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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第5話 光の痣

 朝、教室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。

 風が通り抜けたわけでも、誰かが笑ったわけでもない。ただ、誰かが息を止めた気配だけが広がって、窓辺のほうへすうっと流れていく。視線の先に、白石ナミがいた。袖口から覗く手首は、もう“痣”とは言いにくかった。皮膚の色は薄くほどけ、教室の光がそこを通り抜けて、机の木目を淡く浮かび上がらせている。


 隣の席に腰を下ろすと、彼女はいつものように微笑んだ。

 「おはよう、春日くん」

 「……おはよう」

 言葉が喉に引っかかる。昨日までの言い方と同じなのに、口の中で重くなる。

 ナミはペンケースを開き、シャープペンを取り出した。握った指先もわずかに透けていて、鉛筆の芯の黒が薄い影になって見える。

 「ね、聞いて」

 「うん」

 「今朝、鏡の前でここ見たらね、窓の桟が模様みたいに映って、ちょっときれいだった」

 きれい、という言葉を、彼女はよく使う。

 ユウは笑うべきだと思ったが、笑えなかった。

 「痛くは、ないんだよな」

 「うん。痛くはないの。触っても、温度の感覚がすこし薄いだけ」

 だからこそ、怖い。体が壊れていく音の代わりに、静けさだけが増えていく。


 一限目の始業チャイムが鳴ると、担任はいつもより言葉を少なくした。席がまた一つ空いている。黒瀬トオルは来ているが、彼の視線は時々だけナミへ向かい、すぐに黒板へ戻る。

 休み時間、浅海ソラが教室の扉のところに立っていた。首からカメラを二台、肩のラインは固く、目は静かだ。

 「白石さん、少し時間をもらってもいい?」

 ナミは頷き、立ち上がる。

 ユウは思わず席を立った。

 「俺も行く」

 ソラは短く頷き、三人で廊下を抜ける。向かった先は美術室横の暗室だった。新聞部が借りている小さな空間。ドアの内側は赤い光に染まり、薬品の匂いが強い。


 ソラは机の上に、今日のための白い背景紙を広げた。

 「記録しておきたい。白石さんの、光の進行を」

 ナミは背景紙の前に立ち、指先を握ってから、ゆっくり首を振った。

 「ごめん、浅海くん。今日は、撮らないで」

 ソラの手が止まる。シャッターにかけた人差し指が宙で固まり、落ちたまつ毛の影が揺れた。

 「理由を聞いてもいい?」

 「私は記録されるために生きてるんじゃないの」

 言葉は軽い調子だった。けれど、暗室の空気が一度だけぱきっと割れた気がした。

 ソラは深く息を吸い、ゆっくり吐く。

 「わかった。今日はやめる」

 「ごめんね」

 「謝られる理由はないよ。……それでも、伝えておきたい。僕が撮るのは、消費のためじゃないってこと。誰かが忘れたくなかったもののために、残すんだってこと」

 ナミは目を伏せ、ほんの少しだけ笑った。

 「うん。知ってる。だからこそ、今日はやめたいの」

 ソラはカメラの電源を落とし、背景紙を丸めて片付けた。

 ユウは、そのやりとりを黙って見ていた。口を挟めば、二人の間のバランスが壊れる気がした。


 暗室を出ると、窓の外は雲が流れていた。

 「海、行かないか」

 ユウが言うと、ナミは顔を上げる。

「授業、大丈夫?」

 「大丈夫ってことにする」

 「……悪い子」

 「お前に言われたくない」

 ふふっとナミが笑い、隣でソラも小さく笑った。

 「送っていく。カメラは置いていく」

 ソラはそれだけ言い、職員室に寄るからと先に歩いた。


 校門を抜けると、坂道の先に海が広がる。空はうすい灰色で、波は機嫌が悪い。秋の手前の潮の匂いは、夏の名残と混ざって甘いような苦いような不思議な味をしていた。

 防波堤の上まで歩く途中、ナミの足取りは軽くも重くもなかった。肩越しに見える手首の透けが、光の角度で形を変える。

 「怖くないのか」

 口に出してから、ユウは少し後悔した。

 ナミは空を見上げ、手で風を掬うみたいにしてから、横を向いた。

 「わからない。怖くないって言ったら嘘になる。でも、怖いって言ったら、それしか見えなくなる」

 「逃げたい?」

 「逃げる場所がないの、わかってるくせに」

 「……悪い」

 謝ると、彼女は首を振った。

 「ね、波、近くで見よう」

 防波堤から砂浜に降りる階段は湿っていて、二人は足を滑らせないよう注意しながら下りた。濡れた砂が靴に張りつく。潮が引いたばかりのラインに、きらきらとした小さな欠片が並んでいる。貝殻の破片か、誰かの落としたガラスの名残か、あるいは。


 水際まで行くと、波が寄せては返すタイミングの違いで足首のあたりが冷たく濡れた。

 ナミはスニーカーのまま、波の中へ一歩踏み出した。

 「おい」

 「だいじょうぶ」

 風の音に混じって、彼女の声はよく通る。

 ユウは背中から近づき、手を伸ばした。

 「手」

 ナミはこちらを振り返り、少し戸惑ってから手を差し出した。

 指先は透けているのに、確かに形を持っていた。

 ユウはその手を握る。

 冷たくはなかった。温かすぎもしなかった。ぬるい海と、それを切る風と、彼女自身の体温が混ざって、ただ“人の手”の感触があった。

 ナミは目を丸くしてから、笑った。

 「君の手、あったかいね。人間みたい」

 ユウは笑い、そしてその言葉の奥にある棘に気づいて、笑いを収めた。

 「人間じゃないのか?」

 ナミはすぐには答えなかった。視線を上げ、雲の切れ間を探すみたいに空を見上げる。髪が潮風でほどけ、首もとにかかる。

 「どうだろ。最近、自分の輪郭が薄いの。砂の城が波に触られたみたいに、形が少しずつ崩れて、でも痛くもこわくもなくて、ただ淡い」

 彼女はそう言って、ユウの手を握る力を少しだけ強めた。

 「でも、君の手はちゃんと重い。だから、たぶん私はまだ、ここにいる」


 打ち寄せた波がふくらはぎまで上がってきて、二人とも慌てて後ずさる。

 砂が靴に入り、冷たい感触が染みる。

 「ソラに怒られるな。靴、濡れたって」

 「浅海くん、そんなにうるさくないよ」

 「いや、カメラより靴の扱いが雑だって言われそうだ」

 くだらない会話で、心の中の緊張を少しずつほぐしていく。

 遠く沖合で漁船が一隻、低い音を残して進む。空はさらに薄くなって、雲の色が白から銀に変わる。

 ユウは、ナミの横顔を見た。

 喉の下、鎖骨のあたりに、別の薄い透けが広がっているのがわかった。左肩から胸にかけて、肌色が一段淡い。

 「……進んでる」

 声が漏れた。

 ナミは自分の胸に視線を落とし、そっと指で押さえた。

 「うん。朝より、気持ち広い。ね、変なこと言っていい?」

 「なんだ」

 「光って、きれいに見えるようにできてるの、不公平だよね。怖いものが、きれいだと、目を逸らせない」

 ユウは返す言葉を持っていなかった。

 代わりに、握った手を離さないことで答えた。

 強くも弱くもない力で、ただ、繋がり続ける。


 浜辺に腰を下ろし、靴を脱いだ。靴下を絞ると、海水が砂に染みて黒くなる。

 「そういえばさ」

 ナミが空を見たまま言う。

 「“光の図鑑”、ほんとは私のためだけじゃないんだよ」

「わかってる。最初から、町のためだろ」

 「うん。でも、私の中にももう一冊あって。名前は、内緒」

 「ずるい」

 「ずるいよ。私はずるくて、怖がりで、最後に向かってやりたいことが増える」

 ナミは膝を抱え、頬を乗せた。

 「学校の前の公園のブランコ、もう一回乗りたい。トオルくんの悪口を本人に聞こえるように笑いながら言いたい。浅海くんにフィルムを一本だけ無駄遣いさせたい。春日くんに、どうして走るのかもう一回聞きたい」

 「……走るのは、難しいから好きなんだと思う。うまくいかない日がある。それでも次の日にまた走れる。そういう繰り返しがある間は、大丈夫だと思える」

 「優等生の答えだ」

 「じゃあ、別の答え。……走ると、ミナの声がする。風のなかに混じって、笑ってる」

 ナミは顔を上げ、ユウのほうを見た。

 目の奥が、海みたいに深かった。

 「それ、すき」

 短い言葉は、波よりも静かに胸に入ってきた。


 午後、空は晴れ間を見せ、光が強くなる。砂浜にいた数人の子ども達が、親に手を引かれて帰っていく。

 浅海ソラが堤防の上から手を振った。

 「大丈夫か」

 「靴がだめ」

 ユウが答えると、ソラは真顔で頷いた。

 「じゃあ、帰りは裸足で歩け。靴は首にぶら下げとけ。乾く」

 「その発想はなかった」

 ナミが笑い、靴ひもをほどく。その手つきは相変わらず器用で、指先が透けていることだけが現実を思い出させた。

 ソラは近づいてきて、ユウとナミを見比べる。

 カメラは持っている。けれど、レンズキャップはつけたままだ。

 「撮らないって、朝言ったから。今日は散歩の係」

 「係?」

 「誰かが転んだり、風で飛ばされたりしたときに、つかまえる係」

 ナミはその言葉に、少しだけ目を潤ませた。

 「ありがと」

 ソラは肩をすくめる。

 「僕のわがままもある。撮らない日を、僕も必要としてる」


 帰り道、三人は並んで歩いた。坂道の途中、柿の実が色づき始めていて、軒先の風鈴が季節違いに鳴っている。

 街角の掲示板には、市の対策本部からの紙が新しく貼られていた。

 “予兆が見られた場合は、屋外で単独にならないこと”“夜間の外出は控えること”

 誰も、読んでいないようで、みんな読んでいる。

 ユウが紙から目を逸らすと、ナミは掲示板を背に立っていた。

 光の痣は、日差しの角度で見えたり見えなかったりする。

 「ね、春日くん」

 「何」

 「もし私が、突然ふっと軽くなったら、驚かないで」

 「驚くに決まってるだろ」

 「でも、手だけは離さないで」

 「離さない」

 即答だった。

 ソラが横で息をつき、空を見上げた。

 「明日、“光の図鑑”の編集会議がある。先生も来る。春日にも、来てほしい」

 「俺が?」

「見送り方は、たくさんある。君のは、走る以外にもあるはずだ」

 わかった、とユウは言った。明日のことは明日考える。今は、この二人と、この季節と、この坂道の匂いを覚えておく。


 夕方、学校へ戻ると、グラウンドの端に人だかりができていた。

 誰かが小声で「校舎裏、まだ残ってる」と囁く。朝の“光の影”は消えていないらしい。

 ユウは人だかりの手前で立ち止まった。見ないという選択もある。けれど、見ないでいられるほど、強くはない。

 三人で裏手に回ると、壁に淡い輪郭があった。

 人影の形。腕を伸ばし、届かない何かに向かって止まった瞬間の跡。

 ナミは立ち尽くし、そっと壁に手を触れた。

 その指が、壁の白に重なって、一瞬だけ、白が濃くなった。

 「ねえ」

 か細い声が漏れる。

 「私、こういうふうに残りたくないって、少し思う。誰かの痛みでできた光じゃなくて、自分の選んだ光で残りたい」

 ユウは言葉の代わりに、彼女の肩に手を置いた。

 肩越しに見える手の向こうで、夕日が校舎の窓を赤く染める。


 夜。

 家に戻ると、母は台所で包丁を止めた。

 「ユウ、今日は早かったのね」

 「うん。たまたま」

 「晩ごはん、少しでいい?」

 「大丈夫。食べる」

 食卓につくと、味噌汁の湯気が上がった。とても普通の匂いだった。海の塩気も、薬品の匂いも、ここにはない。

 箸を持つ手が、小さく震える。落ち着かせるように、深く息を吸って、味噌汁をすする。だしの味が喉の奥に広がって、急に涙が出そうになる。

 母は何も言わない。テレビは消され、時計の音だけがやけに大きい。

 「ミナ、好きだったよね、その味」

 ぽつりと言うと、母は頷いた。

 「覚えてる」

 覚えている、という言葉を、今日はやさしく受け取れた。


 風呂から上がると、窓の外に月が出ていた。

 ベランダには誰もいない。けれど、手すりに指の跡がうっすらと残っているのを見る。昨夜の潮が乾いた白い線。

 スマホが震えた。

 ナミからだ。

 『今日、ありがと。波、思ったより冷たかった。君の手、思ったよりあったかかった』

 ユウは打ちかけて、消して、打ち直す。

 『明日、会議行くよ。俺の手、明日も同じ温度』

 送信すると、読みましたの表示がつく。返事はない。なくていい。

 そのままベッドに横たわり、目を閉じた。


 夢を見た。

 砂浜、夜の観覧車、校舎裏の壁。

 ミナとナミが並んで立ち、どちらも振り向かない。

 ユウが走る。二人の肩越しに、空に筋が立ち上がる。

 光の柱は、近づけば近づくほど静かだった。

 ユウは足を止めず、ふたりの横を駆け抜ける。

 見送りではない。置いていくのでもない。

 同じ場所に、同じ速さで、別の形の“残る”を選ぶ。

 そこまで考えたところで、目が覚めた。


 窓の外は夜更けの青。

 風は止み、町は眠っている。

 月明かりが机の上を薄く撫で、ペンダントの雫が小さく光った。

 ユウはベッドから起き上がり、ペンダントを手に取る。

 雫の中の金色が、部屋の光を集めて揺れる。

 掌に乗せると、温度が移ってきた。

 「ミナ」

 名前を飲み込む。

 この声が、誰かの“残る”の役に立つなら、それでいいと思えた。


 翌朝、教室に入ると、ナミは窓際に立っていた。

 制服の襟元から覗く肌は、やはり少し透けている。

 それでも、彼女は笑っている。

 「おはよう」

 「おはよう」

 ユウは自分の席に荷物を置き、彼女の隣に立った。

 「今日、会議のあと海に寄っていい?」

 「いいけど、また靴がだめになる」

「浅海くんに怒られないように、サンダルで来る」

 「用意がいいな」

 やり取りの途中、廊下から浅海ソラが顔を出した。

 「春日。今日の議題、君にも話してほしい」

 「何を」

 「“見送りじゃない写真”のこと」

 ソラはそう言って、目だけで笑った。

 ナミは机の上で指を組み、俯いて笑った。

 教室の空気は軽くはない。軽くする必要もない。

 それでも、午前中の光は今日も差し込む。

 光は不公平だと思う。怖いものをきれいに見せ、終わりを始まりみたいに照らす。

 それでも、その不公平に頼らないで立ってみせる。

 ユウはそう決めた。


 五時間目が終わるころ、空の奥で遠い轟きがした。

 誰かの名は呼ばれない。

 黒板の名札も今日は動かない。

 窓の外、校舎裏の壁は、もう見に行かなくてもそこにあるとわかった。

 “光の影”は、見送り方のひとつとして町に残る。

 でも、同時に、それ以外の残り方もあるはずだ。

 走る背中。握った手の温度。撮らない日。サンダルの砂。

 小さなものばかりだが、積み重ねれば、案外強い。


 放課後。

 会議室に集まった数人の顔は真剣で、誰も大きい声を出さない。

 ユウは自分の番が回ってきたとき、言葉より先に立ち上がった。

 「俺、撮られるのは苦手かもしれない。でも、“残る”のは好きだ。だから、走る。誰かの写真の外側で、風になって写り込む。そういう残り方をしても、いいですか」

 ソラは頷いた。先生も頷いた。

 ナミは笑っていた。

 その笑いは、今まででいちばん人間に近かった。


 会議が終わると、三人で海へ向かった。

 浜には、昨日より細かい光の欠片が散っている。

 ナミはサンダルを脱ぎ、裸足で波打ち際に立った。

 ユウはその横に立ち、彼女の手を探す。

 ナミは手を差し出した。

 「君の手、あったかいね」

 「人間みたい?」

 「……ううん。ちゃんと、人間」

 初めて、はっきり言った。

 ユウは何も言わず、握り返した。

 風が髪を揺らし、波が足首を撫でる。

 空に星はまだ少ない。

 でも、波間には、昨日よりたくさんの光があった。

 消えた人々の残光か、夜光虫か、どちらでもいい。

 どちらでも、いまは綺麗だ。


 そして、遠くの空に細い柱が立ち上がった。

 ユウは立ち止まらない。

 ナミも立ち止まらなかった。

 手を繋いだまま、一歩、もう一歩と波の縁を歩く。

 光はきれいで、不公平で、残酷で、それでも道を照らす。

 その下で、ふたりは進む。

 残るためにではなく、いまここにいるために。

 潮の飛沫が、頬に細かく散った。

 ナミは空を見上げ、何も言わずに微笑んだ。

 ユウは握る手にすこしだけ力を込め、答えの代わりに前を向いた。

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