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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第20話 停止の提案、逃亡の地図

 リンが目を覚ましたのは、明け方の冷たさが窓の隙間から指先を撫でていった瞬間だった。毛布から出た手が、昨夜もらった飴玉の包み紙を探り当て、指の腹で丸める。銀紙は薄く鳴って、測候所の壁に小さく光の輪を跳ね返した。


 「ここ、空が近い」


 リンは呟き、上体を起こす。割れた窓越しの空は、濃い。青の密度が高く、手のひらを伸ばせば届いてしまうような錯覚を呼ぶ。ソラはその横顔を撮らない。代わりに、リンの指先で皺になっていく包み紙を撮る。小さな銀紙の皺に朝の光がたまり、壁に描いた円は、輪郭のない時計みたいに見えた。


 朝食代わりのクラッカーは乾いて軽い。ひとかけずつ分け合いながら、机に広げた地図の上に鉛筆が走った。サトルが持ってきた山岳図には、測候所から伸びる旧林道、廃寺、廃トンネル、尾根道。赤鉛筆がそれらを糸のように結び、矢印が小さく跳ねる。サトルは別の紙にドローンの航路予測を描いた。地形と風の癖から割り出した「死角」の時間帯に印をつける。


 「午前十時から十一時は山影が出る。十五時半から十六時は海風でドローンが流される。ここ、尾根の肩の下に入れば、真上を抜けても輪郭が拾われにくい」


 「“拾われにくい”じゃなくて、拾わせない」


 トオルが短く言い、鉛筆の先で自分のこぶしを軽く叩いた。言葉は荒くないが、力は乗っている。ユウは頷きながら、紙端に目を落とす。メトロノームをポケットで押さえた指先が、知らないうちに拍の形に揺れていた。


 そのとき、圏外に寄りかかっていたユウのスマホが、ひょいと圏内に滑り込む。震えが一度走り、画面に短い通知。差出人はなし。短文だけが冷たく浮かぶ。


 ——停止に応じれば、町を守る。応じなければ、強制措置。


 短文に続いて座標リンク。港の倉庫。昨日、銀色のケースが並んでいた場所。円盤のアイコンに「四十八時間後」とある。ユウが目を上げるより先に、サトルが画面を覗き込み、顔色を変えずに言った。


 「脅しと告知の中間だ。交渉の余地は、今のところゼロ」


 「つまり、俺たちの逃げ切りなんて、どこにもないってことだな」


 トオルが拳を握る。骨の形が皮膚の下でくっきりする。リンがぎゅっと包み紙を握りしめ、銀色の小さな球が掌の中で鳴った。


 「逃げたいんじゃない」


 ナミが首を振る。声は低いが静かだ。


 「考える時間を買いたいの。決められた線路に乗せられる前に、別の道を探す時間を」


 ソラが地図の尾根に人差し指を走らせる。


 「時間は“場所”で買える。線じゃなく面で動こう。尾根道から廃寺、そこから海の見える墓地にいったん上がる。見晴らしが良ければ、ドローンの影も先に拾える」


 道順が整うと、ナミがリンの隣に立つ。リンはまだ背が低い。見上げる目の黒が深く、朝の光を吸っていた。


 「ここからは、嘘をつかない約束だけして進もう」


 「嘘をつかない約束?」


 「怖いって言うのも約束。泣くのも約束。消えたいって言うのも、約束。言わないと、身体のどこかに嘘が残るから」


 リンは戸惑い、それから唇を結んで頷いた。


 「うん。わたし、怖い。泣く。消えたいって言うかもしれない。でも……行く」


 その返事は、軽く聞こえるのに重かった。重い言葉は、落ちない。胸の中で止まる。


 出発の準備を整え、靴紐を結び直す。ソラはカメラの電池を確かめ、トオルは工具箱の蓋を閉めた。サトルはノートPCを鞄にしまいかけて、手を止める。


 「最後にひとつだけ、僕の仕事をさせて」


 全員の視線が向く。サトルは鞄の蓋を開けたまま、言葉を選ぶように間を置いた。


 「センターに“停止の条件”を提示する。ナミを個体として停止させない代わりに、この岬一帯を“保護区域”にする。学術、観測、文化——名目は何でもいい。行政の書類は、物語を“別名”にするのが得意だ。名前が変わると、刃の形も少し変わる」


 「通るのか」


 トオルが鼻を鳴らす。サトルは肩を竦めた。


 「薄い。けど、ゼロでない道は全部、並列に走らせるべきだ。走らせながら、逃げる。走らせながら、守る」


 「走らせながら、祈る」


 ソラの言葉に、ナミが目だけで笑った。


 旧林道は苔の緑に沈んでいた。タイヤ跡は古く、上に鹿の蹄の印が重なっている。湿った土が靴の縁を汚し、細い根が足裏に小さな凸を作る。林の切れ間から差す光は白く、葉の陰で何度もちぎれた。ユウは先頭で歩幅を整え、リンの呼吸の速さを背中で聞く。後ろではトオルの工具箱の金具が、時々小さな音を立てた。


 廃寺は山の肩に張り付くように残っていた。仁王像は片方だけ。口を閉じた阿形が、遠い山を黙って睨む。柱に巻かれた縄は緩み、苔が編み目を埋めている。境内の端でリンが立ち止まり、耳を塞いだ。


 「……音がする」


 全員が息を殺す。谷を越えて、風に紛れたサイレンが届く。遠い。けれど間隔は等しい。波のように打ってくる。町の方向だ。ユウの胸の奥に、冷たい金属が差し込まれたみたいになる。時間が、減っていく音。


 廃寺の石段に腰を下ろして小休止。ナミは『誓いのノート』を膝に広げ、短く走り書きを足す。


 ——停止の提案、逃亡の地図。私たちは両方で生き延びる。


 ソラはその文字を撮らず、書く手の揺れだけを撮った。指の間に挟まれたペンは真っ直ぐなのに、線はかすかに揺れる。人は文字の影に、何かを隠す。隠したものは残る。残るから、撮る。


 昼から午後へ、光の角度が変わっていく。尾根道は見晴らしが良く、海が遠くに開いていた。海は青ではなく、金属の薄い色。光の粉が斜面を上がってくるたびに、空気の厚みが少しずつ変わる。墓地の入り口には錆びた柵。門柱に刻まれた文字は半分が擦れて読めない。潮風にさらされた墓石は角が丸く、名の刻みも浅い。リンがふいに足を止め、名もない石の上に手を置いた。


 「ここ、あったかい」


 「石は冷たいよ」


 トオルが隣にしゃがむ。リンは首を振った。


 「ううん。さっきまで、誰かが座ってた」


 風がひとつ溜まり、背の低い草がそろって揺れる。その瞬間、風下から微細なローター音。サトルが指で空を差し示した。影が増える前に、声が飛ぶ。


 「しゃがんで。動かない」


 五人と一人の影の上を、影が綺麗に横切っていく。ドローンは墓地の端で向きを変え、海へ抜けた。ユウは息を吐く。握っていたナミの手を握り直す。ナミの掌は温かい。温かさは、今の証拠だ。


 墓地の一角に、赤い花が一本だけ立っている。季節外れの彼岸花。ソラは迷った末に、花を撮らない。代わりに、皆の靴跡を撮る。柔らかい土に残った不揃いの楕円。ここを通った証拠を、上からの視線とは別の形で残すために。


 「サトル。提案は、もう送ったのか」


 尾根に戻りながらユウが問うと、サトルは短く頷いた。


 「送った。“保護区域案”。名義はセンターじゃなく、文化財保護のほうから回した。理屈は弱い。だが弱い理屈ほど、別の言葉に化けやすい」


 「どんな言葉に」


 「“寄り道”。“保留”。“再検討”。時間を買う言葉はいくらでもある。買った時間で、逃げる。買った時間で、抵抗する」


 「買った時間で、祈る」


 ソラが繰り返す。リンがその言葉を口の中で真似して、小さく笑った。笑いは短く、でも確かにそこにあった。


 午後は長い。尾根の影が海に落ち、光が風で巻かれて渦になる。渦の中心に立つと、音が少しだけ変わる。世界の音が眠気を含むようになる。ユウは胸ポケットからメトロノームを取り出し、ネジを二回巻いた。針が動く。時間が動く。手のひらでその重みを受け止めながら考える。もし時間が物語の別名だとしたら、僕らはこの針を回す手で、物語を選べる。選べるうちは、選び続ける。


 日が傾く。測候所へは戻らない。尾根の途中、避雷針の足元に小さな陣を張る。石を寄せ、風の道を読む。水筒の残りを分け、毛布を三枚に折る。空は晴れて、星が近い。近いのに、掴めない距離が安心を連れてくる。


 「今日、キスをしてもいい?」


 ナミの声は風より少し低かった。ユウは長く息を吸い、吐く。頷く前に、言葉を足す。


 「いい。でも、誓いにする?」


 ナミは首を振る。瞳に星の小さな破片が映って、すぐに落ちる。


 「今日は祈りにする。まだ、祈れるから」


 頬を寄せ、唇より先に互いの呼吸を重ねる。額が触れる。鼻先が触れる。唇の前で止まる。止まること自体が、今夜は祈りの形になる。遠く、海が鳴った。ドローンではない、船でもない、地の底を撫でるような低い音。祈りは届く先をまだ決められていない。決めないままでも、ここにある。


 リンは毛布の中で小さな寝息を立て、ソラは星を見ながらファインダーを閉じた。撮らない夜がある。撮らないことが、写真を守る夜がある。トオルは工具箱を枕に、目を瞑っても眠らない技術を思い出していた。眠らないことと、起き続けることは同じではない。起き続けるために、目を閉じる。


 サトルは鞄から書類の束を出し、最上段の紙に指先で皺をつける。保護区域案。押印欄は空白のまま。空白は怖い。怖いが、余白とも呼べる。余白には、後で言葉が入る。


 「ユウ」


 ナミが目を閉じたまま言う。


 「うん」


 「今日の祈り、未送信のままで持っていこう」


 ユウは目を細め、頷いた。メトロノームの針は止めた。止めたのに、二人の間に秒針の長さが残った。残った長さは、たぶん明日にも触れる。


 夜は深く、風は穏やかに、星は近いまま遠い。遠いのに、迷子にならない夜だった。避雷針にそって流れる小さな光の筋が、空へまっすぐ上がっていく。誰のものでもない、ただの光。誰のものでもないものを、今夜だけは少し信じて、五人と一人は、眠りと起きるの間に体を預けた。


 明日の地図は机の上ではなく、足の裏に描かれていく。停止の提案は紙の上で、逃亡の地図は斜面の土に。二つは矛盾しない。矛盾させないと決めた。矛盾しないで進むために、祈りは未送信で持ち運ぶ。送るときは、世界が止まるときじゃない。僕らが、動くと決めたときだ。

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