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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第22話「誓いのノートに書けない言葉」

 洞窟の空気は、海よりも冷たい。肺の奥に入った息が、鼓膜の裏側まできゅっと縮ませる感じがした。左の壁に重ねて記した白いチョークの印は、湿気に滲んでいるのに、一本一本の線がまだくっきりと残っていて、僕らがここにたどり着くまでの時間の層を、年輪みたいに語っていた。天井の裂け目から落ちてくる光は粉雪のように舞い、ナミの胸元から伸びる細い“収束の紐”に吸い込まれていく。糸は波に濡れない。風にも揺れない。むしろ世界のほうが糸に合わせて息をひそめているようで、その静けさが、心臓の鼓動をはっきりと浮かび上がらせた。

 背嚢から『誓いのノート』を取り出し、親指でページの端をなぞる。紙の繊維が指腹にささくれ立って、少しだけ落ち着く。ソラは洞口側に三脚を立て直し、レンズキャップを外したまま、覗かずに構える。トオルはリンを壁際の乾いた岩に座らせ、自分の上着を脱いで肩に掛ける。リンは唇を噛んで、青さを隠すみたいに言った。

 「寒い? じゃない。怖い。でも、寒くはない」

 今の世界の“気温”を言い当てた一言に、誰も笑わない。サトルがラップトップを開き、コードの先に繋いだ簡易センサーで洞窟内部の磁場の変化を拾いながら、いつもの調子で淡々と口を開いた。

 「選択肢は三つ。ひとつ、収束を受け入れて、ナミを通して町と海域の“光の流入”をやわらげる。代償としてナミの消耗は急速に進む。ふたつ、“誓い”を完成させて、プログラムの終端条件を満たす。ナミ個体の『完了』で、一時的に流れを断つ可能性がある。みっつ、収束を“分散”させる。全員で小さく引き受けることで、誰一人を終端にしない」

 トオルが即座に噛みつく。

 「分散は机上の空論だろ。俺たちは“ナミみたいに”生まれてない」

 「“みたい”である必要はない」

 サトルは一度だけ瞬きをした。

 「人は互いの境界を曖昧にする術を、元々持っている。愛称、握手、歌、祈り、同調。科学的に説明しても宗教的に説明しても、方法は似ている。輪郭を少し外に広げれば、わずかでも持てる」

 ソラがカメラを下げた。

 「記録者の立場から言うと、それは“儀式”だよ。儀式は現実を動かす。現実の形のほうが、人に合わせてしまうことがある」

 僕はノートを開き、未使用のページにそっとペンを置いた。

 「選択を、ここに書く」

 ナミが小さく首を振る。

 「書けない言葉があるよ。書いた途端に嘘になる言葉。たとえば“永遠”とか、“最後”とか」

 反射で笑いそうになるのを飲みこんで、僕は真っ直ぐに言い換えた。

 「じゃあ、書ける言葉だけ書く。“怖い”“痛い”“でも一緒にいる”。それなら、嘘じゃない」

 洞口の先で、ローターの音が膨らんだ。金属が空気を揉むような、低くて鋭い音。二機が交互に洞窟の口を舐めるように旋回し、熱源を探っているのが分かる。サトルがノートPCの画面をこちらにかざし、魔法陣みたいに見せながら、低出力のジャミングを起動した。

 「三分しか持たない。三分で決めよう」

 間延びした呼吸が、急に形を持つ。リンが震える声で言った。

 「わたし……分散がいい。誰か一人が消えるっていうのは、いや」

 トオルは舌打ちしたが、否定の言葉は続けなかった。ソラが、短く、はっきりと告げる。

 「私も。記録者として、誰か一人の“終端”を美談にしたくない」

 サトルの視線が僕に誘導される。僕はナミを見る。ナミはわずかに頷いた。頷きは小さいのに、決意は大きかった。

 「分散、やってみよう。もし私が先に消えそうになったら、そのときはユウ、止めて。私の“完了”で世界が延びるなら、その選択肢は残しておいて」

 「約束する」

 僕はナミの右手を握る。たしかな体温を、握った手の骨まで分け合うみたいに。

 「嘘をつかないで、止める」

 ねじれた言い回しは、二人の間では真っ直ぐだった。

 儀式は単純に始まった。輪になって座り、掌を少しずつ重ね、呼吸を合わせる。メトロノームは使わない。外から与えられる一定は、今はむしろ邪魔だ。僕が低く数える。

 「いち、に、さん」

 波と同じ長さで吸い、吐く。ソラが囁くように輪唱を始めた。海で葬列を見送ったときの、あの古い旋律。トオルが音程の揺れを気にせず追い、リンは涙の音を混ぜながら声を出す。サトルは声を出さないが、指先で拍を刻む。拍は壁に反響して丸くなり、僕らの肺の中で再び角を持った。

 ナミの胸から伸びていた“収束の紐”が、輪の中心に降りてきた。光の繊維が空気よりゆっくりと落ち、かすかに漂い、僕らの掌に触れる。温度の分配先を迷っているのが分かった。僕は掌でそれを受け、熱を飲み込む。肋骨の内側がじんわり熱くなり、涙腺が勝手に緩む。トオルは歯を食いしばるが、零れたものを拭わない。ソラは声を途切れさせず、リンは泣き声を歌に溶かす。サトルは眉間の皺を一度だけほどいて目を閉じた。

 光は分かれた。一本が五本に、五本がさらに細く、毛細血管みたいに広がって、洞窟の空間に網の目を描いていく。天井の裂け目から落ちてくる粉雪も、網で受け止められて速度を失い、空中でふわふわと漂った。時間が、伸びた。三分のはずが、十分にも感じられるほどに。

 その刹那、洞口が閃いた。ドローンの一機がジャミングの隙を突いて、鼻先を差し込んでくる。サトルが立ち上がる。

 「任せて」

 輪を崩さないように外側へ身体を預け、彼は持ち込んでいたフレアを点火した。白い閃光が洞口で弾け、熱源センサーが飽和する。機体は一瞬判断を誤り、砂を蹴って外へ弾き返された。金属的な羽音が遠ざかる。耳の奥で、あとから恐怖が遅れてやってくる。

 光の網は、やがて落ち着いた。分散は成功した――そう思った瞬間、ナミの輪郭がごく僅かに薄れ、右手の指先が透明になった。僕は息を呑む。ナミは僕を見るでも、指先を見るでもなく、まっすぐ前を見たまま微笑んだ。

 「だいじょうぶ。ここまでが、私の“分”だったんだと思う」

 彼女は続けた。

 「ねぇ、ユウ。キス、しよう。誓いでも祈りでもなく、いまここで、ただ“わたしたちのこと”として」

 僕は頷き、額を合わせ、距離を測る。恐怖はある。終わってしまうかもしれない予感は、いつだって近くにいる。それでも、先延ばしの言い訳は使わない。唇が触れた。短く、静かで、確かな重さ。メトロノームを鳴らしていないのに、胸の内側で針がひとつ刻まれる。世界が止まったわけではない。けれど、僕らの中で何かが動いた。動いたものは戻らない。戻らないものが、次の頁を自分で開ける。

 輪がほどけても、誰も言葉を選ぼうとしなかった。言葉は、いまだけは後回しでいい。ソラはそっとカメラを下げ、トオルは掌を裏返して光の名残を見る。サトルはノートを開き、小さな字で一行だけ記す。

 「分散儀式、第一次成功。時間獲得」

 リンは胸ポケットの白い石を握りしめ、「あったかい」と呟いた。

 洞窟の外で、風の向きが変わった。岬のほうから、遠いサイレンと、街のアナウンスが歪んで届く。言葉の輪郭は崩れているのに、要点だけが刺さる。

 「……四十八時間後の措置を、前倒し……」

 サトルが顔を上げる。

 「向こうが急いでいる。こっちは、伸ばせた。だから、次は“物語”を上書きする番だ」

 「物語?」

 トオルの疑問に、サトルはナミのほうを見てから、僕ら全員を見る。

 「行政の書類は物語の別名だ。“保護”や“観測”や“安全”の語で、刃の角度を変えてくる。なら、僕らも別名を持とう。停止の“対案”として、誓いを公的な言葉に翻訳する。書けない言葉は、書ける言葉に分解して」

 僕は『誓いのノート』を閉じ、胸に抱えた。書けない言葉がある。書けば嘘になると分かっている言葉が、確かにある。永遠。最後。救い。だけど、書かれなかったからこそ残る重さもある。ページの白は、沈黙の重さで少しふくらんでいた。

 「ここで、もう一度だけ、決めよう」

 ナミが息を整えて言う。左の袖は空のまま、右手の指先は色を取り戻しつつあった。

 「分散を続ける。その上で、逃げない。止められる限り、止める。もし私が限界に近づいたら、その時はユウが決める。サトルは、書類の迷路を増やす。ソラは、残さないことで残るものを選ぶ。トオルは、殴らないで隣に立つ。リンは、泣く。……嘘をつかないで、やれることをやる」

 トオルが鼻を鳴らし、肩を回した。

 「殴らずに隣に立つの、俺には一番むずかしいけどな。やる」

 リンは目を真っ赤にして頷く。頷きは、うまく言葉にならない誓いだった。

 ソラはカメラの電源を切り、レンズキャップを戻す。

 「今日は撮らない。撮らない一日は、ちゃんと残る」

 サトルがノートPCを閉じた。

 「じゃあ、分岐路の標識を外に立てに行こう。ここで決めた“嘘をつかない嘘”を、僕の言葉でねじ曲げずに運ぶ」

 洞口の白が薄くなっていた。フレアの熱はすでに消え、光の粉がじわじわと元の降り方に戻っていく。僕らは輪を解き、順番に立ち上がる。足の痺れがとれていく間にも、外の風景は変わっていくのだと、骨の内側が教えてくる。

 地上に出ると、空は低かった。水平線のほうで雲が裂け、その隙間から別の光が覗いている。朝とも夕方ともつかない色。波は、それでも途切れず寄せては返す。町の方向に目を向けると、避難所の屋根が白っぽく光って見えた。人の姿は遠すぎて見えない。見えないのに、気配だけが濃い。

 「港はもうダメだ。倉庫に寄るなら、迂回だ」

 サトルが指で山の縁をなぞり、ソラがその指の先を目で追う。トオルは工具箱の持ち手を握り直し、リンは白い小石を胸に押し当てた。ナミは僕を見る。目の奥の光は、先ほどのキスのあとで揺れているのに、不思議と落ち着いていた。

 「ユウ」

 「うん」

 「“書けない言葉”は、今はいい。歩こう。歩きながら、書ける言葉を増やそう」

 僕は頷き、ナミの手を取った。指の間に残った熱は、約束の温度ではない。今の温度だ。僕らは印のついた岩に手を触れ、洞窟に背を向ける。白い粉が肩にわずかに積もって、すぐに消えた。目を閉じれば、誰かの輪郭に似た光がまた見えそうで、けれど僕は開けたまま歩くことにした。見たいものは見える。だからこそ、見るものを選ぶ。

 岬の細い道を、六つの影が伸びたり縮んだりしながら進んだ。風は潮の匂いを運び、耳の奥に低い鳴動を残す。遠くの防波堤に立てられた市の旗は、色を褪せ、布の端がほつれている。それでも旗は立っていた。名前のない風に向かって。

 公民館の手前の広場に、人の列ができていた。昨日よりも長い列。紙に名前を書くために並ぶ背中たち。列の真ん中で、ふっと一人が消える。ペンが落ち、紙にインクのしみが広がる。悲鳴は上がらない。声は飲み込まれ、肩が震え、うつむく。列はそれでも前に進む。僕の喉に、洞窟よりも冷たい空気が張り付いた。

 「行く?」

 トオルが小さく問う。僕は首を振る。

 「今日は、通り過ぎる。ここで叫んでも、届かない。届く言葉を作ってから、戻る」

 サトルが頷き、背中を押すみたいに前に出た。

 「役所の端から回る。書類の名前を、少しだけ別の名前に変える。今日のうちに」

 角を曲がると、小学校の校庭が見えた。朝礼台だけが残って、子どもの足のつかない砂が風で波紋になっている。ソラが立ち止まり、カメラを構えるふりをして、撮らない。胸のストラップを握ったその手に、ナミが自分の指を重ねた。

 「重い?」

 「ううん、軽い。軽いけど、ちゃんと重い」

 言葉の順番が気に入って、僕は心の中で繰り返した。軽いけど、ちゃんと重い。今の僕らの誓いは、たぶんそうだ。

 そのとき、空が低く鳴った。雲の縁が裏返り、光の粉が、雨の降り方ではなく、呼吸の仕方で落ちてくる。人々の視線がいっせいに上を向く。誰かが走り出し、誰かが立ち尽くし、誰かが僕らのほうを見た。見られることの冷たさと、確かさ。サトルが短く言う。

 「急ごう。“物語”は、先に書いたほうが強い」

 僕らは頷き、また歩き出した。『誓いのノート』は胸の内側に当たっていて、一歩ごとに小さく音を立てる気がした。ページを開けば、書けない言葉が白さの中でこちらを見ているだろう。けれど今は、書ける言葉を増やす。怖い。痛い。でも一緒にいる。息を合わせる。手を離さない。延ばさない。先に進む。戻らない。見る。選ぶ。守る。祈る。送らない。送る日を、自分で選ぶ。

 それらを、僕らは一つずつ、歩幅に変えた。風が頬を叩き、潮の匂いが強くなる。空は裂け、海は鳴り、時間は細くなり、それでも針は前に進む。書けない言葉がノートの奥で眠っていてくれるあいだに、僕らは書ける言葉で世界の端を縫い止める。そう決めた。

 ナミが、ふいに僕の手を握り直す。指先が、少しだけ震えている。

 「ねぇ、ユウ」

 「なに」

 「ありがとう、って書きたい。でも、書いたら“終わり”みたいに見えちゃうから、今は言うだけにする。ありがとう」

 「どういたしまして」

 僕は、そのやりとりをページじゃなく、歩幅にしまい込む。言葉にしないほうが強い約束が、世界にはまだある。そう信じられるうちは、きっと大丈夫だ。

 岬の先に、灯台が見えた。昨夜潜り込んだ監視小屋の窓が、日差しで白く光っている。新しいドローンの影が遠くを横切り、しばらくしてから消えた。風が変わる予感。崩れは、まだ本番を見せてはいない。だからこそ、準備する。標識を立てる。嘘をつかない嘘の置き場所を、僕らの手で選ぶ。

 『誓いのノート』の、まだ白い頁が一枚、風に反応してわずかに揺れた。書けない言葉は、眠っている。眠っているうちは、やさしい。起こすときは、僕らが決める。僕は胸に手を当てて、歩幅をひとつだけ大きくした。ナミも、ソラも、トオルも、サトルも、リンも、それぞれのやり方で少しずつ足を伸ばす。

 分岐路は、地図には載っていない。けれど確かに足の裏に現れて、僕らはそこで何度でも立ち止まり、何度でも進み直す。書けない言葉があるからこそ、書ける言葉で前を向く。そんなやり方でしか、僕らは世界を選べない。でも、それでいい。たぶん、それがいちばん強い。

 潮の匂いと、紙の匂いと、濡れた土の匂いが混ざり合う。僕らは、誓いのノートに書けない言葉を胸の奥に置いたまま、書ける言葉で今日を縫い合わせ、明日へ滑り込む。世界が終わる気配の中で、終わらせないための歩き方を、覚え直しながら。

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