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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第21話 分岐路に立つための嘘

 夜と朝の間にある、薄い灰色の時間。湿った風が避雷針の足元を撫でて通り過ぎ、草の先についた露がひとつ、またひとつ落ちた。リンは毛布から半身を起こし、胸ポケットにしまった白い小石に触れる。冷たいはずの石は指の熱でじきに馴染み、眠気と不安の境目で重さだけが確かに残った。

 サトルの端末が小さく震えた。電波の細い糸が尾根を渡り、彼の掌の上で辛うじて繋がる。画面の白は容赦ない。彼は眉をひとつだけ動かし、全員に聞こえる声で読み上げた。

 「保護区域案の検討可。条件、対象行動監視、定期診査、移動制限……署名は上層じゃない。実務の名前だ」

 言葉は乾いていて、湿った朝の空気の中で薄く割れた。サトルは端末を伏せ、短くまとめる。

 「生存の形を、飼育に変える提案だ」

 ナミは黙って聞いていた。風景に視線を逃がし、すぐに戻す。迷いがないのではなく、迷いの居場所を自分で決めている顔だった。

 「私が一人で囲われるなら、みんなは自由になる?」

 トオルが即答する。早いのに、乱暴ではない。

 「ならない。お前が囲われた世界で自由を名乗るのは嘘だ」

 ソラが頷き、ユウはナミの手を取る。指の関節の細い骨が互いに触れて温度を分け合う。

 「それが“嘘をつかない顔”の選択だ」

 返事の代わりにナミの指先が少しだけ強く返ってきた。言葉より先に重みが決まる。決まった重みを抱えたまま、朝はもう少しだけ薄くなった。

 同じ頃、町からの伝言がユウの端末に届く。公民館の掲示板を写した写真だ。紙に太い字で、大きく三行。

 停止賛成 六八%

 反対  二一%

 保留  一一%

 数はきれいで、冷たい。規則正しい並びは、安心の形を借りて不安を押し流そうとする。リンが画面を覗き込み、背中で小さく震えた。

 「わたしの町も、似た数字だった」

 サトルは唇を噛み、すぐに離す。

 「“多数”は物語の体裁をしているが、中身は恐怖の連署だ。誰の名前もない、誰でもない署名」

 ソラはカメラを首から下げ、電源を落とした。きれいな数字は写真に残らない方がいい。今はそう思った。

 尾根を下り、谷の吊橋へ向かう。古い木板は湿気を吸い、靴裏の重みでわずかに撓む。手すりの縄はねじれ、川面から立ち上る霧がほどけきらないまま橋の下にたまっていた。真ん中まで来たとき、ナミが足を止める。

 「見て」

 下を覗き込むと、渓流の早瀬で光の粒が渦を巻いていた。渦の中心に、薄い人影のような縁取り。髪の長さも肩の傾きも、ユウの記憶が知っている形に似ている。喉が詰まり、足元が空洞になる。

 「ミナ……?」

 声は川へ落ちた。ナミは静かに首を振る。

 「違う。あなたが“ミナに似ている”と見たい光」

 ユウは目を閉じ、呼吸を数える。見たいものは見える。だからこそ、選ばなければならない視線がある。まぶたの裏に残った形が薄くなるまで待ってから、彼は歩き出した。板がひときわ大きく軋み、橋はそれでも持ちこたえる。

 橋を渡りきると、古い集落跡に出た。屋根は落ち、畳は苔に覆われ、郵便受けは空のまま口を開けている。隅の井戸に枯葉が溜まり、手押しポンプのハンドルには蜘蛛の巣が張っていた。人の気配はもうないはずなのに、縁側に老女がひとり座っていた。目は澄み、膝の上で猫が丸くなっている……ように見えたが、猫は光の塊で、撫でる手が通り抜けても形を保っている。

 「ここはね、もう随分前から終わっているよ」

 老女は微笑み、縁側の下から薬缶を出して火を起こした。水はまだ甘い匂いがした。人数分の湯呑があるわけもなく、彼女は碗を一つずつ手渡し、順番に口をつけさせた。

 「終わっている場所は、誰かの終わりに優しい。何も奪う力が残っていないから」

 サトルが礼を言い、話を促すように黙る。老女は名を名乗らず、ただ温い茶を差し出し、手の皺をゆっくりと重ねた。

 「選ぶというのは、捨てるということさね。捨てたことを人のせいにしないで、自分の檻に入れて飼うこと。食事と水をやって、鳴く夜は撫でてやる。そういう飼育なら、私は悪くないと思うよ」

 サトルがわずかに笑った。

 「あなたの飼育は、自由の別名ですね」

 老女は肩をすくめる。

 「別名をいくつ持っているかで、人は楽を覚える。あなたたちも、いくつか持っておきなさい。嘘と呼ばれない程度にね」

 出立の前、老女がリンの肩に手を置いた。骨の軽さを確かめるように指を滑らせ、庭の隅から白い小石を拾って渡す。

「あなたはまだ軽い。軽いものは風に持っていかれる。石を一つ、ポケットに入れておきなさい」


 リンは小石を胸にしまう。確かさが一つだけ、重みになって胸に落ち着く。彼女は小さく頷き、老女の指の皺を目で追った。皺は地図に似ていた。曲がりくねり、重なって、最後は掌の真ん中に集まっている。

 午後、海の方角から黒い雲が湧いた。遠い水平線に墨が落ち、じわりと陸へ広がる。サトルが端末の気圧グラフを見て顔を上げる。

 「崩れが来る。地鳴りじゃない。空だ。大気の位相ズレが広域で起きる」

 ユウは即座に判断した。迷いがないわけじゃない。迷いを後ろに押し込む手つきが早いだけだ。

 「洞窟へ戻る。印を増やした。あそこなら持つ」

 走り出した足裏に、土の水気が重く絡みつく。木々の葉が裏返り、谷を抜ける風が逆流した。光の粉が、雨の降り方で落ち始める。粒は跳ねず、斜めに滑り、呼吸のたびに喉の奥でかすかに光った。

 その最中、ナミが突然立ち止まる。左袖の先から、これまでとは違う光が漏れた。粒ではない。細い紐のように束ねられ、風に揺れず、彼女の胸の方向へ真っ直ぐ伸びる。空の裂け目と目に見えないところで繋がっている。サトルが息を呑んだ。

 「収束の自然発生……彼女自身が弁になってる」

 「止められるのか」

 トオルの声は掠れている。サトルは首を振った。

 「止めると、別の場所に穴が開く」

 ユウはナミの前に回り込み、彼女の右手を握る。指はまだ温かい。汗で少し滑り、すぐに馴染む。

 「痛い?」

 「……熱い。でも、まだ大丈夫」

 ユウは深く頷いた。

 「なら、俺は見てる。見るって決める」

 それは選択でもあり、宣言でもあった。見届ける責任の重さを、自分の骨に縛りつけるみたいに。ナミは一度目を閉じ、次の瞬間には先へ踏み出した。

 谷を抜ける道の手前で、ソラが振り返りざまに叫ぶ。

 「右、ドローン!」

 黒い点が二つ、尾根の陰から滑るように現れた。ローターの音は低く、空気の縫い目だけを撫でる。サトルが手を挙げる。

 「散開。追尾を分散させる」

 ユウはナミを庇って左へ、トオルは迷わずリンを抱えて右へ走る。ソラは敢えて開けた場所に躍り出て、シャッターを連続で切った。レンズの中で自身の姿が小さくブレる。撮ることで、ここにいると誇示する。見せたいものと見せたくないものの境界を、自分の指で選ぶ。

 サトルは地形の窪みを見つけ、そこへ身を滑り込ませながら端末に短い信号を走らせた。監視ログにノイズを混ぜ、デバイス同士の同期に遅延を生む。完全に消せないなら、濁す。濁った視界は、判断を遅らせる。

 錯綜の一瞬、ユウは自分の口から漏れた言葉に気づいた。

 「分岐路に立つための嘘は、俺たちがつく」

 誰に向けたでもない宣言。追うものの視線を欺くための位置の嘘、互いを守るための弱さの嘘。ばらばらではなく、責任のまま引き受けると決めた嘘。

 「いい嘘は、名前を変えれば誓いになる」

 ソラが息の切れ間に短く返す。言い切ってから、自分で驚いたように笑った。笑いはすぐ消え、足音だけが続く。

 洞窟の入口が見えた。海から吸い込む冷たい空気が、暗がりから低く流れ出してくる。壁の白い印は、前に付けたときより濃く見えた。光の紐は洞窟の天井の裂け目へ吸い上がるように伸び、糸のように微かに震える。ユウはナミの肩を抱き、耳元で囁いた。

 「ここで、選ぼう」

 彼らが一斉に中へ飛び込むと、外の音がひとつ遠くなった。天井の亀裂から落ちる光は粉雪のようで、しかし皮膚に触れると温かさを残す。洞窟の床に刻んだ白い印を辿って、奥の広い空間まで進む。水音が壁を回り、低い地鳴りと混じって胸に残る。

 サトルが立ち止まり、手早く周囲を見渡す。

 「ここなら、数分の猶予は取れる。外は崩れの初動。位相のズレが始まってる。ドローンは……」

 言葉の途中で、洞窟の入口側が白く霞んだ。粉のような光が一度に落ちる。ローターの影は見えない。代わりに、遠くの空が薄く割れる音。サトルは判断を早める。

 「入口にベールが降りた。今は目も耳も曖昧になる。選ぶなら、今」

 光の紐は太さを変え、一本だった流れが二股に割れ、また重なり、ナミの胸の中心へ戻っていく。ナミは左の空洞を見下ろし、右手でノートを取り出した。震える指で頁を開き、短い行を一本足す。

 ——嘘は分岐路の標識。行き先は、私たちが書く。

 ユウはノートを覗き込まず、ナミの横顔だけを見た。頬の色は薄いが、目はまだ遠くを選べる強さを持っている。トオルはリンを背から下ろし、壁際に座らせる。リンは小石に触れた。触れて確かめるうちは、まだ大丈夫だ。ソラはカメラを膝に置き、レンズキャップを閉めた。撮らない選択は、今も生きている。

 「条件付きの保護区域を、拒否するなら」

 サトルが言う。声は落ち着いているが、体の奥で脈打つ速さを隠してはいない。

 「僕は、行政の合意形成を遅らせ続ける。紙の名前を変え、会議の順番を入れ替え、誰かの決裁印の机に書類を迷わせる。これは僕の“嘘”だ。名を、日程に偽装する」

 トオルが頷く。額に汗が滲む。

 「俺は、町の署名台に立たない。けど立つやつを殴らない。代わりに、あいつらの家まで歩いて行って、一緒に晩飯を食う。“ここにいる”って嘘を、俺の手で本当にする」

 ソラは短く息を吸い、吐く。

 「私は、撮らない写真の余白を増やす。残さないことで残るものを信じる。今日はそれが、私の嘘」

 リンは唇を噛み、石を握り直す。

 「わたしは、泣くのを我慢しないで泣く。強いふりの嘘を、やめる」

 全員の視線が、最後にナミへ集まる。ナミはゆっくりと頷いた。

 「私は、囲いを引き受けない。代わりに、自分の周りに“輪郭の線”を引く。消えないように。誰かに囲われるんじゃなく、私が私を囲う。その線を、あなたたちに触ってもらう」

 ユウは笑い、すぐに真面目な顔に戻る。

 「俺は、約束の言葉を“まだ”で延ばす嘘をやめる。世界が滅ぶまでにキスをしようって言って、先延ばしにしてきた。それをやめる。もし今が分岐路なら、今、選ぶ」

 洞窟の暗がりで、波のような音が少し近くなった。天井の亀裂から落ちる光の粉が、いつもより大粒になって見える。崩れの前触れは、静かなのに急ぐ。

 「ユウ」

 ナミが呼ぶ。声はかすれていない。彼は答えず、頷きで返し、彼女の両肩に手を置いた。額を寄せ、唇を探す。恐怖はある。終わってしまうかもしれない予感は、いつも近くにいる。それでも、延ばすための言い訳は使わない。

 唇が触れた。短く、静かで、確かな重さ。メトロノームは鳴らしていないのに、針の音が胸の内側でひとつ刻まれる。世界が止まったわけではない。けれど、二人の中で何かが動いた。動いたものは戻らない。戻らないものが、次の頁を開ける。

 その瞬間、洞窟の入口で風が裏返った。ローターの微かな影と、靴音のような固い響き。ドローンか、それとも人か。サトルが指を立てる。合図は一つだけ。静かに。待つな。動け。

 ユウはナミの手を引き、印の列をなぞって奥へ下がる。トオルはリンを抱え、ソラは三脚を持ち直し、サトルは端末の画面をひと撫でする。画面は暗く、彼自身の顔だけが薄く映った。彼は自分に向けて、短く言う。

 「嘘は標識。間違ったら、立て替えろ」

 入口から流れ込む光は弱く、しかし確かに近づいてくる。海は低く鳴り、空は細く裂け、時間は糸のようになり、物語は次の頁の端をこちらに差し出している。誰がめくるのか。今、決めるために、彼らは動いた。

 洞窟の奥、天井の裂け目の下で、ナミの光の紐が、ふっと嗤うように震えた。ユウは握る手に力を足す。その強さは誓いではなく、今を選ぶ力だった。分岐路の真ん中に立つための嘘を、それぞれの名前で抱えながら、彼らは次の一歩を踏み出した。

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