第6話 静かな祈り
八月の終わりが、もう一度だけやり直されるみたいに、篠ヶ浜の夜は色を取り戻していた。夕焼けは早く沈み、潮風は湿り気をまとって町の通りを抜ける。神社へ続く坂の両脇には屋台が並び、湯気を上げる鉄板と、光るスーパーボールの桶と、綿あめの袋が月を受け止めて膨らんでいる。祭囃子の音が途切れ途切れに聞こえるたび、胸の奥で時計が少しずつ逆回りするような気がした。
浴衣を着るのは、ミナの付き添いで行った夏以来だった。クローゼットの奥、母が仕舞っていた紺の浴衣は、思ったよりも肩幅が合った。帯は動画で調べながらなんとか結んだ。鏡の前で息を吐いて、スマホの画面に映った自分には声をかけない。笑えと言っても言うことを聞かない顔だった。
神社の鳥居の下、風鈴がいくつも鳴っている。足を止めたとき、肩を軽く叩かれた。振り向くと、白石ナミがいた。薄い水色の浴衣に、小さな金魚の模様。髪はいつもより高い位置でまとめられ、うなじに小さな月の影が落ちている。帯の結び目は少し崩れて、そこだけが子どもみたいだった。
「春日くん、似合ってる。思ってたよりずっと」
「そっちこそ。金魚、逃げたら困るな」
「すぐ追いつくよ。泳ぐの遅いから」
笑い合っているのに、どこかで息が合わない。距離を詰めたはずなのに、目の焦点の奥でずれる感じ。視線を下げると、ナミの左手の甲に、糸みたいに細い透けが一本、川みたいに走っている。痛々しさよりも先に、光がそこに集まっているのがわかった。花火を待つ子どもの目みたいに、内側から明るい。
「今日は、消えないといいな」
ナミは小さな声で言った。屋台の焼ける匂いに混ざり、言葉はあっさりと空へ紛れた。彼女は他意なく言ったのだと思う。そう思いながらも、胸のどこかがきゅっと絞られる。返す言葉が見つからず、一拍だけ遅れて「そうだな」と言うと、彼女は「うん」と頷き、少しだけ帯を直した。
境内はすでに人でいっぱいだった。見上げれば、海と町の境目が夜に飲み込まれていく。社務所の横で浅海ソラがこちらに手を振った。いつものカメラは首元でおとなしく、今日はレンズキャップが外れる気配もない。会釈を返すと、ソラは「今日は見る日」と口の形だけで言った。心強いようで、少しだけ怖くもあった。撮られない夜は、世界に残らないかもしれない夜だ。
石段の脇、空き地の芝生が花火の観覧用に開放されている。人の肩と肩のあいだに小さな隙間を見つけて座る。ナミの袖がかすかに触れて、紙のような衣擦れの音がした。少し涼しくなっているはずの風は、彼女の体温を運ばない。けれど、そばにいるという実感で、指先だけがじわりと温かい。境内の明かりが一度だけ落ち、遠くの防波堤の上に赤い光が点った。最初の花火の合図だ。
「春日くん」
「ん」
「わがまま、言ってもいい?」
「いいよ」
「途中で、怖くなっても、笑ってて。私も笑うから」
うん、と頷いた。笑えるかどうかはわからない。でも、笑う努力ならできる。息を吐き、腹の底に力を入れる。祭り囃子が遠のき、代わりに波の音が近づいたような気がした。耳の中で血の音が鳴る。
最初の花火は、思っていたよりも静かに上がった。尾を引く光が夜空に線を描き、丸く開いた瞬間、人々の歓声が一度に起きた。光は規則正しく、花の形にほどけてから、ゆっくり落ちる。落ちる先には海がある。波の上で火の粉は小さく跳ね、そのまま消える。次の花火。色と形が変わる。金、青、白。遅れて胸に響く音が、体の中で何かを揺すって目を覚まさせる。隣を見る。ナミは目を見開いて、きちんと見ている。怖さを見ようとする人の目だった。
「なあ、ナミ」
呼ぶと、彼女はすぐ振り向く。花火の光が瞳孔の奥で反射する。
「もし世界が滅んでも、俺はお前を探す」
言葉は準備していたのに、出てきた声は震えていた。自分のための宣言に聞こえないように、正面から言う。鼻にかかった火薬の匂いの先、彼女が何を思うかは誰にもわからない。ナミは少しだけ目を細め、花火の明滅に合わせるみたいにゆっくり笑った。
「そういうの、ずるい」
「ずるい?」
「うん。だって、世界が終わっても、探す人がいるって言われたら、終わり方を選べなくなる」
「選ばせない」
言ってから、自分で顔が熱くなる。彼女は驚いたように瞬きをし、それから肩にもたれかかった。浴衣越しの軽さが、海風よりも頼りないのに、確かだった。心臓の鼓動が彼女の髪越しに伝わる。祭りの音が遠のく。夜が少し近づく。
大輪がひとつ、腹に響く音で開いた。歓声がまた上がる。次の瞬間、目の端で白い閃きが走った。花火の火の粉が、ひときわ強く尾を引いて落ちたように見えた。落ちた、と意識する前に、指先の感触が抜けた。握っていたはずの左手の重みが、ふっと軽くなる。
「ナミ」
呼びながら、彼女の手を探す。そこにあった形が、ない。袖が落ち、空気が冷たく入ってくるだけだ。見下ろす。浴衣の袖の奥、左手首から先がなくなっている。正確に言えば、薄い空気の層として揺れている。形だけが残り、光だけが通る。指を折り曲げるような影が一瞬だけ現れて、すぐにほどけた。
「やだ」
声が出た。周りの音が遠のく。誰かの歓声と悲鳴の境目みたいな声が混ざり合い、花火の音に押し流される。ユウは立ち上がった。ナミの肩に手を添え、袖を押さえる。落ちるものなんて何もないのに、落ちてしまいそうだった。
「だいじょうぶ」
ナミは、言った。唇はきちんと笑った形になっている。笑った顔をつくるのに、きっと骨は要らないのだ。目の奥だけが痛そうだった。
「だいじょうぶじゃない」
「ねえ、ねえ、春日くん」
花火の光がまた夜を白くする。人々の顔が一斉に明るくなり、すぐに暗くなる。暗くなる瞬間、世界はいつも本当の形に戻る。ナミの右手はまだ残っている。ユウはその手を握った。握っている力が分からない。強くしすぎれば壊れそうで、弱くすれば離れてしまいそうだ。
「キス、して」
ナミは囁くように言った。声は、自分にしか届かない小ささで、それでもはっきり耳の奥に残った。ユウは頷いた。言葉は使わない。顔を近づける。花火の音が遠のき、代わりに潮の音が増す。彼女の睫毛が光を受けて、砂に濡れた貝殻みたいに輝く。唇が触れるほんの手前、空が弾けた。
光は、花火の光じゃなかった。弾けるというより、割れる。夜の膜が薄く裂け、その裂け目から白い音が噴き出してくる。ナミの体が、胸のあたりから、軽くなる。右手の力があわてて強くなる。ユウは引き寄せる。寄せた腕の中で、彼女がふわりと浮く。
「やだ、まだ」
声は小さく、それでも確かだった。ユウは彼女を抱き締める。浴衣の布の感触が自分の指をすり抜ける。骨も、筋肉も、重さも、少しずつ遠ざかっていく。人の輪郭が曖昧になっていく瞬間を、こうも正面から見ている自分がいる。見たくなかった。見送りの瞬間は、いつだって後ろからであってほしかった。泣き顔を見られないまま、見送る側の勝手で、目を閉じていたかった。
「おい」
肩を掴まれた。浅海ソラだった。いつの間にここまで来たのか、息が乱れている。レンズキャップは外れていない。彼の手は、ユウの肩を強く、しかし乱暴ではなく握った。
「動くな。支えろ。彼女が望む形で」
「望む形?」
「彼女は、笑っていたい。撮られないでいたい。だったら、支えて、見て、ただ名前を呼べ」
名前。ユウは彼女の名を呼んだ。ナミ。もう一度、ナミ。呼ぶたび、彼女の目が戻ってくる。笑おうとして、うまく笑えない。うまく笑えない顔は、それでも美しい。人間は、うまくいかないときに、人間の形をいちばんはっきり見せる。
「ねえ、春日くん」
「ここにいる」
「ありがとう」
「ありがとうは、俺の方だ」
「ううん。君の手、あったかい。人間みたい」
「人間だ」
「知ってる」
花火は続いている。音が空気を押し、押し返される。子どもが叫び、誰かが笑い、誰かが泣く。どの声も正しい。正しい声は、混ざる。混ざって、夜が少しだけ薄くなる。薄くなった夜の向こうで、光の柱が細く立ち上がり始めていた。いつもより細い。いつもより遅い。時間が延びている。延びてくれている。彼女のために、少しだけ。
「春日くん」
「なんでも言え」
「ね、最後のお願い、もう一回。キス、して」
ユウは頷いた。さっきよりも短い距離。もう迷わない。唇が触れる直前、彼女が目を閉じる。風が髪を揺らし、襟足の月影が消える。触れた。触れたのに、その瞬間、唇の先が空気をすり抜けた。触れたはずの感覚は、手のひらの体温とは違って、形を持たない。花火の破片が空に散る。散った光が彼女の輪郭に降り、それがまた空へと昇っていく。キスは、間に合わなかった。間に合わないことは、世界にはたぶんたくさんある。よりによって今、ここで。
「ナミ」
抱いていたはずの腕の中から、重さが消える。浴衣の布がふわりと揺れ、そのまま自分の胸に落ちる。誰かが「危ない」と叫び、誰かが「大丈夫?」と聞く。そのすべてが遠くて、自分の声だけが近い。ナミ、と呼ぶ。もう一度。もう何度でも。呼びかけは、空に穴を開け、そこに吸い込まれる。穴は閉じない。閉じずに、夜の膜の向こうにうっすらと残る。
人の波がざわつき、視線が集中する。誰かが駆け寄る。誰かが離れる。誰かが手を合わせる。誰かがスマホを上げ、すぐに下ろす。浅海ソラは、レンズキャップに触れて、外さなかった。彼はただ、ユウの背に手を置いた。背中の真ん中、骨と骨の間に人の手の温度が落ちる。倒れないように、呼吸が途切れないように、支える手だ。
「春日」
ソラが低く言う。
「立つな。座れ。吸って、吐け。彼女の前で、倒れるな」
言われた通りにする。芝生に膝をつく。花火の破片の灰が、ゆっくりと頬に落ちる。舌先がしょっぱい。本当は海の味なんてしない灰なのに、海の味に変わる。体はほんの少し震えているのに、頭はとても冷たい。周りの音がよく聞こえる。人の泣き声と笑い声の中間の音。遠くで犬が吠えている。神社の鈴が、揺れていないのに鳴った気がする。祭囃子がどこかで続いている。世界は終わらないふりが上手い。
「黒瀬!」
トオルの声が遠くから割り込んでくる。人垣をかき分け、彼が走ってくる。息は上がり、目が赤い。ユウとナミのいた場所にたどり着いて、言葉を探している顔をした。浅海ソラが短く首を振る。トオルは何も言わず、口を結んで立った。
晩の部の花火は、まだ続いていた。予定通りに、きちんと。次々に夜空に咲いて、散っていく。たぶん、準備をした人たちは中止にできなかったのだ。中止にしたところで、誰かの終わりは止まらない。止まらないのなら、せめて見送る光を強くする。祭りはそういうふうにできている。人の集まりは、いつもそうだ。誰かが泣く場所でも、誰かは笑っている。それが悪いことだと簡単には言えない。
ユウは立ち上がり、境内の隅へ歩いた。足元が少しふらつく。浅海ソラが半歩後ろに付く。トオルは横に並び、腕を伸ばして支える。三人の影が、踊り場の白い壁に重なる。光がまた空で割れ、壁に淡い輪郭が焼き付く。昨日、校舎裏で見たのと同じ“光の影”。今度は三人分の重なりが、折り重なってひとつになっている。誰かの手が空を掴もうとして、掴めないまま、残った形。
「ごめん」
自分の口から、なぜか謝る言葉が出た。誰に向かってかはわからない。ミナか、ナミか、母か、自分か。ソラが「謝るな」と言い、トオルが「先に言われた」と続ける。くだらない会話で、世界がほんの少し元に戻る。戻らないのに、戻る感じ。人間はその繰り返しで生きているのだと思う。
賽銭箱の前に立つ。周りには同じように並んだ人がいて、皆、何かを祈っている。祈りが上手な人も、下手な人もいる。上手でも下手でも、届くときは届くし、届かないときは届かない。ユウは手を合わせた。目を閉じない。目を閉じると、さっきの空白が広がる。だから、開けたまま祈る。祈り方は、今日覚えた。静かに、短く、具体的に。
どうか、彼女が痛くありませんように。
どうか、誰かの記憶が彼女の居場所になりますように。
どうか、明日も走れますように。
賽銭を投げる音は小さかった。鈴は揺れず、風鈴だけが遠くで鳴る。隣でトオルが同じように手を合わせ、反対側でソラは帽子を脱いで軽く頭を下げた。三人の祈りはきっとバラバラで、でも重なるところが少しだけある。その少しだけが、案外強い。
花火の最後の連発が始まる。音が続けざまに胸を叩き、空が昼間みたいに明るくなる。誰かが歓声をあげ、誰かが耳を塞ぐ。ユウは空を見上げた。眩しさに目を細めながら、見えるものを全部、いまだけは受け取ろうとする。残るためではない。今日を、使い切るためだ。
連発が途切れ、夜が戻る。暗闇は、さっきより少しだけ深い。けれど、息はできる。人のざわめきが低く広がり、屋台の呼び込みがまた仕事に戻る。帰り道を探す人々の肩が触れ合い、笑い声が再開する。祭りは続く。続くことに、意味がある。終わらないふりをしながら、次の終わりを受け入れる準備をする。人間は、たぶんそうやってほとんどのことを乗り越える。
海沿いの道に出ると、潮風がさっきより冷たかった。浅海ソラは歩きながら、初めてカメラのレンズキャップを外した。レンズは空を向いている。シャッターは押さない。
「撮らないのか」
ユウが聞くと、ソラは頷いた。
「今日は、見た。十分見た。撮らないで持っている日が、僕らにも必要だ」
トオルはポケットに手を突っ込んで、靴先で小石を蹴った。前を歩く犬がびくりと振り向き、すぐにまた前を向く。
「なあ、ユウ。明日、朝、走るか」
「走る」
「俺も行く」
「来い」
短い言葉が、夜の端で固まる。ナミがいた場所に、風が通り抜ける。彼女の浴衣の金魚は、どこにも落ちていない。持ち帰れるものは、ない。けれど、持って帰るものは、ある。握っていた手の温度。間に合わなかったキス。黒い夜に浮かぶ白い影。浅い呼吸と、深い祈り。
家の玄関の鍵を回すと、母が振り向いた。目で全部を聞かれる。ユウは「ただいま」と言った。それだけを言った。母は「おかえり」と言い、台所へ戻る。味噌汁の匂いがまた立ち上る。日常が、静かに戻ってくるふりをする。そのふりは、今夜に限っては許せた。
部屋に入り、窓を開ける。海の匂いは薄い。祭りの音は遠い。手すりの上に、白い粉が少し残っていた。花火の灰か、潮が乾いた塩か。指先で集めてみる。もう、消えない。指の腹にざらりと残る。その感触を、掌に移して、ぎゅっと握る。開く。掌の線に沿って白が割れ、机の上に細く散った。ペンダントをそこに重ね、灯りを落とす。雫の中の金色が、ひどく小さく見える。小さく見えるのに、目を離せない。
ベッドに横たわっても、目は冴えた。眠れない夜は、これまでにも何度かあった。ミナを失ったあの夜も、ナミがベランダに現れた夜も、校舎裏の白い影を見た朝も。眠れなかったのに、朝は来た。明日も、きっと来る。腹の底に小さく力を入れる。走る足音のリズムを想像する。空気を切る音、呼吸の数、コーナーで傾く角度。次の直線で、スピードをほんの少し上げる。上げすぎないこと。続けるために、残すために、上げすぎないこと。
目を閉じると、海と祭りと花火の音が混ざる。混ざった音の中から、彼女の声だけがはっきり浮かぶ。ねえ、キスして。言葉はそこで止まり、続きはない。続きはないけれど、意味は消えない。意味は、たぶん変わっていく。間に合わないことはある。それでも、手は伸ばせる。伸ばした手は、空を切っても、どこかに跡を残す。誰かの壁に、白い影として。誰かの胸に、静かな祈りとして。
明日、走る。
走って、彼女のいた場所をもう一度通る。
走って、彼女のいない場所を初めて通る。
その両方を、同じ足でやる。
祈りは大げさにしない。短く、具体的に、静かに。
そのやり方を、今夜覚えた。
窓の外で、最後の一本だけ遅れて上がった花火が、遠い遅刻みたいに小さく開いた。音は届かない。光だけが届く。届いた光を、見送らない。見上げて、受け取る。目を閉じずに、受け取る。ほんの一秒、世界が昼になる。次の一秒、夜が戻る。その真ん中に、自分の呼吸がある。呼吸は続く。続くから、祈りは要らない。あるいは、祈りは続く呼吸のことを言うのかもしれない。
静かな祈りが、胸の奥で形を持つ。
名前を呼ぶ。
ナミ。
返事はない。
けれど、確かに、ここにいる。
そう思えるだけで、今夜は十分だった。




