第3話 失われた日常
九月の終わり、学校の廊下に風が吹き抜けた。
窓際の掲示板には、休学届の名前が増えている。
誰かがいなくなっても、先生は「体調不良」とだけ言う。
黒板の名札は、昼休みには外されて、次の日には新しい席ができる。
それが、もう珍しくなくなっていた。
春日ユウは、黒瀬トオルといつものように昼食を取っていた。
購買で買ったパンを半分にちぎり、机の上で投げ合う。
「なぁユウ、俺ら、卒業できると思う?」
トオルは笑いながら言った。けれど、その声の奥には小さな震えがあった。
「できるだろ。卒業式、きっと放送で済ませるよ」
ユウが冗談っぽく返すと、トオルは笑った。
「だよな。俺、絶対泣かないタイプだからさ。……でも、消えるのはイヤだな」
「バカ。縁起でもないこと言うな」
「わかってるけどよ。昨日、向かいのクラスのやつが急に……」
その先は言葉にならなかった。
教室の外、遠くの空に細い光の筋が立っている。
放課後。
ナミは屋上にいた。
風に髪を遊ばせながら、フェンスの向こうの夕焼けを見つめている。
「また撮りに行こうよ」
と、浅海ソラが声をかける。
「今日の夜、遊園地。もう誰もいないから、ライトも好きに点けられる」
「春日くんも誘っていい?」
「もちろん」
ナミは笑い、携帯を取り出した。
夜。
篠ヶ浜の外れ、錆びた看板の向こうに廃遊園地がある。
観覧車だけが、まだ息をしているように夜風にきしんでいた。
ユウとナミはフェンスを乗り越え、静かな園内を歩く。
足もとには落ち葉とガラス片。
遠くで、壊れたメリーゴーランドの馬が月明かりを反射して光る。
「昔、ここに来たことある?」
「うん。ミナと。あの観覧車、すごく好きだった」
「……そっか」
ナミは視線を落とし、そっと笑う。
「私もね、小さいころ父に連れてこられた。もう覚えてないけど、音だけが残ってる。カタカタって、風で回る音」
ユウは無言で頷いた。
どこかで風鈴のような音がして、止む。
二人は観覧車のゴンドラに乗り込んだ。
錆びた扉を閉めると、モーターの残り火のような音を立ててゆっくりと上昇する。
足もとに広がる町は、穏やかで、まるで眠っているようだった。
どこかの家の明かりが消え、またひとつの窓が暗闇に溶ける。
「きれいだね」とナミが言う。
「壊れかけてるけど」
「壊れるから、きれいなのかも」
ユウは窓越しにナミの横顔を見つめた。
頬に月の光が当たり、うっすらと透けている。
「ねぇ、もしも明日世界が終わるなら、君は何をする?」
唐突な問い。
ナミは膝の上で指を組みながら、静かに続けた。
「浅海くんは、最後の写真を撮るって言ってたよ。トオルくんは、バカみたいに笑って終わりたいって」
「……俺は」
ユウは言葉を詰まらせた。
「考えたこともない」
「考えてみて。世界が終わるって、意外と現実的かもしれないから」
ユウは息を吐き、ゴンドラの天井を見上げた。
「……もし明日世界が終わるなら、誰かを守りたい。もう誰も消えてほしくない」
「守れると思う?」
「わからない。でも、逃げたくはない」
ナミはその言葉に小さく頷き、目を細めた。
観覧車は頂上に差しかかる。
町全体が見渡せる。
夜の海が黒く光り、街灯の列が水面に反射する。
だが、空には星がなかった。
代わりに、無数の光の粒が浮かんでいた。
人々が消えた後に残る微かな残光が、まるで星座のように瞬いている。
「ねぇ、見て。あれ、星みたいだよ」
ナミの声は震えていた。
「きっと、みんな、空のどこかで見てる」
ユウは言葉を返せなかった。
その光の中に、ミナもいるような気がした。
観覧車の揺れが止まり、モーターが静かに途切れる。
「……止まった?」
「多分、電力が落ちたんだ」
沈黙。
風だけが窓を叩く。
ナミは胸元を押さえ、かすかに笑った。
「ねぇ、春日くん。もし私が消えたら、泣いてくれる?」
「そんなこと言うな」
「でも、そうなったら、きっと泣いてくれるよね」
「泣かない。泣いても戻らないだろ」
「うん。戻らない。でもね、誰かが泣いてくれるって、それだけで人はここにいた意味になるんだって」
ユウは拳を握った。
それ以上、言葉にできなかった。
ゴンドラが静かに揺れるたび、外の光が二人の顔を照らす。
世界が壊れていく音が、遠くでかすかに聞こえた。
やがて、非常灯が一度だけ瞬き、機械が動き出す。
観覧車はゆっくりと降下を始めた。
ナミは膝の上でカメラを構え、シャッターを切る。
「今の、撮ったのか?」
「うん。止まってた時間って、特別だから」
ユウはその言葉を反芻するように呟いた。
「止まってた、時間……」
地上に降りると、ナミはしばらく空を見上げていた。
「ほら、星が少し戻ってきた」
「それ、きっと違う。人の光だ」
「人の光でも、いいよ。きっとみんな、どこかで見てる」
ナミはカメラを抱きしめ、笑った。
その笑顔は強がりにも見えたが、ユウは何も言えなかった。
家に帰ると、玄関の電灯がちらついていた。
母はテレビをつけたまま眠っている。ニュースキャスターが淡々と数字を読み上げている。
「感染報告、全国で一日百三十二名。うち回復者ゼロ」
回復者。そんな言葉がまだ使われていることが不思議だった。
ユウはリモコンを取り、テレビを消した。
静寂が部屋を包む。
自分の呼吸だけがやけに大きく響く。
机の上には、ナミからもらったメモが置かれていた。
『世界が終わる前に、また光を撮りに行こう。』
下に描かれた笑顔の落書き。
その丸い目が、少し泣いているように見えた。
翌日。
黒瀬トオルの席が空いていた。
朝のホームルーム。
担任はいつものように「体調不良です」とだけ告げた。
教室が静まり返る。
ユウは立ち上がり、廊下に出た。
窓の向こう、遠くの空で細い光が昇っていく。
ユウの胸の奥が焼けるように痛んだ。
「……ふざけんなよ」
拳で壁を叩く。
それでも、涙は出なかった。
放課後。
屋上に出ると、ナミがフェンス越しに海を見ていた。
風が制服の袖を揺らす。
「黒瀬くん、消えたね」
「知ってたのか」
「うん。昨日、写真を撮らせてって言われた。笑ってたよ。最後まで」
「……何それ、ずるいだろ」
「ずるいけど、きっと彼らしい」
ナミは目を細め、涙をこぼした。
ユウはその肩に手を置こうとしたが、迷って、やめた。
手を伸ばしたら、彼女が消えてしまいそうだった。
夕焼けが校舎の壁を赤く染めていく。
「春日くん」
ナミが小さな声で言った。
「私ね、怖いの。自分がいつ消えるのか。どんな顔でいなくなるのか。でもね、あの観覧車の上で思ったんだ。世界が終わっても、見ていた光は残るって」
ユウは黙って聞いていた。
ナミの声が、風に溶けていく。
「だから、もし私が消えたら――その光を、覚えていてほしい」
「消えないでくれよ」
「うん。できるだけ頑張る」
笑いながら、ナミはポケットからペンダントを取り出した。
ユウの妹の形見。
「これ、預かっていい?」
「なんでだよ」
「撮る時、持ってると、強くなれる気がする」
ユウは少し迷ってから、頷いた。
「無くすなよ」
「うん。約束」
その夜、ユウはまた夢を見た。
観覧車が回る。ミナが笑う。ナミがその隣でカメラを構える。
光が溶け、空が割れ、二人の姿が混ざっていく。
ユウは叫んだ。
「やめろ……行くな!」
声は届かない。
手を伸ばしても、指先は光に飲まれる。
目を覚ますと、外は雨だった。
窓の向こうに、淡く光る影が見えた気がした。
ユウは立ち上がり、ガラスに手を当てた。
雨粒がその手のひらをすべっていく。
「ナミ……」
声に出すと、どこかで雷が鳴った。
それが返事のように響いて、すぐに消えた。
翌朝、空は晴れていた。
登校途中、ユウは観覧車の方向を振り返った。
夜明けの光の中で、観覧車の鉄骨がうっすらと虹色に光っていた。
それはまるで、まだ誰かが乗っているように見えた。
風が吹き、金属の軋む音が遠くで鳴る。
ユウは歩き出した。
失われた日常の中で、それでも人は何かを残そうとする。
笑い声でも、涙でも、光でもいい。
世界が終わるその時まで、きっと。
空にはまだ、消えきれない光が残っている。




