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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第24話「星が落ちる日」

 夕焼けは、磨き古した銅の皿みたいに鈍く沈み、海は呼吸を忘れた板ガラスのように平らだった。岬を撫でていた風は弱まって、代わりに耳の奥だけを叩く低い圧がじわじわ増える。灯台の上ではトオルが反射板の角度を一度ずつ確かめ、ソラが窓に貼った偏光フィルムを二重に重ねて、光の網目の密度を上げる。サトルは接続端末を三台に増やし、行政とセンターと自治体の“発言スロット”の隙間を見つけては、写真と短文を挿し込んでいった。短文はいつも同じだ。


 ――これはあなたの空です。


 説明も数式もないその一行が、賛否の欄外に小さな罅を入れていく。画面越しの沈黙の向こうで、誰かが眉をひそめ、誰かが息を止める。その「気配」を、ソラの写真が静かに広げていく。


 公民館の前では、リンが声を張り続けていた。昨日まで署名の列に並んでいた老人、漁師、保育園帰りの母親、放課後の高校生、店を閉めた惣菜屋の夫婦が、彼女の隣に立つ。紙の上の数字の代わりに、掌に乗る重さが増える。誰かが聞く。「どれくらい持てばいい?」 リンは首を振る。


 「“どれくらい”は、あなたが決める。私も決める。少しでいい。少しずつでいい」


 会話は輪になり、駐車場に白いチョークの丸が増える。丸の中で、みんなが静かに掌を重ね、深い息を合わせる。儀式は素朴で、驚くほど簡単だった。簡単なことだけが、今のこの町で確実に実行できることだった。


 同じ時刻、灯台にヘリの影が伸びた。低い回転音。実動部隊の隊員たちが砂地に降り、フェンス沿いに速やかに展開する。黒いケースから取り出された縮小版の停止ユニットが三脚に載せられ、緑色のインジケーターが点る。サトルが通信に割り込み、「ここは保護区域の審議中だ。現場の強行は――」と告げる。返答は丁寧で、内容は硬い。


 「審議に時間はない。現地の安全を優先する」


 ソラは窓の隙間からファインダーを覗き、「来る」と短く言った。トオルは頷き、反射板の一枚をわざと角度違いにずらす。


 「相手のセンサーを“迷わせる”ための嘘だ」


 サトルは即座に電波の死角を地図に上書きする。嘘は責任ごと引き受ける。そう決めたから、誰も顔を背けない。


 僕はナミの背中に掌を当てて、脈の速さを測った。早い。けれど潰れてはいない。胸も喉も熱いらしい。右手の指先の輪郭がときどき滲み、空気に染み出した光が細い糸になって、上へ引かれていく。灯台の天井の梁に、薄い膜みたいな光の面が張られ始めている。昨夜の洞窟で織った“網”が縦に延び、塔の内側に逆さの星座を描いていた。


 「痛い?」


 尋ねると、ナミは短く息を整え、「熱い」と答える。言葉の選び方が、彼女の輪郭を少しだけ強くする。僕はポケットのメトロノームを取り出し、針を軽く弾いた。小さな音が、灯台の壁に吸い込まれる。大声で鼓舞するより、この小さな規則のほうが効く気がした。


 第一波は前触れなく来た。海の水平線の下から夜が一本、早くやってくる。昼と夜の境界が鋭い糸みたいに立ち上がり、それが町の屋根を一斉に縫いはじめる。電柱の影が伸び、家々の窓が一秒だけ暗転し、戻る。分散の膜が受け止めている。代わりに、受け止めた分の熱が塔の中心へ集まる。ナミの肩がわずかに落ち、そのたびに彼女の熱が僕の掌へ移ってきた。


 「俺も持つ。君の分を、少し」


 言うと、ナミは笑って、短く頷く。下では隊員がユニットを起動する。黒い円盤の中心から冷たい風が漏れ、砂地に同心円の波紋が走る。サトルが端末で位相のズレを追い、反射板の角度に翻訳する。トオルがボルトを締め直し、鏡を回し、網に“たわみ”を作る。まっすぐ来る刃は折れやすい。少したわませれば、刃は鈍る。ソラは写真を撮らない。今は撮らないと決める。撮らないことで残るものがある。


 第二波。灯台が沈むように全体で一度うなだれる。ガラスが鳴り、梁が軋む。ナミが息を詰める。「だいじょうぶ」と言う声が、いつもより薄かった。僕は額を寄せる。


 「だいじょうぶじゃなくていい。怖いって言って」


 ナミは目を閉じ、「怖い」と言った。その一語だけで、光の糸の張りがわずかに和らぐ。嘘をつかない声は、網の一部になる。公民館の丸の中でも、リンが「怖い」と言い、老人が「怖い」と言い、母親が「怖い」と言い、そのあとで全員が「持つ」と言った。手順は単純で、しかし確かだ。


 第三波は光を伴って落ちた。空からも海からも地面からも、あらゆる方向の光が一秒だけ集中し、星が海に落ちたみたいに岬全体が白くなる。隊員の一人が膝をつき、円盤の上で手を焼き、ヘリのローターが失速しかけて空に黒い円を描く。塔の内側では、ナミが「今、キスしたい」と言い、僕は「今は息を合わせよう」と返す。その合図で、二人のリズムが揃う。そろったテンポの上に、光の膜がもう一層重なった。サトルの画面に会議の文字が流れる。「一時停止の代替案検討」「分散モデル一次承認」。仮の印だ。砂の城でも、いまは足場になる。


 「ユウ、上」


 ソラの声。僕らは同時に見上げた。灯台の天井に張られた光の面が、星の配置を真似るように点滅している。外の空より密度が高い。塔の内側に、町とは別の夜空が生まれていた。トオルが屋根に身を乗り出し、反射板の端を両手で支える。腕が震え、額に汗がにじむ。


 「角度、一度。……もう一度」


 指示を出すサトルの声は落ち着いて、早い。会議網の向こうでは、賛否の光が点いたり消えたりする。彼はそこへ、ソラの写真を一片ずつ投げ続けた。人のいない教室。海の灯籠。廊下で写真を見上げる子どもの後頭部。色が抜けかけた印画紙。キャプションはやはり五文字だけ。


 ――これはあなたの空です。


 公民館では、丸の数が増えていた。列から抜けた人が一人、また一人と輪に加わる。チョークの粉が風に舞って、靴の先を白くする。リンは声を張りすぎずに言葉を繰り返した。負担の単位を、怖さの量に合わせて変える。子どもにも高齢者にも、持ち方はある。掌、歌、隣の肩。難しい機械では測れないけれど、そこに確かな重さが生まれていく。


 「来る!」


 トオルの叫び。第四波は形を変えてやってきた。海の底から持ち上げられたように、水平線が一瞬だけ盛り上がり、目には見えない段差が走る。町の屋根の影が段差に引っかかって、ぎざぎざに歪む。反射板が悲鳴を上げ、偏光フィルムが一部、熱に耐えきれず波打った。ナミの糸が急に太り、彼女の肩が落ちる。僕は抱き留め、耳元で短い言葉を重ねた。励ましでも慰めでもない、ただの合図。「ここにいる」。それだけ。


 サトルが端末を切り替える。会議網の上に、別の回線を重ねた。公民館の丸の音が、副音声みたいに配信される。ざわめき、チョークの擦れる音、子どもの笑い声、小さな泣き声。数字の上に「生活の音」が薄く降りていく。画面の向こうの誰かが、初めてミュートを外しかけて、また戻す。その迷いが、こっちの空気を少しだけ軽くした。


 実動部隊の隊長が拡声器で呼びかける。


 「上の者に伝えている。安全の確保が最優先だ。協力を」


 言葉は整っていた。嘘ではない。でも、いまここで「安全」と言うだけでは足りない。ソラが窓から身を乗り出し、声を返す。


 「あなたたちの安全にもなる。見て。無理に押せば、そっちのユニットが焼ける。……一歩引いて。光の逃げ道を、少しだけ残して」


 隊長は短く合図し、ユニットの出力が一段落ちた。砂地の波紋が浅くなる。トオルの肩から、固い息が一つ抜けた。僕はナミの手を握り直す。指先はまだ熱い。熱いということは、ここにいるということだ。


 ふっと、空が暗くなった。雲ではない。高度の高いところで、星の密度が増えたからだとすぐに分かった。光の粒が、いつもより大きい。瞬きがゆっくりで、軌跡に短い尾を引く。塔の内側でも、外でも、星が近づいてくる。


 「星が……落ちてる?」


 ソラが呟く。誰も答えない。見たままが答えだった。岬の上空に、砂鉄を磁石で撫でたみたいな筋が幾本も走り、その一点一点が網に触れて、薄い音を立てる。触れた端から、光は弱まって消え、代わりに網の目が一段強くなる。美しさは、刃物みたいに鋭い。見とれてしまえば、切れる。ナミが小さく言う。


 「きれいだね」


 「うん。でも、怖い」


 正直に言葉を出すことで、薄い膜はへこみ、また戻る。僕らはそのへこみ方を覚えていく。


 会議網に新しいテキストが現れた。名札のないアイコンからだ。


 ――分散モデル、二次検証。自治体協力のもと暫定実施可。


 ――責任の配分は“それぞれ”。証拠は呼吸。証人は隣の人。


 サトルが即座に返す。


 ――了解。書類は後から追いつかせる。いまは、間に合わせる。


 トオルが反射板から手を離せないまま笑った。


 「書類は後から、だってよ」


 「物語の別名だから」


 サトルの返事に、ソラも笑う。緊張の中で、笑いは真っ直ぐに落ちて火種になる。小さくて、でも消えない火。


 公民館の丸の数は、夕暮れのうちに二十を超えた。ベビーカーを押す母親が、知らない老人に「ここ、入って」と手を引く。制服のままの高校生が、自分の親の肩に手を置く。誰も英雄にならない。誰も舞台の真ん中に立たない。ただ、丸の中に立つ場所を少しずつ広げていく。


 ヘリは岬の上空で旋回を続け、ドローンが二機、灯台の窓に寄って僕らを覗く。サトルが肩越しに言った。


 「誤魔化さない。見せる」


 ソラは頷き、窓を全開にした。潮の匂いが濃くなる。ドローンのレンズは黒い穴のようで、冷たく、正直だ。僕はナミの指をもう一度握り直す。


 「今のうちに言う。君がいなくなるのが怖い。でも、君を囲う世界で“自由だ”とは言いたくない」


 ナミはしばらく黙ってから、笑った。


 「うん。私も、同じ」


 言葉は少ない。少ないから、軽くない。僕らはそれで十分だと思えた。


 星はさらに近づく。落ちるというより、降りてくる。灯台のガラスに、短い尾を引いた光が点々と当たり、乾いた音を残す。それが一つ、二つ、三つ、網に吸い込まれて、消える。外では、リンが子どもの輪にしゃがみ込んで、丸の中心に小さな灯籠を置く。白い火が、風の加減で左右に揺れる。誰も火を囲んで歌わない。ただ、火がそこにあることを受け入れる。


 「ユウ」


 ナミが僕の名を呼ぶ。目の奥の光は静かで、深い。怖さときれいさの両方が、そこに並んでいた。


 「今は、しない。キスは」


 「うん」


 「終わりの合図に、したくないから」


 「うん」


 短い返事で、充分通じた。手と手の間に、少しの汗が挟まる。熱はまだ、ここにある。


 最後の波は、音だけで来た。海の底から響く低い音が、灯台の土台を下から持ち上げ、全部が一瞬だけ浮いた気がする。反射板の脚が鳴り、窓の桟が軋む。僕らの足元で、塔の中の小さな天の川が揺れた。星は落ちつづけ、網は薄く震えながら、それでも破れない。


 サトルの端末が震える。会議網の向こうで、誰かが短く言った。


 ――一時停止の前倒し、見送り。分散試行、継続。


 ――“明日”に間に合わせる。


 その言葉が、本当に信じていいものかどうか、すぐには分からなかった。けれど灯台の外に出た風が少し柔らかくなって、岬の影がわずかに短くなったのは確かだ。僕らが持った分だけ、夕暮れが遅れたのだと思えた。


 ソラがようやく一枚だけシャッターを切る。窓の外、公民館の丸と、丸の外に立つ列と、その境目で舞うチョークの粉。キャプションは要らない。写真そのものが、呼吸の記録になっていた。


 トオルが反射板から両手を外して、屋根に座り込む。腕の筋肉が痙攣している。笑いながら、空を指さした。


 「なぁ、星が、降ってきてる」


 「うん。降りてきてる」


 ナミが同じ空を見上げる。左袖の空虚は夜の色を吸って、そこだけ少し明るい。彼女の右手は、しっかりと僕の手を握っている。指先がまだ、熱い。


 ヘリが一度だけ大きく旋回して、海の上へ離れていく。ドローンは窓から離れ、灯台の周囲を外側へ回る。公民館の丸は消えない。火も消えない。僕らの網は薄くて、弱そうで、でも、まだ張られている。


 この夜の名を、まだ誰も知らない。書類の名前は後で付く。いまはただ、ここにいることだけが事実だ。


 星が落ち始めた。ほんのひととき、世界が美しすぎた。美しいという形容が刃になるくらいに。僕らは見とれないように、互いの手を確かめ合う。


 「間に合わせよう」


 僕が言うと、ナミは頷いた。


 「間に合わせよう、明日に」


 灯台の上に、星の尾が一つ、音もなく伸びて、網に触れた。薄い震えが塔の芯を伝って、僕らの掌に小さく届く。その震えは、怖さの形であり、同時に、生きている証の形でもあった。


 夜は、これから深くなる。最後の章へ続く、長い夜が。灯台の白は、暗い海の上で揺らがずに立ち、町の丸は風に削られながらも残る。僕らはもう一度、手を握り直した。熱は、まだそこにあった。

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