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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第19話 山稜の一夜、未送信の祈り

 リフトの鉄塔が、月の薄い輪郭を横切っていた。ワイヤはもう張られていない。風に鳴るはずの音もなく、ただ空の寒さが骨の表面を撫でていく。座面の塗装は剥げ、番号札だけが読み取れる。十六、十七、十八。等間隔に並ぶ空席の影は、海で見た灯籠の列に少し似ていた。

 そこを越えて、五人は測候所跡へたどり着いた。石垣の上に灰色の平屋があり、窓は割れて、風向計は錆びて固まっている。壁には「観測終了」の白いステンシルが薄く残っていた。サトルがかすかに笑った。

 「皮肉だね。観測の終わった場所で、僕らはまだ観測されている」

 電波は弱い。圏外表示と一本だけの表示が交互に点く。そのたびに“圧”だけが入ってくる。文字ではない、数でもない、誰かの「消えた」が圧縮されて押し寄せる短い振動。ユウはポケットで携帯を握り、振動が止まるのを待った。止まると、少しだけ寒くなる。寒さは、感情の余白に住む。

 入口の鉄扉は、下が歪んで閉じ切らない。ユウは室内から椅子の脚を噛ませ、板を打って補強した。釘は曲がりやすく、曲がるたびにトオルがペンチでまっすぐに戻す。トオルは発電機の代わりに乾電池とLEDライトで照明を組み、コードを梁に這わせる。スイッチを入れると、白い光が壁の地図を浮かび上がらせた。等圧線は色を失い、薄く波打っている。

 ソラは割れた窓にビニールを貼った。テープを四辺に伸ばし、風が入る隙間を丁寧に埋める。レンズは窓の外へ向けて据え、ピントを無限遠に合わせる。夜景モードなど使わない。頼れるのは、自分の手の癖と、シャッターの重みだけ。

 ナミは呼吸を整え、机に『誓いのノート』を広げた。ページは少し湿気を含み、指にやわらかい。今日の頁に短い文を刻む。

 ——山の匂いは海に似ている。どちらも、私の輪郭を洗う。

 書いた文字の上に掌を置くと、インクがまだ生きているのが伝わった。生きているうちは、消せる。消せるものは、間違えてもやり直せる。

 夜半、息が白くならないのに冷え込んだ。ランプの光が縮み、床から静かな冷気が上がってくる。机の角に置いたメトロノームを、ユウが二度目で弾いた。カチ、カチ。針の音は小さいが、空間の真ん中で真面目に鳴る。音に呼吸が寄っていき、ばらけていた気持ちも少し整った。

 サトルが口を開いた。

 「センターの上層は“最終調整”を進めている。停止デバイスを全国の沿岸に拡張し、流量を“平準化”する計画。±ゼロに近づければ、社会は持つ。机の上では、そういう前提だ」

 トオルが噛みつく。

 「人は±ゼロじゃない。ゼロに近づけられて、黙っていられるもんか」

 サトルはうなずいた。うなずき方に、言い訳がなかった。

「だから僕はここにいる。机の上ではなく、窓の外で決めるために。……ここで見たものは、僕が記録する。都合よく切り取らない」


 外の闇が揺れた。雪に似たものが音もなく降り始めた。白い粉のように見えるが、床には残らない。光の粒は空気より軽く、触れると皮膚の内側が静かに温かくなる。冷たいものが触れたのに、温かい。ナミの左袖の空洞が、その粒に縁取られて淡く見えた。ナミは目を細め、右手の指先を動かした。ユウはその手を包み、言葉を繰り返す。

 「大丈夫。大丈夫」

 カチ、カチ。針の拍に、みんなの呼吸が揃っていく。均すための道具に、今は救われる。均しすぎると、世界は薄くなる。けれど、今夜は少しだけ均したい。

 ふと、ソラがレンズ越しに窓の外を見て、息を呑んだ。

 「……誰かがいる」

 獣道の影の向こう、曲がった木の列の間で、小柄な影が揺れた。背丈は低く、白いフードの縁が光を拾う。裸足にも見える細い脚。サトルが立ち上がる。

 「待って。誘導の可能性が——」

 言い終える前に、影が足を滑らせた。斜面を転がり落ちるガサッという音。迷っている時間はなかった。全員が走った。

 外は意外に近かった。ユウが先に斜面へ滑り込み、転げた影を抱き起こす。軽い。骨の鳥を抱いたようだった。額に触れると微熱がある。呼吸は浅く、肩で揺れる。少女は目を閉じたまま、かすれた声で言った。

 「……お兄ちゃん、探してた、の。海で、消えちゃって。音が、ここまで来る気がして」

 その言葉に、ソラの喉が鳴った。葬列の輪唱が胸骨の裏に戻ってくる。誰かの声の余韻だけが骨に残る感じ。痛いけれど、邪魔ではない痛みだった。

 測候所に運び、毛布で包む。トオルがポケットから飴玉を取り出し、少女の手に握らせる。舌に乗せやすいように、包装紙を半分まで剥がしてやる。小さく咳をして、それでも彼女は礼を言った。目はまだ完全に開かない。

 「名前は?」

 「……朝倉リン。十四。町は、三つ向こう。大人たちが“停止”に並ぶとこで、お兄ちゃん見失って……その、後ろで……光になって……わたし、音が来る方、ずっと歩いて……」

 言いながら、彼女の袖口からも微かな光が漏れた。ナミが目を伏せ、すぐに顔を上げる。

 「私たちも、似た場所にいるね」

 笑い方は弱かったが、嘘ではない。リンはその言い方に少し安心したように見えた。安心は、いつだって最初に体温へ行く。

 扉を閉め、椅子の脚をもう一度噛ませる。ソラはリンの背に自分のジャケットを掛け、ファインダーを覗くのをやめた。撮るべき時と、撮らないほうがいい時がある。撮らない選択は、勇気に似ている。

 静かな時間が、部屋に濃く降りた。外では風の向きが何度か変わり、屋根の錆が柔らかく鳴る。LEDライトの影は硬く、壁の文字の角をくっきり取る。影がはっきりしている夜は、ものの輪郭が嘘をつかない。

 サトルがノートPCを閉じ、手の甲で目をこすった。

 「……“最終調整”は、この県にもかかってくる。沿岸の“間引き”——彼らは“迂回”と呼ぶ——を網羅的に始める準備。反対する自治体も多い。でも“平準化”の言葉は、疲れている人を説得する力がある」

 「疲れてるからだよ」

 トオルが言う。声は荒くない。むしろよく通る。

 「疲れてるから、楽な納得を選ぶ。俺だって今日、スイッチ押しそうになった」

 ユウはトオルを見て、視線を外した。責めないでいる努力は、疲れる。疲れるけれど、やめられない。やめたら、もっと疲れるのを知っているから。

 「……だから僕はここにいる」

 サトルは繰り返した。

 「選んだ痕跡を、責任ごと残す。“誰が”を残す。『世界が選んだ』の陰に逃げないように。記録は刃物になる。だけど握らないと、誰の手にも届かない」

 ユウはうなずき、メトロノームを軽く弾いた。音が戻る。音に戻り方があるのは、救いだ。

 夜は深くなる。ひときわ静かな時刻が来て、光の雪は一度、止んだ。止んだあと、天井から氷柱のような光粒が一筋落ちた。床に落ちる前に溶け、空気の上だけでほどける。見慣れないのに、もう怖くない景色。繰り返される特別は、日常の真似をする。

 リンが少し目を開けた。白目に光が映り、黒目が震えた。飴はもう残っていない。彼女は毛布の端を握り、ほとんど声にならない声で聞いた。

 「ここ、ずっと居ていい?」

 言葉の重さが胸に落ちる。重いのに柔らかい。ユウは即答できなかった。答えはある。けれど言う前に、みんなの顔を見た。ソラは頷き、トオルはあごを僅かに引いた。サトルはほんの少し目を閉じた。ナミはリンの手の上に、自分の手を重ねた。

 「連れていこう。誰かを“停止”から守る選択を、私たちの手で始めたい」

 サトルは二拍置いて息を吐き、ラップトップを脇へ滑らせた。

 「了解。ならば“観測の記録”は僕が引き受ける。選んだ痕跡を、責任ごと残す。……この行為を、後悔のために使わせない」

 決まると、部屋の空気が一段落ち着いた。決めたあとに来る落ち着きは、体の奥から来る。頭からではない。体で決めたほうが、夜は短くなる。

 眠れない夜だった。交代で仮眠をとり、毛布の配り方を変え、ライトの角度を動かし、外の音を確かめる。ユウとナミは廊下の隅に腰を下ろし、窓の下の枠に踵を乗せた。古い木はすぐに音を立てず、体重を受け入れた。

 外では、風が稜線を越えるたび、光の粉が「見えない川」の流れ方で揺れた。川はそこにないのに、確かに流れている。流れ方に癖がある。少し曲がり、少し戻り、また流れる。世界が疲れているのが見える。

 「ねえ」

 ナミが囁いた。声は毛布の端の厚みくらいの小ささで、でもユウの耳に届く。

 「もし世界が本当に止まったら、キスの約束は、どうなるの?」

 ユウは少し考え、答えを探してから、言葉を置いた。

 「止まった世界の中で、動く二人の最初の動作にしよう。動けるって証拠に。時間が止まってても、俺たちの側に秒針を持ってくる」

 ナミは目を細めた。疲れていても、笑う筋肉は動く。

 「いいね」

 彼女はノートを開き、短い行を一本足した。

 ——止まった世界で、最初に動く。

 ユウはその字を見ないふりをし、窓の外の暗さをもう一度確かめた。暗さは変わっていない。変わっていないけれど、怖さはさっきより軽かった。軽くなった分だけ、眠気が来る。

 リンは端の寝床で、時々小さく寝返りを打った。毛布の下で足の指が動く。動く指を見るだけで、人は安心できる。安心は、音にならない。

 ソラはカメラを胸に置いて目を閉じ、眠りと起きるの間に留まった。ファインダーの黒は、瞼の裏の黒に似ている。似ているけれど、違う。違うものを並べると、心は落ち着く。

 トオルは入口の前に座り、工具箱を枕代わりにした。蓋は閉じたままで、中には何も直せるものがない。直せない夜は、直せないと認めないと長くなる。認めた夜は、短くなる。

 サトルは壁の「観測終了」の文字を見ていた。観測をやめたのは建物で、彼らではない。観測を続けるために、彼はここにいる。彼は胸ポケットのペンを触り、短くメモを書いた。日時と、ここにいる五人の名前。記録は、真面目な癖を持つ。癖があるものは、信じやすい。

 夜の真ん中で、風が一度だけ止んだ。音が消えた。消えたあと、耳は自分の心音を拾う。ユウはポケットのメトロノームを握り、針の頭に指を置いた。動かさない。動かさないまま、針がそこにあるのを確かめる。動かさないのに確かめられるものは、少なくない。その少なさが、今は心強かった。

 「ユウ」

 ナミがもう一度呼んだ。

 「うん」

 「“未送信”、ってさ。送られなくても、ちゃんとここにある言葉のことだよね」

 「そうだと思う」

 「なら、私たちの祈りは、今のところ“未送信”でいい。送る前に、持っていられるだけ持っていたい」

 「持とう。持てなくなったら、送ればいい」

 「うん」

 言葉はそれで止まった。止めた言葉の上に、眠りが薄く降りた。降りた眠りは、軽い。軽い眠りを選べるうちは、まだ大丈夫だ。

 深夜三時。外の闇に、一度だけ脈打つ明るみが走った。海のほうからではない。山の向こう。遠い町の方角だ。サイレンは鳴らない。誰かの声も聞こえない。光だけが、誰のものでもない顔で膨らんだ。サトルが立ち上がり、窓へ近づく。ソラも起きてレンズを掴み、シャッターを押しかけて止めた。撮らない。今は撮らない。

 「……持ちこたえろ」

 トオルが言った。誰に向けてでもない。自分にも、誰かにも。リンが寝返りを打ち、毛布が少しずれた。ナミがそっと直す。毛布の端が、彼女の指を通って、触れられた布になった。

 やがて脈打つ明るみは薄れ、夜は元の濃さへ戻った。戻る途中、空の一部がうっすら白む。夜明けではない。崩れの予感が夜を押し、空の色を少しだけ薄くしただけだ。それでも、色が変わること自体が救いに似ていた。

 ユウは立ち上がり、扉の板を軽く押して強度を確かめた。釘は持っている。椅子の脚も噛んでいる。外せば出られるし、押せば耐える。その「両方」が今はありがたい。

 「朝になったら、ここを出よう」

 ユウの声に、サトルが頷く。

 「北東へ。尾根づたいに移動する。電波も監視も薄い。途中、避難小屋がひとつある。水は少ないけど、雨樋がまだ生きてる」

 「リンは歩けるかな」

 ソラが囁く。ナミはリンの額に手を当て、熱の高さを確かめた。

 「歩けなかったら、抱える。今日は抱えてでも進む」

 トオルが短く「おう」と答えた。工具箱の取っ手を握る。握りが手になじむ。なじむ道具は強い。

 「ユウ」

 ナミが立ち上がる。目の下に薄く影がある。

 「“止まった世界で最初に動く”って、今から練習してもいい?」

 「いい」

 二人は立ったまま、額を寄せた。唇は触れない。まだ、そこへは行かない。行かないこと自体が、今は誓いになっている。額の骨が触れ、体温が薄く重なる。メトロノームは鳴らさない。それでも、秒針の長さは二人の間にあった。

 「ありがとう」

 ナミが言う。誰にでもなく、今に向けて。

 ソラはその光景を撮らなかった。レンズは下を向き、カメラはそのまま胸の上に置かれた。代わりに、手帳に短い文字を残す。

 ——今、撮らない。

 撮らない選択も、写真の一部だ。残すのは、写真だけじゃない。

 朝の手前、風がまた変わった。稜線の向こうで鳥の鳴き声が一度だけして、すぐに止んだ。LEDライトを弱め、荷をまとめる。水筒を分け、毛布を畳み、ノートを鞄にしまう。リンは目を擦り、半分だけ起き上がった。頬の色は少し戻っている。

 「歩ける?」とユウが聞くと、リンは小さく親指を立てた。指は震えていない。震えていても良かった。震えていないのは、今の彼女の答えだ。

 扉の椅子を外し、板を静かに外す。朝の気配のない朝の匂いが、隙間から流れ込む。塩ではない、土の匂い。海から遠いのに、胸の奥の波が少しだけ落ち着いた。

 サトルが先に出る。周囲を確認し、手で合図を送る。右、クリア。左、クリア。誰もいない。見張りも、足跡もない。風の跡だけが地面に残っている。

 ユウは最後に机の上の『誓いのノート』を撫で、メトロノームの針に一度だけ触れた。動かさない。触れるだけ。触れることが、今のスタートだった。

 「行こう」

 ユウが言った。声は小さいが、四方へよく通った。

 未送信の祈りは、その場に少し残った。送られなくても、そこにある。残った祈りは、戻ったときに拾える。拾えない夜が来たら、胸の中に残っているぶんで間に合う。間に合わなかったら、そのとき送ればいい。

 扉が開く。外の空気は冷たく、頬に触れ、耳の後ろを撫で、首筋へ落ちる。五人と一人は、山の細い道へ踏み出した。足音が土に吸われ、枝が肩に当たり、光の粉がまだ眠っている葉の上で微かに揺れた。

 観測が終わった建物の窓に、彼らの背中が一瞬だけ映った。映った影はすぐに消え、ガラスはまた夜の名残を映した。観測は終わっていない。終わっていないかぎり、祈りはまだ送らなくていい。

 未送信のまま持ち歩く祈りは、荷物にならない重さで、彼らの胸の内側に均等に分かれていた。均等じゃなくていい。ばらけていても、分け合える。分け合う練習を、今日も続ける。そうやって、止まりかけた世界の端っこを、少しずつ押しなおす。

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