の音だけが遠くから届く。
ナミはベンチに腰掛け、片方しかない袖を小さなリボンで結び直した。
「結び目、きれいにできてる」
ユウが言うと、ナミは照れたように笑った。
「朝、何度も練習した。ほどけたら困るから」
ユウは言葉を選び、結局、選ばないことにした。
「困る」
「うん」
風が強くなり、ベンチの足元で落ち葉が踊る。
ナミの髪が揺れ、光がその間を通る。
「春日くん」
「何」
「わたし、歩く速度がちょっとだけ変わったの、気づいてた?」
「……気づいてた。昨日より半歩、ゆっくり」
「そう。階段の段差も、前より数えるようになった。視線の止め方も変だって、鏡でわかった。笑い方は、まだなんとか」
冗談みたいに言うけれど、声は少しだけ掠れていた。
「欠けていくのは、手だけじゃないんだ」
ユウは膝の上で指を組み、ほどいた。
「俺は、君の輪郭を守る」
それは勢いで出た言葉ではなかった。走っているときに何度も頭で繰り返した台詞で、口に出した瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
ナミは目を細め、フェンス越しの光を見上げた。
「守られてる感じ、ちゃんとするよ」
「なら、よかった」
「でもね、輪郭って、誰かがなぞってくれるから残るものなんだって、最近思う。私ひとりだと、すぐ薄くなる」
「何度でも、なぞる」
「うん」
◇
放課後、昇降口で黒瀬トオルに呼び止められた。
朝から目を合わせようとしなかった親友の声は、乾いていた。
「ちょっと、いいか」
「うん」
ふたりは校舎裏を抜け、堤防へ向かう道に出た。道端の掲示板に、市の対策本部からの新しい紙が貼られている。“夜間の単独外出は控えること”。紙は風で角がめくれ、前の告知の上に重なっている。
入り江。
小石の多い浜辺に降りると、トオルはスニーカーの先で小石を蹴り、拾い上げて海へ投げた。
石は二度跳ねて沈む。
「お前、ずっとナミと一緒にいるつもりか」
「……たぶん」
ユウは即答できなかった。
トオルは目を逸らしたまま続ける。
「俺は、あの子が怖い。怖いのに、好きだ。笑えるだろ」
「笑えない」
「そうか。俺は笑ってることにしてる」
トオルはもう一度石を投げた。今度は一度だけ跳ねて沈む。
ユウも石を拾い、投げた。三度、跳ねた。
勝敗の軽さが、むしろ重い沈黙を連れてくる。
「春日」
「なんだ」
「お前があの子を守るって言うなら、俺はお前を守る。……そう言ったら、ダサいか」
「ありがたい」
言ってから、波音に紛れて小さく笑った。
トオルの肩の力がわずかに抜ける。
「明日の朝も、走るのか」
「走る」
「起きられたら、行く」
「起きろ」
◇
帰り道。
坂の上のバス停の陰で、ナミが待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
ユウは間抜けな挨拶を返し、すぐ言い直した。
「病院、行こう。大きいところ」
ナミは笑い、海風に髪をなびかせる。
「診断名がわかっても、私の輪郭は戻らないよ」
「それでも。俺は、直したい」
ナミは少しだけ目を伏せた。
「じゃあ、明日、研究センターに行こう。市の、終焉病の窓口があるところ。私も……答えを確かめたい」
「一緒に行く」
「うん」
ふたりで歩く。
夕暮れの町は、家々の窓から灯りが漏れ、商店街のシャッターに残る指の跡に小さな影ができる。
ナミの歩幅はやはり半歩、昨日よりゆっくりだ。
袖の結び目が、風にほどけそうでほどけない。
ユウはその結び目を見ながら、手を伸ばした。
「ほどけたら、結ぶから」
「ほどけなくても、結んで」
「わかった」
◇
夜、ユウは走った。
陸上部の頃のコースを辿って市民グラウンドへ。誰もいないトラックで、足音だけがはっきりと響く。
一本目の直線は、身体に火をつけるための距離。コーナーで呼吸を整え、二本目の直線でスピードを上げる。
息が切れる。視界が滲む。直線の終端にミナの背中が見えた気がして、ユウは立ち止まった。
スタートラインの白線に膝をつき、額を腕に押し当てる。
ポケットの携帯が震えた。
画面に灯る短いメッセージ。
『明日、迎えに行くね。消えなかったら』
彼女が自分のことを冗談みたいに書くとき、それは祈りだ。
ユウは『消えない。迎えに来い』と打ち、送信した。
流星のような光が遠い空でほどける。
トラックの外周に沿って風が抜け、スタートラインの白が夜目にもくっきりと浮かぶ。
走り直そうと立ち上がったとき、もう一本、携帯が震えた。
トオルから。
『起こしてくれ。朝』
ユウは短く返信した。
『六時。門の前』
『おう』
画面を暗くして、再び走り出す。
身体は重いのに、足はまだ出る。走ることは、思っていたよりも長く自分の側に残ってくれていた。
◇
翌朝、校門前。
ナミは片手のない袖をリボンで結び、明るく手を振った。
トオルは寝不足の目であくびを隠し、ソラはカメラの入っていない鞄だけを肩にかけている。
「行こう」
ナミの声は晴れていた。
ユウは気づく。ナミの瞳の焦点が、昨日より少しだけ遠い。
欠けていくのは手だけじゃない。
笑い方の癖、視線の止め方、歩幅――その全部が淡くなっていく。
けれどナミは言う。
「今日の光、きれいだね」
「……ああ」
ユウは答えた。
「俺は、君の輪郭を守る」
研究センターは、市役所の裏手にある低い建物で、入り口のガラス戸は磨かれていた。
受付で名前を書き、面談室に通される。
白い壁。四角い机。紙コップの水。
対応に出てきたのは、落ち着いた目をした女性職員だった。
「お越しいただいてありがとうございます」
マニュアルの第一声。けれど、決して冷たくはない。
「終焉病の相談ですよね。症状の進行を、感じておられる」
ナミは頷き、袖の結び目をほどいた。
肘から先は、やはりそこになかった。
職員の女性は目を逸らさなかった。
「痛みは」
「ありません」
「体温は」
「指先のほうから、感じにくくなっていく感じです。今は、ここ」
ナミは鎖骨のあたりを軽く押さえた。
女性はうなずき、机の端に置いたタブレットに何かを打ち込む。
「つらいことを伺います。最近、記憶の抜け落ちや、時間の感覚の変化は」
「少し。昨日、部屋の鍵をどこにかけたか忘れて、でも探す前に『探す動き』の方を忘れそうになって」
女性は深くうなずき、ペンを置いた。
「医療的な介入は、今のところ有効なものがありません。すみません。お伝えできるのは、症状の進み方の目安と、心身の安全のための注意だけです。本当に、すみません」
謝る声は、思っていたよりもずっと生身だった。
「ただ……記録については、ご本人の意思が最優先です。残すか残さないか。誰に見せるか見せないか。『誰のため』の写真かを、どうか自分で決めてください」
ソラがわずかに息を飲む。
「残したくない日が、あります」
「もちろんです」
女性は穏やかに微笑み、ユウの方を見た。
「側にいる方のケアも、大事です。倒れないでください。逃げてもいいです。戻ってくだされば、逃げたことは『残ったこと』になります」
ユウは、はい、と答えた。
面談室を出ると、センターの廊下はきれいに磨かれていて、誰かの靴音が遠くから近づいては通り過ぎる。
自販機の前で立ち止まり、三人分の水を買った。
ナミは紙コップを両手で包むように持ち、ゆっくり飲んだ。
「答えは、思ってた通りだった」
「つらい」
ユウが言うと、ナミは首を振った。
「つらくない。今のところは。……ねえ、春日くん。私、今日一日、撮られたくない」
ソラが頷く。
「撮らない。明日も、君が『撮らない』って言ったら撮らない」
「ありがとう」
ナミは息を吐き、立ち上がった。
「じゃあ、海に行こう。光のあるうちに」
◇
昼下がりの海は、潮が高かった。
堤防の上に並んだ人々の背中は、どれも丸い。
ナミは波打ち際の手前で、靴を脱いだ。
「冷たいかな」
「たぶん、冷たい」
ユウが笑うと、ナミも笑う。
「冷たくても、いいや」
彼女は足を浸し、砂を踏んだ。
左袖の結び目が風で揺れ、ほどけそうでほどけない。
「春日くん」
「何」
「もう一つ、お願いしてもいい?」
「なんでも」
「私の歩いた跡、消えちゃう前に、見てて」
「見る」
波がさらい、足跡はすぐに崩れていく。
崩れる前に、ユウは目に焼き付けた。
形が曖昧になっても、砂の圧は残る。
踏まれた砂は、少しだけ暗い色になって、乾くまでの間だけ、確かにそこにある。
堤防の上からトオルが手を振った。
「おーい、昼飯」
紙袋を片手に、階段を降りてくる。
「パン屋、開いてた。新作のコロッケ、買った」
ソラも肩をすくめて降りてきた。
「撮らない日は、食べる日だ」
四人で丸く座り、パンを分け合う。
ナミはひと口食べて、目を丸くした。
「熱い」
「揚げたてらしい」
「揚げたて、初めてかもしれない」
「初めて?」
「うん。『初めて』って、後から気づくものだと思ってたけど、今は『いま』わかる」
トオルが缶コーヒーを開ける。
「俺ら、案外ちゃんと『いま』にいるな」
「案外」
ソラが笑った。
「案外、の積み重ねで、世界は持つ」
ナミはパンの袋を畳み、ポケットにしまった。
「捨てないのか」
ユウが訊くと、ナミは頷く。
「今日の形」
それだけ言って、海を見た。
光は強く、波の上に白い破片が散らばっている。
遠くで海鳥が輪を描き、堤防の影が伸び、町の角の風鈴が風に鳴る。
◇
夕方、ユウはナミを家まで送り、そのまま坂道を戻った。
途中、校舎裏の壁に寄る。
祭りの夜に焼き付いた「光の影」は、まだそこにあった。
白い輪郭は、昨日より少し薄い。
それでも、手を伸ばす姿の形は読めた。
ユウは壁に手を当て、目を閉じた。
壁の冷たさが掌に移る。
「守る」
小さく口にすると、胸の奥で何かが水平に戻る。
呼吸の深さが、少しだけ整う。
背後で足音がした。
振り向くと、そこには母がいた。
仕事帰りの買い物袋を下げ、息を弾ませている。
「ユウ」
「……ただいま」
母は壁の白を見て、短く息を飲んだ。
そして、何も言わなかった。
何も言わないまま、ユウの肩に手を置いた。
重さは軽いのに、動きたくなる力がそこにあった。
「ごはん、少し遅くなるけど、食べていく?」
「走ってから、食べる」
「走るのね」
「うん」
母はうなずき、袋を持ち直した。
「気をつけて」
「うん」
◇
夜、再び走る。
トラックの白線に足を置き、スタート。
耳の中の音をひとつずつ数える。
風を切る音、シューズが砂を噛む音、胸の奥で鼓動が跳ねる音。
涙腺のあたりが熱くなり、視界の端が波打つ。
それでも、足は出る。
間に合わなかったキスのことが頭をかすめるたび、脚は一本分、深く地面を踏めた。
踏めた分だけ、前に進む。
コーナーを抜けたところで、ベンチに座る影が見えた。
トオルだ。
「起きられたのか」
「起きた。朝よりはマシ」
ユウは呼吸を整え、ベンチの前で足を止めた。
「明日も走る」
「わかってる」
トオルは立ち上がり、肩をぽんと叩いた。
「ナミは、明日も『今日の光、きれいだね』って言うかな」
「言う。言わせる」
「じゃあ、俺らも言うか。『きれいだ』って」
「言おう」
ふたりで空を見上げる。
星は少ない。
でも、目を慣らせば、消えた人たちの微かな残光が見える気がした。
見える気がするものを、今は無理に否定しない。
◇
その夜更け、ユウの部屋の窓が小さく鳴った。
風がベランダの手すりを叩いた音だと思ったが、違った。
窓の向こうに、薄い影が立っていた。
ナミではない。
妹のミナでもない。
形を持たない、光の濃淡だけの影。
ユウはゆっくりカーテンを開け、窓を少しだけ開けた。
潮の匂いが入る。
光は、ほんの一瞬、部屋の中に滲み、それから夜へ戻った。
残ったのは、手すりの上の白い粉の線。
ユウは指で集め、掌にのせ、そっと握った。
開くと、線は薄く、掌のしわに沿って残った。
「大丈夫」
自分に言った。
声は小さいのに、部屋の中ではちゃんと響いた。
◇
朝。
ナミはまた「おはよう」と言った。
焦点は昨日より少し遠い。
でも、笑い方はまだ間に合っている。
袖の結び目はきれいで、ほつれはない。
ソラはカメラを持たずに来た。
「今日は会議がある。学校の空き教室で」
「何の」
「『撮らない日』の取り決め。……それから、『見送りじゃない記録』の話」
トオルが伸びをする。
「難しい話は任せる。俺は弁当を買ってくる係」
ナミが笑い、ユウも笑った。
笑えることは、今日に残ってくれた。
教室を出る間際、ナミが振り返った。
「春日くん」
「何」
「もし私が、もっと欠けても、走って」
「走る」
「その背中、私の輪郭だと思うから」
ユウは頷いた。
頷くことなら、何度でもできる。
そして、走ることなら、今日もできる。
窓の外、海は光を返している。
光は不公平で、怖いものをきれいに見せる。
それでも、ユウは目を逸らさない。
今日の光を、今日のまま受け取る。
欠けていく輪郭の縁を、指先で何度でもなぞる。
指が空振りしても、なぞり続ける。
それがいま、自分にできる「守る」の形だと、やっと言葉にできたから。
鈴の鳴らない朝の空気を吸い込み、ユウは校門をくぐった。
白線の上に足を置くみたいに、教室の敷居をまたぐ。
席に座る。
出欠の声が読み上げられる。
名札が外される音はしない。
今日は、誰もいなくならない。
そう思って、祈らない。
祈らない代わりに、見ている。
ナミの笑い方、ソラの黙るタイミング、トオルの靴の音。
それらが全部、輪郭の一部だ。
輪郭は、まだここにある。
あるうちは、何度でも、なぞり直せる。
ユウはペンを持った。
今日の授業を写すために。
今日の世界を、今日の言葉で残すために。




