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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第26話「夜明けの鼓動 ― そして、始まりの手紙」

 夜明けは、いつもより慎重にやってきた。東の雲が薄くほどけ、最初の光が分散膜にやわらげられてから灯台のガラスに触れる。海は静かだった。まるで何事もなかったみたいな顔をしている。けれど、何事かがあったからこそ、この顔でいられるのだと、僕らは知っていた。


 公民館の丸は増えていた。白い円は夜の雨に少し滲み、その上に新しい円が重なって、駐車場じゅうが薄い重なりで覆われている。掌の熱が、地面に残ったまま形を変えていた。


 灯台の上では、サトルの端末に“暫定合意”のメッセージが届いていた。「分散モデルの臨時採用。停止ユニットは縮小・待機。保護区域の設定は『観測・文化的価値の保全』を名目に限定」。言葉は乾いている。だが、乾いた紙にこそ、僕らの色を染み込ませることができる。サトルは小さく息を吐き、端末を閉じた。


 「僕の役目は、ここまでだな」


 ソラが微笑んだ。「観測者、降りるの?」


 「形を変える。観測は続けるけど、名札はしまう」


 彼の声には、穏やかな疲れと誇りが混ざっていた。


 トオルは反射板を外し、鏡をたたみ、工具箱を閉じる。拳にあった青い痣は、いつの間にか薄くなっていた。彼はユウを見て、ぶっきらぼうに言う。


 「お前、よく持ったな」


 「お前もな」


 それだけ。だけど、言葉の短さの中に、長い時間が詰まっていた。


 リンは胸ポケットから白い石を取り出し、光にかざす。「返してくる」と言った。「兄ちゃんが消えた海に」


 ユウは頷いた。「帰ってきたら、丸に線を一本足して。続きの印だ」


 リンは笑って走り出した。その背中に、夜明けの光が追いついていった。


 ナミは塔の窓辺に立ち、海を見下ろしていた。右手の指先は輪郭を取り戻している。完全ではない。ときどき薄くなる。けれど、戻る。そのたびに、彼女は小さく息を吐いた。


 「学校、行く?」ユウが尋ねる。


 ナミは「うん」と答え、少し考えてから付け足した。「遅刻で」


 二人は笑った。遅刻が許される朝は、世界が続く朝だ。


 灯台を降りる前、ナミは『誓いのノート』を開いた。最後の白紙のページに、震える手で一行を書く。


 ――世界が滅ぶまでにキスをしよう。世界が滅ばなかったら、明日も。


 それはすでに何度も口にした約束の、紙への引き取りだった。紙は重くならない。重くしない。重さは掌と胸で持つ。


 坂道を下る途中、朝の匂いが戻ってくる。パン屋のバター、漁協の前に並ぶ空の発泡スチロール箱、学校の校庭に落ちる水まきの音。職員室の窓の向こうで、厳しい先生が紙コップのコーヒーを両手で包む姿。どれもが懐かしい音で、懐かしさそのものが呼吸になっていた。


 日常は、音でできている。いくつかの音はもう戻らない。けれど、残った音が少しだけ大きく聞こえる。


 午後、ソラは展示を貼り直した。色の抜けかけた印画紙の隣に、新しい写真を並べる。丸の中で掌を重ねる人々。港で石を海に返すリン。反射板を抱えるトオル。端末を閉じて背筋を伸ばすサトル。そして、窓辺で頬を寄せ合う二つの影。キャプションは同じだ。


 ――これはあなたの空です。


 展示の前で立ち止まる生徒たちは、説明を求める顔をしない。代わりに深呼吸をしてから、静かに次の授業へ向かう。


 夕方、校舎の屋上。ナミとユウはフェンスに背を預けて座っていた。風が通る。


 「わたし、これからも薄くなったり、濃くなったりすると思う。そのたびに、怖い」


 「怖いって言って。毎回。毎回、持つから」


 ナミは小さく笑い、「じゃあ、明日の朝、また遅刻で」と言った。


 「遅刻で」とユウも返した。


 夜、ユウは机の引き出しからメトロノームを取り出し、ネジを巻いた。カチ、カチ。そのリズムの中で、机に置いた『誓いのノート』の表紙を指でなぞる。ノートの最後のページの裏、厚紙の内側に一枚の紙が貼られているのに気づいた。そっと剥がすと、そこには手紙。


 差出人は“ミナ”。


 日付は、終焉病が報道される少し前。


 「お兄ちゃんへ。わたし、“明日も”って約束が好き。たぶん世界は終わらないよ。明日もあるから」


 字は幼い。けれど、その幼さが、世界を支える梁のように見えた。


 ユウは窓を開け、夜風を吸い込む。遠くで波の音。町のどこかで小さな笑い声。公民館の丸は、雨で半分消えかかっている。けれど、また描けばいい。丸は何度でも描ける。描くたびに、少しずつ太くなる。少しずつ、持てる。


 ユウはペンを取り、ノートの余白に一行だけ書く。


 ――記録:明日、遅刻。


 それは冗談のようでいて、強い宣言だった。明日を生活で埋める宣言。物語の外側に出たあとで生きるための、最小で最大の予定。


 夜明け前、ユウはうとうとしながら、掌の中に微かな鼓動を感じた。自分のでもあり、ナミのでもあり、遠くの誰かのでもある鼓動。たぶん、それで十分だ。世界は鼓動の総和で、ほんの少し動きを緩められる。緩められるうちは、まだ間に合う。


 タイトルに手を触れる。


 ――世界が滅ぶまでにキスをしよう。


 ページを閉じると、外の空気が少し甘かった。遠くで鳥が鳴く。カーテンの隙間から薄い光。その光は、網を一度くぐって、部屋の床にやさしく広がっていった。


 ――明日も。


 そして、物語は静かに息をした。


〈了〉

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