第4話 トオルの告白
黒瀬トオルは、最初から白石ナミが苦手だった。
理由は簡単だ。自分でも信じたくないが、最初の理由はただ一つ、彼女のそばにいる春日ユウが少しだけ、自分の知らない顔を見せるからだった。
昼休み、窓際の列。空席が増えるたび、教室の空気は薄くなっていく。
トオルは購買の焼きそばパンを二つ、つり革みたいに指にかけて戻ってきた。ひとつはユウに、ひとつは自分に。いつもどおり。
「おまえ、炭水化物に炭水化物重ねすぎ」
ユウの冷たいツッコミに、トオルは肩をすくめて見せる。
「俺、終末でも太らせて終わるタイプだから。スリムで消えるのは柄じゃない」
周りの何人かが笑い、何人かは笑わない。
窓の外の雲が速い。秋の前の風が、まだ夏の匂いを運ぶ。
視線をずらすと、ナミが見えた。
階段前で、浅海ソラと話している。首から下がるカメラが二つ、軽く触れ合って鳴る。
笑っている。いつもの、やわらかい笑い方。
その笑いにユウが少し揺れるのを、トオルは知っている。
知りたくなかった。胸の奥で、小さく黒い針が動く。
ホームルームで担任が名簿を確認する声を、トオルは半分だけ聞いていた。
いなくなった名前のところで、先生の声がかすかに沈む。
隣の席の男子が窓を見て、何も言わないまま視線を落とす。
トオルは机の下で拳を握り、ほぐし、また握った。
失うのは慣れない。慣れたくもない。慣れたふりだけが上手くなる。
放課後、昇降口の陰で靴ひもを結び直していると、ナミがひとりで出てくるのが見えた。
ソラは用事だ、と言って先に帰ったらしい。
タイミングは最悪で、最善だった。
自分でも笑うくらい心臓がうるさい。
トオルは、ナミの背中を追いかけて声をかけた。
「白石」
振り向いた彼女の目は、驚きよりも先に笑いになった。
「黒瀬くん。どうしたの」
「ちょっと、時間いいか。中庭……いや、裏の渡り廊下」
ナミは頷き、上履きのまま静かに歩き出した。
校舎裏は、風がよく通る。
体育館と理科棟の間の狭い通路には、午後の残り火が薄く溜まっている。
ペンキの剥がれた壁、古いポスター、錆色の手すり。
遠くに海の匂い。
トオルは、真正面に立てなかった。壁を背に、少し斜めから彼女を見る。
ナミは手すりに片手を置いて、待ってくれている。
ため息の音すら聞こえそうな静けさの中で、トオルは言葉を探した。
「俺、さ」
喉が乾く。軽口のトーンは失敗だ。真面目すぎても、自分じゃない。
それでも、逃げたくなかった。
「たぶん、お前が好きだ」
言った。思っていたより、まっすぐに出た。
ナミの表情は、ほんの一秒遅れて動いた。
笑った。泣きそうな笑い方。
「……ごめん」
それは予想できた言葉で、でも準備のない痛みだった。
「私、もうすぐいなくなるの」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味。ここから、いなくなる。どこかへ、行く。戻ってこない」
トオルは頭の内側で言葉を探す。冷たい海水に沈められたみたいに、すべてが鈍い。
「終焉病、とか……そういうの、軽く言うなよ」
ナミは首を振った。
「軽くなんてないよ。怖い。でも、たぶん本当のこと」
「春日には、言ったのか」
思わず、出た。
ナミは少し目を伏せた。
「春日くんは、知ってることもあるし、知らないこともある」
「なにそれ」
「全部を渡したら、誰かが壊れる気がする。だから、半分だけ」
トオルは、笑った。苦さで舌が痺れるみたいな笑い。
「ずるいな。お前」
「うん。ずるいよ。ごめんね」
ナミは本当に謝っていた。だからこそ、トオルはひどくなれない。
沈黙が、二人の間に布のようにかかった。
風がポスターの角をめくる。
遠くで部活の笛。
ナミが口を開きかけたとき、トオルは先に言った。
「答え、いらない。ていうか、今もらっても困る」
「黒瀬くん」
「ただ、知っててほしかった。俺はちゃんと、お前に惹かれてる。だから、笑っていなくなるとか、俺は許せない」
言い終えて、背中の汗が冷える。
ナミはまっすぐにトオルを見た。
「ありがとう」
やわらかい声。
そのやわらかさが、今は刃だった。
「でも、私、たぶん——」
ナミはそれ以上言わなかった。言わないで、渡り廊下を去った。
残ったのは風のにおいと、壁に反射した淡い光。
トオルは拳を握り、壁に軽くぶつけた。
白い粉が手に残る。痛みは、曖昧なまま。
その夜、トオルは眠れなかった。
天井の木目を数え、何度も水を飲む。
スマホを握って、メッセージの画面をひらく。
ユウの名前が一覧の一番上にある。
何を打てばいいのか、わからない。
ナミに惹かれていることを、こいつにだけは打ち明けたくない。
嫉妬はださい。焦りはみっともない。
なのに、胸の中の焦げたにおいは消えない。
午前零時を少し過ぎたころ、通知が光った。
その一瞬の反射で、部屋の隅に置いた陸上部時代のスパイクが白く光る。ユウからだった。
「今、起きてるか」
短い文。
指が勝手に動いた。
「起きてる。どこ」
「堤防。行けるか」
「行く」
夜の堤防は、昼より広く見える。
波の音が、言葉の代わりみたいに大きい。
ユウは手すりにもたれ、海を見ていた。頬に当たる風で前髪が揺れる。
その横顔を見ただけで、トオルの胸の奥がまたざらつく。
「どうした」
「お前こそ」
噛み合わない会話。
沈黙が最初から負けているみたいだった。
ユウが切り出した。
「ナミのこと、何か聞いたか」
「聞いたよ。『もうすぐいなくなる』だとさ。お前は知ってたのか」
ユウはわずかに顔をしかめ、正直に頷いた。
「全部じゃない。けど、知ってることはある」
その言い方が、トオルには耐えられなかった。
全部じゃない、の半分のところに、自分がいないという事実。
「ふざけんなよ」
気づけば、胸ぐらを掴んでいた。
夜の風が、二人の間で音を立てる。
「お前、あの子が何者か知ってるのか」
「人だよ。俺と同じ、人だ」
「きれいごと言うな!」
声が割れた。
ユウの目が、痛いくらい静かだった。
「きれいごとでいい。俺はそれでしか、守れない」
その言葉が、いちばん嫌だった。
守る。
自分にはできないことを、当然の顔で言うのが腹立たしい。
拳が勝手に動いた。
ユウの頬が少しだけ跳ね、足もとがぐらつく。
すぐに殴り返してくると思ったのに、こいつは殴り返さなかった。
代わりに、トオルの腕を掴んで押し返す。
踏みとどまった足裏の下で、石畳がこすれる音。
反射的に、トオルは拳を振りぬいていた。
ユウは避ける。外れた拳が、防波堤の壁にぶつかった。
その瞬間、白い閃きが走った。
稲妻ではない。
海面が月光を跳ね返したみたいに、壁の一角が淡く光り、すぐに消える。
目の奥が熱くなる。
ユウも一歩引いて、壁を見る。
「おい、今の——」
「……なんだよ」
息が荒い。拳がじんじん痺れる。
壁には何もないようで、でも、何かが残っている気がした。
手を近づけると、うっすら暖かい。
潮の匂いに混じって、鉄の焦げたにおい。
ユウは口の端の血を手の甲で拭い、深く息を吐いた。
「悪かった」
謝られる筋合いなんかない。
でも、なぜかその一言で、怒りの半分が溶けた。
「……俺の方が、悪い」
自分で言って驚く。
悔しくて、笑いが出る。
「なんだよそれ。終末に向けて人格者の練習か」
ユウがわずかに笑った。
夜風が二人の間を通る。
堤防の下で波が砕け、引く。
「トオル」
ユウの声は低かった。
「ナミは、たぶん近いうちに撮られる。浅海の『光の図鑑』に」
「撮られるって、最後を?」
「本人が望めば、そうなる。俺は……その場にいる」
「俺は?」
自分でも驚くほど弱い声だった。
ユウは少し迷ってから、うなずいた。
「いてくれ」
その一言で、足もとが少し固まる。
嫉妬も焦りも、まだ消えない。
でも、逃げない言い訳には、十分だった。
別れ際、トオルは壁をもう一度見た。
さっきの閃きの場所。
気のせいかもしれない。
けれど、夜目に慣れた視界に、薄い輪郭が残っているように見える。
人影みたいな、手を伸ばしている形。
誰かを掴もうとして、掴めないまま止まった一瞬。
胸がざわつく。
振り返ると、ユウは海の方を見ていた。
「明日、部活のトラック、走る。見に来いよ」
「お前、引退したろ」
「再開だ」
トオルは肩で笑い、手を振った。
波の音にかき消されるような小さな手振り。
家に戻る途中、トオルは自販機の前で立ち止まった。
缶コーヒーを買って、開けずに握りしめる。
指先の痺れがまだ残っている。
さっきの光は、何だったのか。
怒りの熱が現実に焼き付いたみたいな、妙な予感。
缶に映る自分の顔は、見慣れたより少しだけ大人びて見えた。
翌朝、空は澄んでいた。
ホームルーム前の廊下に、人だかりができている。
誰かが「見た?」と囁き、誰かが「触るな」と言う。
トオルは人波を掻き分けて、校舎裏へ回った。
理科棟の角、体育館へ続く薄い壁。
そこに、あった。
白い壁面の一部が、焼き付いたみたいに色を変えている。
よく見れば、輪郭は人の形だ。
肩、顎、腕。
伸ばした腕の先は細く、指先が空を掴もうとして止まっている。
光の影。
黒い影ではない。淡く発光するみたいに、白の中の白が別の層になっている。
朝の光を受けて、わずかに揺れる。
誰かが触れようとして、やめる。
「これ、昨日の夜——」
誰かが言いかけた言葉は、ざわめきに溶けた。
トオルは、一歩近づいて立ち尽くした。
そこに昨日の自分がいた気がした。
腕を伸ばし、掴めない何かに向かって、体ごと投げ出すみたいに必死な影。
腹の奥が熱くなった。
ユウの頬に残った小さな傷が頭に浮かぶ。
馬鹿だ。
でも、馬鹿でよかったのかもしれない。
せめて、嘘はつかなかったから。
背後で小さく靴音が止まる。
「黒瀬くん」
ナミの声。
振り返ると、彼女は人だかりの少し外側に立っていた。
制服の袖から覗く手首に、淡い光の痣。昨日よりほんの少し広がっている。
目が合う。
言葉は、選ばなかった。
「昨日、言ったこと、全部本気だ」
ナミはゆっくりと瞼をおろし、また上げた。
「知ってる。ありがとう」
その横で、浅海ソラがカメラを下ろした。
シャッターは切っていない。
彼はただ、壁の前で深く息をしていた。
「これは、撮らない」
小さな声。
「これは、ここに残るものだから」
ナミがソラを見る。
ソラはわずかに頷いた。
誰のものでもない形が、壁に残っている。
きっと、この町のどこかに、同じものがいくつもあるのだろう。
誰かが叫んだ跡。踏ん張った跡。祈った跡。
昼休み、ユウがトオルの机にきた。
頬の青あざは目立たないようで、目立つ。
「保健室行け」
先に言われて、トオルは笑った。
「お互い様」
短く沈黙。
からかう言葉はいくらでもあるのに、どれも違う気がした。
代わりに、トオルは言った。
「走るんだろ。放課後、見に行く」
「頼む」
それだけの会話で、十分だった。
放課後のトラックは、秋の手前の光で乾いていた。
スパイクの音が、乾いた地面を刻む。
ユウが走る。
ナミが外周の芝の縁に立って、その背中を見ている。
浅海ソラはカメラを構え、しかしシャッターはあまり切らない。
切るべき時を、待っているのだろう。
トオルはスタンドの一番上で、腕を組んで見ていた。
足首にまだ、昨夜の痺れが少し残っている。
目の前を通過するたび、ユウの表情が変わる。
痛み、迷い、怒り、そして一瞬の解放。
あいつは、あいつでちゃんと戦っている。
ふいに、ナミがトラックの内側にしゃがみ込み、手を伸ばした。
芝の上に落ちた小さなものを拾う。
光の粉みたいに、指先でほどける。
彼女はそれを胸もとでぎゅっと握って、目を閉じた。
ユウが一周して戻ってくる。
目が合い、少し笑う。
その笑いは、昨日までのどれとも違った。
強がりでも、諦めでもない。
いま持っているものをいま持っているだけ、という顔。
それで十分だと思えた。
夕焼けがグラウンドを長く塗りつぶすころ、トオルはスタンドを降りた。
ユウの方へ歩く。
途中、壁の向こうに朝の「光の影」が見えるような気がした。
たぶんもう、誰も集まってはいない。
でも、あれはしばらく残るだろう。
風雨に削られて、いつか消える日まで。
消える日が来るなら、そのときはその前に、もっと別の跡を残しておけばいい。
ユウの前に立つ。
「次、殴り返す番だぞ」
冗談にしては、少しだけ本気。
ユウはタオルで汗を拭き、笑った。
「やめとく。痛いの嫌いだし」
「俺もだ。だから、今日はやめ」
くだらない。
でも、必要だった。
トオルは小さく手を上げ、ナミの方へ視線をやった。
彼女は胸の前で何かを握りしめ、こちらを見ている。
その目の奥に、海と空と、そして壁の白い跡が映っていた。
トオルはその視線を受け止め、頷いた。
夜。
帰り道の空は、星が少しだけ戻っていた。
トオルはポケットの中で拳を握る。
昨夜の光は幻かもしれない。
でも、壁には跡がある。
今朝見た、確かなもの。
見たものが、世界に残る。
浅海ソラが言っていた言葉の意味が、すこしだけわかる。
忘れてもいい。けれど、「忘れたくなかった」ことは、残る。
悔しさも、笑いも、告白も、拳の熱も。
どこかに薄く、焼き付いていく。
スマホを取り出し、ユウとのスレッドを開く。
「明日も走るのか」
送信。
すぐに既読がつく。
「走る」
短い返事。
それだけで、今日は眠れそうだった。
画面を閉じて、空を見上げる。
星と星の間に、ほんの少しだけ、人の光が混ざる。
まだ終わっていない。
終わらないうちに、言うべきことを言った。
それで十分じゃない。
でも、始めるには足りる。
トオルは歩幅を広げた。
背中の向こうで、学校の壁が静かに冷えていく。
白い跡は夜の中で見えなくなるけれど、朝が来ればまた浮かび上がる。
誰かが指でなぞり、誰かが写真を撮り、誰かが見上げて立ち止まる。
そのたびに、あの瞬間の熱が世界にもう一度広がる。
届かない手を、もう一度伸ばすみたいに。
そして、遠く海の方角で、一筋の光が立った。
トオルは立ち止まらなかった。
立ち止まらないで、心の中でだけ、はっきりと誰かの名を呼んだ。
壁の前の自分が、今も腕を伸ばしている。
掴めなかったものに向かって。
だけど、その腕は、昨日よりきっと遠くまで伸びている。




