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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第23話「ぼくらの選択」

 洞窟を出ると、空は薄い青に白い傷のような雲が走り、海は不安になるほど平らだった。分散が効いているのか、風の刃は鈍い。けれど町のほうから米粒みたいな黒点が三つ、低空で岬の稜線を舐めるように進んでくるのが見えた。ヘリだ。サトルが端末を睨み、短く告げる。

 「センターだけじゃない。行政の実動部隊。“保護区域”案は、囲い込みの名目に変わった」

 選択の場が、思っていたより早く、こちらへ歩いてきた。腹の底で、覚悟の形がようやく固まる。分散で稼いだ時間は、多分、半日。なら、半日でできることを全部やる。

 「三つ、同時に動く」

 僕は言った。言葉にしてしまえば、もう戻れない。

 「一つ、岬の灯台を“時間の塔”にする。上から光の網を張って、ここ一帯の位相をさらに伸ばす。二つ、町へ呼びかけを出す。停止の列から一歩抜けて“いっしょに分散する”と名乗る人を募る。三つ、センターの会議網にソラの展示を流す。数字じゃなく、風景で合意を揺らす」

 トオルが眉をひそめる。

 「理屈はわかるが、全部は無理だ」

 「だから、分ける」

 サトルがすぐに補った。

 「僕は会議網に入る。発表を捻じ込んで、論理の穴をあける。ソラは写真を束ね、言葉は最小限。トオルは灯台で物理――ワイヤーと反射板、フレア、鏡。リンは……町へ。“人の声”を届けてほしい。子どもの声は、最短距離で届く」

 リンは唇を噛み、少し震えながら頷く。

 「……行く。怖いけど、行く」

 ナミがリンの手を包みこんだ。欠けた左袖の軽さは、そのまま空気に紛れた。

 「私の代わりに“ここにいる”と、みんなに言って」

 僕はナミを見る。

 「君は?」

 「灯台。私の糸は、上から張ったほうが広がる」

 走りながら、ソラは胸のストラップを締め直し、頭の中で展示の順番を組み替えていく。人のいない教室、海の灯籠、母のスカーフ、色が抜けかけた印画紙。キャプションは一言でいい。

 ――これは、あなたの空です。

 トオルは工具箱を肩に担ぎ、文化祭で使った反射パネルの置き場所を思い出す。灯台の倉庫に眠っているはずだ。サトルは走りながらコードを打ち、センターの臨時審議に“招待状のない発表スロット”をこじ開ける。足が止まらない。止まった瞬間、気持ちまで止まりそうで。

 岬は風が強かった。灯台の監視小屋は昨夜のまま。錆びた南京錠は開いたままで、窓ガラスは潮で曇っている。トオルが屋根に上がり、反射パネルを四方へ立て始める。ソラは窓に偏光フィルムを貼り、光の偏りを作る。僕はナミの背中に手を当てる。肩甲骨の下、呼吸の出入りが浅い。

 「痛いところ、教えて」

 「全部」

 ナミは笑って、すぐに「嘘」と付け足す。

 「いまは、少しだけ」

 サトルの端末に、会議の画面が開いた。無機質なアイコンが並び、数十の肩書が無音で見下ろす。

 「発表を」

 事務的な声。サトルは頷き、画面共有でソラの写真を流し始める。人のいない風景に、会議の沈黙が一度落ちた。

 「数字で測れない“減り方”が、ここにある」

 サトルはそれだけ言い、反論のマイクが上がる前に次の一枚を送る。廊下の展示を見上げる子どもの後頭部。海の灯籠。光に溶けかけた印画紙。会議の沈黙は、説明の代わりに十分だった。

 同じとき、リンは公民館の前に立っていた。署名の机。列は昨日より短いが、顔は硬い。大人の眉間に刻まれた恐怖のしわ。その先に置かれたボールペンの銀の反射。リンは深呼吸をして、声を張った。

 「分散が、できる。みんなで、少しずつ持てばいい。わたしも持つ。怖いけど、持つ」

 最初の数歩、誰も近づかない。沈黙がリンの肩に積もる。やがて、一人の老人が列から離れ、リンの隣に並んだ。

 「わしの番は、とっくに終わっとる。余りを持つぐらい、できる」

 次に、保育園帰りの母親がベビーカーを押して立った。赤ん坊は眠っていて、まつげが短く震えている。

「私も、少し」

 声は震えていたが、列から人がぽとり、ぽとりと零れ始めた。

 灯台の上。トオルが反射パネルの角度を変えるたび、海面の光が網目に散り、ナミの胸の糸が枝分かれしていく。僕は呼吸の長さを合わせ、ナミの脈を指先で追い、無理をさせない“戻し所”を探る。ソラは会議映像の隅に短いテロップを打ち込んだ。

 ――停止で守れるのは“今日”だけかもしれない。分散で守れるのは、“今日”と“明日を迎える顔”。

 会議の向こうで、誰かが言う。

 「リスクが大きすぎる」

 サトルは頷く。

 「はい。だから、“一緒に持つ”んです。あなたの席でも、私の席でも。遠くの誰かの空の代わりに、私の空で」

 反対のアイコンが瞬く。賛成のアイコンも、少しだけ灯る。揺れている。揺れているなら、まだ届く。

 その時――海の底から、前触れのない衝撃。灯台がぐらりと一呼吸ぶん傾き、反射パネルが鳴いた。ナミの糸が一瞬極端に太り、彼女の肩が落ちる。僕は抱き留めた。

 「ナミ!」

 「だいじょうぶ」

 ナミは笑って、唇を噛む。

 「……でも、今、決めよう」

 決めるべきことは、最初から一つしかなかったのかもしれない。僕は頷き、皆に叫ぶ。

 「分散を続ける! 灯台を“塔”にする! 会議に“いまここ”を繋ぎ続ける! 町に“わたしたちは持つ”を広げる!」

 トオルが「了解!」と吠え、ソラが「回す!」と応え、サトルが「繋ぐ!」と打ち、リンが公民館で「持つ!」と叫ぶ。

 光は網になり、網は空に薄い膜を作る。完璧ではない。あちこちにほつれがあり、風に揺すられて今にも千切れそうだ。けれど、その薄さは、誰か一人の皮膚よりも丈夫だ。何千もの掌、何万もの呼吸で織られるなら。

 僕はナミの耳元で囁く。

 「世界が滅ぶまでにキスをしよう。……世界が滅ばなかったら、明日も」

 ナミは目尻に涙を浮かべ、短く「うん」と言った。涙は光の粒に混じらずに、二人の頬で止まった。世界に奪われない水分が、まだ僕らに残っている。

 会議の誰かが問う。

 「その膜に、名前は?」

 サトルは少し考えて、言葉を選ぶ顔になった。

 「物語、です。計算式に書けない。けれど世界を少しだけ遅らせ、明日に間に合わせる力」

 岬の風が変わる。網の内側で時間がわずかに伸び、外側の雲がひと呼吸ぶん遅れて流れる。公民館の列で、リンの横に並ぶ人が四人、七人、十二人。署名の紙は風に捲られ、代わりに子どもがチョークで地面に丸を描く。

 ――ここにいる。

 ソラが灯台の窓から、町へズームを引く。ファインダーの中で、丸がいくつも重なっていく。彼女はシャッターを切らない。撮らないことで、残るものがあるから。

 トオルが額の汗を袖で拭い、反射パネルの脚にガムテープをもう一周。パネルの角度は、ナミの呼吸に合わせて少しずつ変わる。風の節がずれるたび、糸の分かれ方が微妙に違う。小さな調整の積み重ねだけが、崩れを遅らせる。

 会議では、反対の声が再び上がる。画面の向こうの顔は見えないが、沈黙の密度で伝わるものがある。サトルは被せない。沈黙を恐れない沈黙で返す。その間に、ソラの写真がもう一枚、もう一枚と流れる。数列で語られない“減り方”が、画面の中に散っていく。

 「サトル」

 僕は呼びかける。

 「町の“声”を繋げないか。ここから」

 「やってる」

 サトルの指が止まらない。臨時の回線をもう一本、別のサーバーに迂回して、会議の副音声に公民館の音を混ぜる。ざわめき、子どもの足音、チョークの擦れる音。数字の上に、人の気配が薄く重なった。

 夕陽が、早すぎる速度で傾く。けれど、ほんの少しだけ遅い。僕らが持った分だけ。僕は掌の熱に耳を澄まし、ナミの脈がまだそこにあることを確かめる。トオルは工具に汗を落とし、ソラは言葉を削り、サトルは回線を繋ぎ直し、リンは声を張り続ける。

 公民館の前では、列から零れた人たちが、リンの隣に“並び直す”形を作っていた。署名の机から少し離れた場所に、丸が増えていく。小学生、漁師、看護師、制服のままの高校生。誰も大声は出さない。ただ、そこに立つ。持ち方の練習みたいに、掌を重ね、深く息をする。誰も、英雄にならない。

 ヘリは岬の上で旋回を続ける。小さなドローンが二機、灯台の周囲の風下に入り、カメラをこちらへ向ける。サトルが肩越しに言う。

 「誤魔化さない。見せる」

 ソラは頷き、窓を開けた。潮の匂いが強くなる。ドローンのレンズは冷たく光り、僕らの動きを吸い込む。僕はナミの右手を握り直した。

 「痛い?」

 「……熱い。でも、まだ持てる」

 ナミは言葉を選ぶ。選んだ結果が、彼女の輪郭をわずかに強くする。僕は彼女の呼吸を追って、肩甲骨に当てた手の力を少し緩めた。持ちすぎても、持たなすぎても、駄目だ。小さな調整の連続が、約束の本体になる。

 ドローンが灯台の窓を覗く。サトルが小さく笑う。

 「どうも。観測者の皆さん」

 広域回線に、サトルの声が並列で乗る。

 「見るなら、いっしょに持ってください。見るだけの観測は、今日までは許される。でも明日を迎える顔に責任を持つなら、あなたの席で掌を重ねてください」

 返事は、ない。ないけれど、会議の沈黙が少しだけ薄くなった気がした。誰かがミュートを外しかけて戻す特有の間が、波の縁でほどける。数字では測れない“揺れ”が、網の内側へ沈んでくる。

 「ユウ」

 ナミが僕を呼ぶ。目の奥の光は、昼と夜の境目みたいに静かだ。

 「キスは、今日もしない」

 「うん」

 「でも、明日に間に合わせよう。キスが“終わり”の合図にならないように」

 「うん」

 答えながら、胸の奥で針が一つ、刻む。メトロノームは使わない。僕らの呼吸が針になる。針は前へしか進まない。それが怖いから、僕らは持つ。いっしょに。

 陽が海に触れ、オレンジが網に染み渡る。ほつれていた穴が、いくつか埋まる。公民館の丸は二十を超え、子どもがチョークを渡し合って線を繋いだ。家に帰る時間を少しだけ過ぎて、それでも大人が怒鳴らない夕方。誰もが、この夕方の遅れを必要としている。

 会議で一人、名札のないアイコンが点滅した。声は出ない。代わりに、短いテキストが流れる。

 ――時間を買う方法に、異議はない。

 ――実施の責任は、どこに置く?

 サトルは間を置かずに打ち返す。

 ――“どこか”ではなく、“それぞれ”。保持の証拠は呼吸。証人は隣の人。記録は風景。

 ――書類にする。

 ――書類は物語の別名。なら、僕らが名付ける。

 トオルが屋根から降り、肩で息をした。反射パネルの脚に残ったガムテープの端を、丁寧に折り込む。

 「俺にできるのは、角度を一度変えることだけだな」

 「それがいちばんでかい」

 僕は応える。ほんとうにそう思う。角度を一度変え続けることは、英雄の勝利よりも難しくて、長い。

 夜が来る。風が冷えて、網の下の空気が薄くなる。公民館の丸は小さな輪唱に変わり、離れたベンチで誰かが灯籠を一つだけ灯す。海は低く鳴り、町の放送が歪んで届く。

 ――四十八時間後の措置、前倒し検討。

 ――詳細は追って。

 追って、なんて言葉に、もう誰も安心しない。追いつくのは、いつだって崩れのほうだ。だからこそ、間に合わせる。僕らの手で。

 「ユウ」

 ナミがもう一度、呼ぶ。

 「間に合わせよう」

 「間に合わせよう、明日に」

 短い言葉のやり取りが、網の結び目にひとつ、硬さを与える。ソラはカメラを下ろし、空を上目に見た。

 「明日、母のスカーフをまた海に濡らす。塩の匂いが、残っているうちに。……それも“持つ”の一部でいい?」

 「もちろん」

 サトルは端末の充電残量を見て、ポケットから小さなバッテリーを出した。

 「回線は、あと六時間なら持つ」

 「六時間で、どのくらい延びる?」

 トオルが問うと、サトルは首を振った。

 「数字は出せない。でも、顔は変えられる。明日を迎える顔に」

 灯台の足元で、波が石を舐める音が近くなる。ヘリは、もう一度だけ旋回して、町の方向へ離れていく。網の内側で、風が一段落した。

 僕は『誓いのノート』を胸に押し当てる。書けない言葉は、今日も白いままだ。永遠。最後。救い。けれど、書ける言葉は増えた。持つ。合わせる。伸ばす。繋ぐ。回す。変える。見せる。選ぶ。守る。祈る。間に合わせる。

 それらを、歩幅にしていく。灯台の横を、夜の最初の鳥が横切った。影は薄く、でも確かにそこにあった。僕らは影を追わない。影に名前をつけない。名前をつけるのは、いま網の上で光っているものだけだ。

 「ぼくらの選択」は、誰か一人の物語じゃない。千の小さな“持つ”で編まれた、薄い、しかし確かな膜――物語。

 そして夜が来る。最後の章へ続く夜が。灯台は白く立ち、海は暗く沈み、町の丸は消えずに残る。僕はナミの手を握った。指先はまだ熱い。熱いということは、ここにいるということだ。

 「行こう」

 「うん」

 間に合わせよう。明日に。僕らの掌で。

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