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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第17話 選べなかった手

 朝は晴れていた。雲は薄く、風は弱い。けれど目に映るものの温度だけが、季節から少し外れているように冷たかった。町の北側の海岸線に、白いセンターの車がいくつも並び、黄色い回転灯は消えたまま不吉な色だけを残している。職員たちは無言で作業に入り、黒い円盤を砂地に等間隔で埋め込んでいった。円盤の周りに銀の杭を打ち、ケーブルを這わせ、端子を固定する。立入禁止のテープが張られ、海側と陸側を区切るように風に揺れる。上空ではドローンが低空で周回し、一定の間隔で小さく光った。


 トオルはその端で、手伝っているふりをしては何度も立ち止まった。工具箱を抱えて、必要とされれば渡し、不要になれば握りしめたままだ。彼の目は、たった今自分の手から離れたスパナの行き先を追い、次の瞬間には遠くの海の色へ滑っていく。視線の焦点は合っているのに、心の焦点はずれていた。彼はそれを自覚していて、なお整えなかった。


 堤防の上から、ユウとナミとソラが状況を見下ろしていた。潮の匂いは弱く、砂の匂いが強い。海はいつもより遠い気がした。サトルが後ろから合流してきて、短く告げる。


 「今日は低出力テスト。停止ではない。流れを曲げるだけの実験だ」


 ユウは睨む。言葉の表面を削っても、芯の形は変わらない。


 「名前を変えても、誰かの空が痛むのは同じだ」


 サトルは受け止めるように頷いた。


 「うん。だから、止めたいなら今しかない」


 その言い方には、逃げ道を用意しない種類の誠実さがあった。卑怯ではないが、やさしくもない。やさしさは、別の場所で配られるしかない。


 テスト開始の合図が、短く鳴った。空気の縁が一度だけめくれ、海風が数秒止む。体感温度が一段下がる。砂粒がいっせいにわずかに沈み、海面がスローモーションのように遅くなった。遠くの雲の縁が逆流し、輪を描いていたカモメの列が崩れる。ナミの右手の指先が痺れ、息が細くなる。ユウはその手を両手で包んだ。掌の温度を押しつけるみたいに、指の間を埋めていく。


 「大丈夫。大丈夫だ」


 ナミは頷く。頷いたままサトルを見た。視線は静かに、まっすぐだ。


 「止めて」


 サトルは目を閉じ、ほんの一拍だけ黙った。


「僕には……権限がない」



 嘘ではなかった。嘘ではないのに、ひどく聞こえた。権限という言葉は、人を守るために使われるべきなのに、誰も守れない場所では盾になりきれない。


 砂の中央、円盤群の中心にトオルが立った。彼の手にはリモートのスイッチ。黒い小さな箱。親指の下に、軽いクリックの感触。職員が頷き、合図を送る。目の前の空気は透明で、遠くの水平線はまっすぐだ。世界は問題なく見えるのに、内部はずれている。押せばいい。ただ押せばいい。押せば、数字のうえでは救われる家族がある。押せば、地図の別の場所で、空が裂ける。選べるはずがない。けれど、選ばなければ、世界が勝手に選ぶ。世界に選ばせるのが正しいのか、卑怯なのか、それもわからない。


 堤防の上で、ユウが走り出した。テープが頬に当たり、薄い痛みが走る。砂に足を取られ、すぐに呼吸が荒くなる。ソラが後ろから追い、サトルも続いた。ドローンの低い唸りが近づき、職員の制止の声が飛ぶ。ユウは砂に膝をつき、トオルの前に滑り込むように立った。


 「やめろ」


 トオルは笑った。乾いた笑いだ。自分で自分の表情筋を引っ張って、笑顔の位置へ持っていくみたいな笑い。


 「お前に言われたくない」


 ユウは拳に力を込めた。殴れば、きっと楽になる。殴れば、相手が悪者になってくれる。楽に“悪者”を置けば、自分の側に正しさが残る。楽は、いつだって魅力的だ。けれどユウは殴らなかった。拳を開き、両手を上げ、手のひらを見せる。空っぽの合図。


 「お前が押したら、俺は許さない。押さなくても、俺は許さない」


 トオルの目が揺れた。ユウは目を逸らさず続ける。


 「……それでも、一緒にいたい」


 スイッチが、砂に落ちた。乾いた小さな音。職員が駆け寄る。「黒瀬くん!」と呼ぶ声が重なる。サトルが前に出て、拡声器を奪い、冷静な声で指示を出した。


 「テスト中止。装置を手動停止。海面の位相ズレが戻るまで監視。ドローンは外周へ。外野の接近を止めて」


 彼の声は震えていなかった。震えは、ソラのカメラのファインダーの奥でだけ見えた。ファインダー越しのサトルの横顔は、眠れていない大人の顔で、正しさに追われる人の目だった。


 装置が完全に止まるまでの十数分、世界は“半分だけ止まった”。風の向きが揺れ、波の縁がほどけ、浜辺のゴミ袋が宙で迷い、ドローンの回転がわずかに遅れて見える。ナミの輪郭が一瞬だけ二重にずれ、透明な影が彼女の肩に重なる。ユウの手の中で、彼女の体温が薄くなった。戻ってこないかもしれない薄さ。恐怖は具体的だ。具体的な恐怖が、抽象的な正義を片手で押しのける。ユウはナミの額に自分の額をそっと押し当て、呼吸のリズムを重ねた。ポケットのメトロノームが布越しに微かに震える。針のカチカチは小さく、でも持続する。


 完全停止。波の音がふっと元の速度に戻り、砂の上の影がほつれを失って、現実へ縫い直される。ナミは深く息を吐き、砂に座り込んだ。指先を見つめ、ゆっくり拳を開く。そこには何もない。けれど「何もない」を自分で確認できることが、今は救いだった。


 トオルはその場に崩れ、指の間に砂を食い込ませるように掴んだ。涙が砂に落ちると、すぐに乾く。泣いている自分に、自分が驚いた顔をする。彼は声にならない呼吸をいくつか繰り返し、やっと言葉を出した。


 「俺は……押せなかった。押せなかったのに、押したみたいに苦しい」


 ユウは肩に手を置く。友だちの肩は、思っていたより広い。広いのに、支えられる範囲は狭い。


 「押しても、押さなくても、苦しいよ。たぶん、ずっと」


 たぶん、ずっと。言ってから、ユウはその残酷さに気づく。嘘を混ぜないと、言葉はいつも痛い。痛い言葉は、でも長持ちする。長持ちすることを、今は選んだ。


 夕方、センターの車列が砂の上に薄い轍を残して去り、浜辺には風だけが残った。ドローンはどこにもいない。立入禁止のテープは外され、銀の杭だけが取り残される。遠くで犬が吠え、空はまだ青いふりをしている。サトルがユウのほうへ歩いてきた。歩幅は一定で、靴の踵はほとんど砂に沈まない歩き方だ。


 「逃がすなら、今夜だ」


 声は低く、よく通った。余分な感情を混ぜていない。混ぜると、言葉が滑る。


 「灯台に空きがある。旧い監視小屋。鍵、僕が開ける」


 ユウは眼を細める。善意は疑うべきときがある。疑わないと、背中を撃たれる。疑いすぎると、差し出された手が空中で凍る。


 「君はどっちの味方だ」


 サトルは少しだけ考えた。返事を急がない大人の癖だ。やがて言う。


 「嘘をつかない顔の味方」


 短い答えだった。短いのに、意味は重い。ソラがその横顔を撮る。ファインダーの角で、サトルの睫毛がゆっくり動いた。


 夜の準備を始める。水、毛布、懐中電灯、乾電池、救急セット。ソラは三脚を肩に担ぎ、予備のフィルムをポケットに詰めた。重さは増えるほど安心する。安心は、正解ではない。けれど、夜を運ぶには役立つ。トオルは黙って工具箱を持ち、錆びたカラビナでフタを留めた。口を開くと崩れる自分を知っている人は、沈黙を選ぶ。沈黙は逃避じゃなく、準備だ。


 ナミは一冊のノートを鞄に入れる。表紙には手書きで『誓いのノート』。最初のページに、震える文字で一行だけ。


 ——世界が滅ぶまでにキスをしよう。


 ユウはその字面を見て、胸のどこかを針で刺されたみたいに息を詰めた。短い一行は、短いぶんだけ逃げ場がない。ページを閉じても、文字は消えない。消えないから、そこに戻れる。戻れる場所がひとつでもあるのは、今の彼らにとっては貯金だった。


 いったん家へ戻る。父は夜勤で、留守電には何も入っていない。冷蔵庫に残った麦茶をボトルに移し、乾電池を引き出しからかき集める。メトロノームをポケットに入れ、懐中電灯のスイッチを確認する。明かりは強すぎないほうがいい。強い光は夜を傷つける。傷ついた夜は、朝に報復する。


 集合は防波堤の根元。灯台の足は黒く、空へ伸びる胸骨のようにまっすぐだ。夜の海は近づくほど音が小さい。耳が慣れ、目が慣れ、肌が慣れる。慣れると、怖さが姿を変える。姿を変えた怖さは、飼いならしやすい。


 サトルは本当に鍵を持っていた。センターの職員証とは別の、小さな束。金属の擦れ合う音だけが真面目だ。彼は錆びた南京錠を少し揺すってから、鍵を差し込み、ゆっくり回した。古い扉は軽い音を立てて開いた。中は狭く、乾いた塩の匂いがする。壁には古い地図。天井からぶら下がる裸電球は切れている。窓の外、灯台の灯は規則正しく遠くを照らし、近くには一切届かない。いつだって光は、必要な場所に届きにくい。


 毛布を敷き、水を置き、懐中電灯を隅に立てる。ソラは窓の外に三脚を据え、灯りの回る速度を測るみたいに視線で追った。トオルは工具箱を開け、思いつく限りの簡易的な補強をした。扉の蝶番に油を差し、窓枠のぐらつきを布で止め、段差にガムテープを貼る。何ひとつ完璧ではないが、何もしていないよりずっといい。


 「ありがとう」


 ユウが言うと、トオルは首を横に振った。


 「俺は何も……」


 「今ここにいるのが、何よりだ」


 言葉は短く、しかしゆっくり置いた。早口で言うと、すぐに壊れる種類の感謝だ。


 サトルは外に出る準備をした。引き際はわきまえている。灯りの届かないところでタバコに火をつけ、すぐに消す。吸わないのに火をつけるのは、落ち着く相手が必要だからだ。代わりにポケットから小さな紙切れを出し、ユウに渡した。


 「僕がいつか君たちの邪魔になるときが来たら、これを使っていい。職員通用口の暗証。今夜は役に立たないけど」


 ユウは紙を折って、メトロノームの下に滑り込ませた。頼らないと決める強さも、頼ると決める強さも、どちらも持っておきたかった。


 「サトル」


 ソラが呼ぶ。ファインダーから目を離さずに言う。


 「さっきの“嘘をつかない顔”って、誰のこと」


 サトルは少し考えてから、灯台の光の隙間で答えた。


 「君たち全員。と、朝の鏡の中の自分」


 短い返事。ソラはそれを一枚撮って、シャッター音を夜へ溶かした。


 サトルが去ると、灯台は本当に彼らのためだけの場所になった。夜風が窓の隙間から入り、毛布の端がかすかに動く。ナミは『誓いのノート』を開き、二行目の余白にゆっくりペンを走らせた。文字は震える。震えた文字は、嘘が少ない。


 ——怖いときは、怖いと言う。

 ——それでも一緒にいる。


 ユウは頷き、メトロノームを弾いた。カチ、カチ。針の音は灯台の回転と合わず、合わないまま並走する。合わない二つが隣で鳴ると、不思議と心が落ち着く。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけじゃないと、耳が理解するからだ。


 「選べなかったな」


 トオルがぽつりと言う。誰にでもなく、ひざの上に。


 「選べなかった手は、ずっと覚えてる」


 「覚えているなら、きっと次に役に立つ」


 ユウが返す。トオルは顔をしかめる。


 「次なんて、来てほしくない」


 「俺もだ」


 素直な一致は、珍しい。珍しい一致は、それだけで夜を少し短くする。


 外の海は、相変わらず遠くで鳴っていた。低い振動は胸骨の奥に入ってきて、そこでやさしく居座る。嫌な居座り方ではない。そこに置いておかないと、もっと嫌なところへ行ってしまう、そんな種類の波だ。


 ナミが窓の外を見た。灯台の光が海面を撫で、撫でられた場所が薄く白くなる。白はすぐにほどけ、また闇に戻る。戻るたびに、確かめられる。


 「ねえ」


 ナミが言う。声は小さいが、よく届く。


 「もし、世界がまた私たちに選ばせようとしてきたら、どうする?」


 「文句を言う」


 ユウは即答した。ナミが笑う。


 「小学生みたい」


 「文句を言って、走る。走って、写真を撮る。写真を貼る。印を増やす。大人たちの会議に持っていく。廊下に並べる。……それから、キスする」


 ナミは目を細めた。笑いを隠すときの目。


 「順番、最後だけ豪快だね」


 「順番は変えてもいい」


 「変える?」


 「変えない」


 やりとりは短くて、温かい。温かいから、眠気が少しだけ近づく。ソラは三脚の高さをわずかに変え、灯台の光の円を四枚連続で撮影した。円は全部、同じ大きさではなかった。風で揺れて、光はいつも少し違う。違いを並べると、今日は今日になる。


 深夜、灯台の回転が遅く見える時間帯がある。実際には遅くなっていない。見る側が疲れて、目の筋肉の動きが遅れて、光だけが先へ進む。取り残された目は、やがてその速度に慣れる。慣れたころ、東の空がほんの少し白む。


 「サトルは、また来るかな」


 ソラが問う。ユウは肩をすくめた。


「来るだろ。邪魔か助けかは、そのとき決める」



 トオルが毛布に潜り、顔だけを出した。


 「俺、明日の朝、センターに行く」


 「行ってどうする」


 「逃げないってだけ伝える。今日、逃げたのは俺だ。押すのから。押したくなかったから逃げた。逃げたことは、逃げたって言っとく」


 それは告白に似ていた。罪悪感をごまかさない言い方は、聞くほうの喉にも少し痛い。ユウはうなずく。


 「言えばいい。言ったら、お前は明日もここに戻って来れる」


 「戻る」


 約束は重い。重いほうが落ちない。落とさないで運ぶには、手のひらに汗が必要だ。汗は裏切らない。


 ナミはノートを閉じ、ペンを表紙のゴムに差し込んだ。眠気は浅く、意識は明るい。彼女は毛布の端を掴み、ユウのほうへ小さく引いた。ユウはその合図だけを受け取り、距離を変えない。変えない距離に意味がある夜だって、ある。


 灯台の外、波の列が一度だけ崩れた。遠雷みたいな音が遅れて届く。監視小屋の壁がほんの少し震え、窓の桟がきしんだ。ソラはその音を撮らない。音は各自の胸で保存されるべきだ。代わりに、窓ガラスに映った自分たち四人の影を撮った。影はぶれる。ぶれる影は、嘘が少ない。


 朝が近づく。東の空が白み、灯台の光が役目を終える準備を始める。ユウはメトロノームを止め、ポケットに戻した。止めた針はすぐには休まらない。手の中で、なお微かに震える。震えは、不安の名残ではなく、何かを始める前の合図みたいだった。


 「行こう」


 ユウが言う。今日の印を増やすために。戻る道を、また確かめるために。ナミは頷き、ノートを抱えた。ソラは三脚を畳み、トオルは工具箱を持った。扉を開けると、朝の匂いが一気に入ってくる。塩と鉄と、遠くのパン屋の甘い匂い。世界はまだ壊れていない。壊れ始めているだけだ。壊れ始めているなら、手はまだ届く。


 灯台の階段を降りる途中で、サトルの置いていった足跡が薄く残っているのが見えた。砂に深くは入っていない。重さを半分だけ地面に預ける歩き方だ。ユウはその横に、自分の足跡を重ねた。重ねたら、少しだけ安心した。足跡は、選べなかった手のかわりに残る。残ったものを見ることで、次の手を選ぶ練習ができる。


 浜に出ると、昨夜の灯籠の燃え跡が小さく残っていた。灰は冷えて、砂に混ざる。ソラはしゃがんで灰をひとつまみ拾い、指の腹で潰してから、風に放った。灰はすぐに見えなくなる。見えなくなることを、彼女は写真にしなかった。見えないままでいいものは、たしかにある。


 トオルがセンターのほうへ歩き出した。振り向かない。振り向くと、足が止まるのを知っているからだ。ユウはしばらく見送り、それからナミの手を取った。手の中に、ちゃんと体温が戻ってきていることを確かめる。確かめられる朝は、勝ちだ。


 「今日も、生き延びよう」


 ユウが言うと、ナミはうなずく。


 「うん。生き延びたら、ノートの次のページに書くね」


 「何て書く」


 「秘密」


 笑って、秘密と言えるうちは、大丈夫だ。ソラが二人の背中を一枚だけ撮り、カメラを下ろした。シャッター音が、朝の波に混ざって消える。消える音まで、ちゃんと好きだと思えた。


 選べなかった手は、たしかにあった。押せなかった親指。落としたスイッチ。拾わなかった、拾えなかった瞬間。けれど、その場に残った足跡と、交わした短い言葉と、震える字のノートが、朝の空気で少しずつ固まっていく。固まったものは、今日を支える。


 海は、まだ呼吸している。

 呼吸しているあいだに、彼らは今日の印を増やす。

 印を増やしながら、次の賭けのために、少しだけ体力を貯める。

 賭けに勝っても負けても、嘘をつかない顔でいられるように。


 灯台の影が短くなり、学校のチャイムの音が遠くから遅れて届いた。彼らはそれぞれの方向へ歩き出す。離れる足音が、やがてまた近づく日へ向かって、砂の上に細い線を引いた。線は波で消える。それでも、歩いたという事実は、体の芯に刻まれる。


 選べなかった手は、忘れない。

 忘れないなら、次はきっと、選べる。

 選べる場所まで、今日も行く。

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