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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第25話「零時のキス」

 零時の鐘は鳴らない。代わりに、海が低く鳴った。耳の奥で骨をやさしく叩くような、あの振動が塔の芯を伝って、僕たちの足裏まで届く。灯台の階段は一日で幾度も上り下りしたせいで手すりの塗装が少し剥げ、そこに僕らの汗が薄く塩を残している。塔の中ほど、窓枠から入る夜風はぬるく、しかしひたいの熱を撫でるぶんだけは冷たかった。


 糸が一度だけ緩み、次の瞬間、これまででいちばん太く、まっすぐに伸びた。ナミの胸の内側から伸びる光の糸。あれはもう、ただの比喩じゃない。空気に浮いた埃に線香の煙が筋を見せるみたいに、糸は目に見える実在で、塔の天井梁のあいだに薄い幕を張る。幕は波に濡れず、風にも揺れず、世界のほうが息をひそめて糸の伸びに合わせている。


 ナミの体温が上がるのが、掌から分かる。僕は彼女の背中、肩甲骨の少し内側に手を当てて、熱の波を受け取った。掌で受けられるうちは、まだ間に合う。掌からこぼれるぶんは、上で揺れる網が受ける。網で受けられるうちは、まだ間に合う。そういうふうに物事を、今夜は信じる。


 階段を駆け上がってきたトオルが息を切らせて叫ぶ。「反射板、限界。持っても三分」 腕に白い粉じんがつき、手の甲には小さな擦り傷が増えていた。外の踊り場で微調整を繰り返しているせいだろう。彼は額の汗を雑に拭い、屋根越しに海のほうを見た。「波が変だ。呼吸が浅い」


 「町の丸、増えてる」


 窓辺に立つソラは両腕を広げ、外の夜を身体で測るように言った。「公園、港、学校の昇降口、漁協の前。さっきまで無かった地点に、三つ。公民館の駐車場は丸が重なって楕円になってる。……みんな、少しずつ持ってる」


 サトルは端末の画面を二度、横へ払う。「停止ユニットの出力が揺れている。現場判断で下げたり上げたりしてる。揺らせるうちは、折れない」 彼の声は冷静だが、唇の色が少し浅い。昼からほとんど何も食べていない。「会議網、審議スロットに写真を流す。文言は固定でいく」


 ――これはあなたの空です。


 無音の五文字が、いくつもの肩書の目の前に現れては消えていく。同じ短文を反復することのずるさと強さを、僕は今さらのように思う。説明がないから、読む人間が自分の都合で埋める。そこに、揺れが生まれる。


 塔の中央で、ナミが僕を見た。瞳の奥に、掌から伝わるのと同じ熱が揺れている。「ねぇ、わたし、ここで終わってもいいよ」 声は小さいがはっきりしていた。「終わりを“私の終端”にして、世界を延ばすなら。それはきっと、物語として綺麗だし、みんなも納得する。……でも、できれば、嫌だ」


 僕は首を振った。「嫌だでいい。綺麗じゃなくていい。俺は“嫌だ”の味方だ」 言って、自分の喉が震えるのを感じる。綺麗じゃない言葉のほうが、今夜はよく通る。


 ナミの目が潤み、笑う。「ありがとう。じゃあ、約束どおり。いま、キスしよう。誓いでも祈りでもない、ただの“わたしたちのこと”として」


 僕らは近づいた。窓ガラス越しに、星の落下がスローモーションに見える。分散膜の細い繊維が風にほどけては結び直され、そのたびに塔の内側の空気が少しだけ甘くなる。唇が触れる。洞窟で交わしたキスより、短い。けれど、短さの中にちゃんと“今日”が収まっている。舌の先で確かめるような湿り気はなく、少年の口づけにふさわしい乾きがあった。離れたとき、ナミは息を吸い、「怖いの、半分になった」と言った。半分は網に渡された。半分を抱えて、僕らは立っている。


 零時を越えた瞬間、塔の内側で微細な「雨」が降った。昨日みたいな光の雪ではない。もっと重たく、もっと静かな粒。手の甲に落ちる速度が、かすかに聞こえる。ソラが小さく呟く。「涙みたい」


 トオルが掌を上に向け、粒を受けた。「これ、何だ」 


 サトルは画面から顔を上げずに答えた。「記憶の微塵。人が消えるときに空に残る“揮発しきれなかったもの”。分散が間に合った分だけ、粒になって降りてくる」 


 僕は掌の粒を胸元に寄せた。粒はすぐに消える。消えるけれど、消えたあとに温度が残る。ミナのアルバムのページをめくったときに、指先に残ったあの温度に似ていた。あれは写真の紙の温度じゃなくて、あの夏の夜の、屋台の焼きとうもろこしの煙や、浴衣の絹の擦れる音や、見知らぬ誰かが笑う口角の角度や、そういう細かいもの全部の温度だ。きっとこの粒も、同じだ。


 「明日もキスしよう」


 僕は言った。自分で言って、驚いた。祈りというより、予定表の一行みたいに口をついて出たのだ。「世界が滅ばなかったら、明日も」


 ナミは小さく頷いた。「うん。明日も」


 外の動きが変わった。ヘリは一度高度を取って海側へ回り、砂地では停止ユニットの一つが電源を落とされて持ち上げられている。撤収の準備。現場の判断だ。サトルの会議画面の隅に小さな文字が灯る。「分散モデル、暫定運用」「停止ユニット段階的縮小」。砂の城は崩れやすい。けれど、城を崩すのもまた砂だ。誰かが蹴飛ばすのではなく、全員の靴裏に少しずつ付いた砂が、形を変えていく。


 「最大波、来る」


 反射板の影に身を屈めていたトオルが、空を切るように指を立てた。同時に、音が消えた。いや、消えたのではない。世界の“輪郭”がほんの一瞬だけ外側にずれ、音の居場所がわからなくなったのだ。塔の壁が近くなり、床が遠くなり、呼吸が深くなる。僕は反射より早くナミを抱き寄せ、ソラは床に手をつき、トオルは反射板を倒して自分の身体で押さえ、サトルは端末を閉じ、全員が目を閉じた。目を閉じたまま、同じ長さで吸って、吐く。公民館の丸でも、同じ呼吸が回っているのが分かる。丸の中心に置かれた小さな灯籠の火が、揺れながらも消えない。子どもの泣き声が一度だけ上がり、すぐに隣の肩に吸い込まれていく。


 ずれは、戻った。完全ではない。けれど、戻った。塔の中に張られた逆さの天の川が一度ふるえ、次の瞬間、糸は細く安定する。ナミの肩が上がり、目尻の涙が止まる。僕は額を寄せ、「終わった?」と囁く。ナミは微笑んで、「まだ」と答えた。「でも、“今日”は間に合った」


 下から、足音。踊り場に隊員が二人、フェンス越しにこちらを見上げた。黒いヘルメットと透明なフェイスガード。彼らの背中は、僕らと同じように汗で濡れている。拡声器を持った隊長が短く言った。「上の者に伝えている。安全の確保が最優先だ。協力を」 言葉は整っていた。嘘ではない。でも、「安全」という単語だけでは、この塔の中の熱と重さには触れてこない。


 ソラが窓から身を乗り出し、腹の底から声を出した。「あなたたちの安全にもなる。見て。無理に押せば、そっちのユニットが焼ける。……一歩引いて。光の逃げ道を、少しだけ残して」 隊長はヘルメット越しに辺りを見回し、顎で合図する。ユニットの出力が一段落ちた。砂地の波紋が浅くなる。トオルの肩から、固い息が抜ける。「持つ」


 サトルの端末が、別の通知で震えた。会議網の外側に、一般の回線から短い文字が流れてくる。公民館の丸にいる見知らぬ誰かの投稿。「丸、二十二。幼稚園の父兄、四。漁協の会計、二。老人ホーム前、三。合掌。呼吸。落ち着ける」 文章になっていない報告の、その不器用さが効いた。数字になりきらない数字は、物語のほうへ少しだけ傾く。


 塔の中で、また雨が降った。さっきより粒が大きい。掌に落ちると、はっきりと重みが分かる。リンからの連絡は途切れがちだったが、その合間に短い通話が繋がって、彼女の息の音が入った。「丸を増やす。声は、小さく。肩、触る。泣いてる子、笑った」 大人になりきれない声が、今夜の中心からまっすぐ届いて、僕は胸の奥が少しだけ楽になる。


 「ユウ」


 ナミが僕の名を呼んだ。声は穏やかだった。「ねぇ、私、もうひとつ、言っていい?」


 「言って」


 「もし私が、やっぱり終わりに近づいちゃったら、そのときは“止めないで”って言うかもしれない。それは嘘じゃない。正直に“嫌だ”って言ったあとで、正直に“止めないで”って言うかもしれない」


 「うん」


 「その二つは矛盾してない?」


 「してても、いい」


 言いながら、僕は自分で驚く。矛盾が許されない夜なんて、世界のほうが破れる。


 「じゃあ、もうひとつ」


 ナミは続けた。「私、今日、二回キスした。洞窟で一回、塔で一回。どっちも、終わりの合図にはしなかった。だから、明日もできる。予定。……それ、すごいね」


 「うん。予定は、すごい」


 笑うと、肩の力が少し抜ける。笑いは、網の目のたわみ方を教えてくれる。


 トオルが階段の影から顔を出す。「反射板、一本、もう持たない」 彼は迷いなく言った。「下ろす。残りを角度変えて、役割を分ける。薄く広く」


 「やって」


 サトルがすぐに配置図を書き換え、海からの位相のズレを反射板の角度へ翻訳する。ソラは偏光フィルムの端を剥がし、別の角度で繋ぎ直す。貼り合わせの継ぎ目が一本、きれいに斜めの線になり、そこに糸の光が集まってまた散った。パッチワークの布みたいな網。完璧ではない。だから、破れにくい。


 外の暗さが、一段、浅くなった。星の尾はまだ落ちてくるが、落ちてくる間隔が伸びている。ヘリは岬の上空で大きく旋回し、ドローンは灯台からすこし距離を取った。公民館の丸には、新しい小さな丸が寄り添って増えていく。チョークの粉が靴のつま先からふくらはぎにまで上がって、子どもたちの膝が白い。


 サトルの画面に新しい行が現れる。


 ――一時停止の前倒し、見送り。分散試行、継続。小学校体育館、丸設置許可。


 ――“明日”に間に合わせる。


 その文字を、僕らは同時に読んだ。信じきるには足りない。けれど、今夜を渡り切るには十分だ。


 「ねぇ」


 ソラが窓から身を引いて、こちらを見た。「撮らないままでいようと思ってたけど、一枚だけ、撮っていい?」


 「いいよ」


 ソラはファインダーを覗かず、胸の高さからシャッターを切った。窓の外、公民館の丸と、丸の外に立つ列と、その境目で舞うチョークの粉。画素の粒子に、呼吸の粒が重なる。キャプションはいらない。写真は、呼吸の記録だ。


 トオルが反射板から両手を外して、屋根に座り込む。腕の筋肉が小刻みに痙攣している。「なぁ、星が降ってきてる」


 「うん。降りてきてる」


 ナミが同じ空を見上げる。左袖の空虚は夜の色を吸って、そこだけ少し明るい。右手は、しっかりと僕の手を握っている。指先がまだ、熱い。熱は、生きている証の形をしている。


 零時の鐘は鳴らない。海が低く鳴る。塔の内側に、逆さの天の川が揺れる。窓の外、公民館の丸では老人が子どもの肩に手を置き、保育園帰りの母親がベビーカーを丸の外に出してからもう一度中に入れ、漁師が自分の掌をじっと見てから、隣の掌に重ねている。誰も英雄にならない夜は、静かで、長い。


 僕はナミの額に唇を寄せた。「終わった、って言う代わりに、言わせて」


 「なに」


 「間に合わせよう」


 ナミは目を閉じ、頷く。「間に合わせよう、明日に」


 塔の天井に張られた網の一角で、星の尾がひとつ、音もなく伸びて、触れた。薄い震えが塔の芯を伝って、僕らの掌に小さく届く。その震えは、怖さの形であり、同時に、僕らがここにいるという事実の形でもあった。


 零時のキスは、物語の真ん中に小さな針を刺してページを止める行為だった。針の頭には、明日という文字が小さく刻まれている。ページは完全には止まらない。風が吹けば、端がめくれそうになる。けれど今夜だけは、針が利いた。僕らが重ねた掌の重さと、町で増えた丸の呼吸と、灯台の白い体躯と、海の低い鳴動と。そういう全部がいっせいに、針の下に集まっている。


 階段の下で、靴音が一度鳴り、止んだ。隊長が拡声器を使わずに言う。「現場判断で、いったん引く。……夜明けに再確認する。それまで、頼む」 頼む、という言葉は、命令よりも重いと、初めて知る。サトルは短く「了解」と返し、端末を胸に抱えた。


 ソラが偏光フィルムの端を撫でる。指先に光の粉がつき、爪に薄く溜まる。「ねぇ、家に帰ったら、ぜんぶ洗濯しなきゃね」


 「洗濯、したくなるほど、明日がほしい」


 トオルが笑い、ソラも笑う。笑いは、まだ震えている。震えたままでも、笑っていい夜だ。


 ナミは僕の掌に指を絡め、ゆっくりと言った。「今日のキスは、今日のためのキスだった。明日のキスは、きっと、明日のために」


 「うん」


 「だから、寝よう。少しでも。寝て、起きて、また持とう」


 「そうだな」


 毛布を肩にかける。発電機は落としてある。ラジオは小さく。塔の窓から入る夜風は塩を運び、掌の粒の温度を残したまま過ぎていく。僕らはようやく横になる。ナミの呼吸は浅いが、規則正しい。僕の呼吸に寄り添って、すこしずつ深くなる。


 零時の鐘は鳴らない。けれど、海は鳴った。塔も、網も、丸も、みんな鳴って、静かになった。静けさは、終わりの合図じゃない。次のページの手前に置く、指の腹の場所だ。ページに刻まれた小さな針の頭に、明日という文字が、はっきり読める。


 目を閉じる直前、僕はもう一度だけナミの手を握り直した。熱はまだ、そこにあった。夜は、これから深くなる。最後の章へ続く、長い夜が。僕らはその夜を、予定のある夜として、迎えた。

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