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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第16話 海に降る葬列

 葬儀社の張り紙は、朝のうちに新しい紙へと貼り替えられた。予約は受け付けられません。手書きの赤い線が二本、文字の上を横切っている。寺の掲示板も同じだった。法要は未定。問い合わせは控えてください。電話の鳴らない静けさが、町の芯へじわじわ染みていく。


 それで町は決めた。見送りは海で、みんなでやる。寺の鐘も、式場の照明も、今は誰の順番にも追いつかない。だから波打ち際で、簡素に、でも嘘のないやり方で。


 夕暮れ、子どもたちが紙で作った小さな灯籠を並べはじめた。牛乳パックを開いて貼り合わせた四角。内側に薄いロウソク。外側にクレヨンで描かれた太陽と、波と、名前。字のうまい子もうまくない子も、火を灯すと自分の描いた世界が急に静かになるのを面白そうに見つめた。風は穏やかで、波は低い。今日だけはさらわないで、と誰も声にしない願いが浜を撫でる。願いが届く夜は、たまにある。たまにでいいから、今日であってほしい。


 ユウ、ナミ、トオル、ソラが並んだ。砂はまだ温かい。靴の中で指先を動かすと、砂の粒がゆっくり場所を変える。浜の端では消防団の人たちがバケツに水を用意し、灯籠の列の間に通路を作っている。誰も合図を出さないのに、みんな立つ場所を覚えている。海の前では、人の並び方も長く続く暮らしの癖に似る。


 ソラは母のスカーフを胸に抱いた。青い糸がところどころほつれて、端に細い毛羽が立っている。海水に触れても色が落ちないよう、何度も洗われた布だ。ソラは波の引き際で膝をつき、スカーフの先をそっと濡らす。


 「塩を覚えていて」


 それは祈りでも命令でもなく、ただのお願いの言い方だった。お願いは誰に向けられたのか、自分にもわからない。母か、海か、ここで並んでいる見知らぬ人たちか。返事はない。それでも濡れた端が少し重くなって、ソラはうなずいた。


 隣でナミが灯籠に手をかざす。揺れる火は、風よりも彼女の指先に合わせて小さく震えた。ナミは海の音をひとつ飲み込むようにして、低くつぶやく。


 「私、消えるとき、熱いのかな。冷たいのかな」


 ユウは答えられない。答えを作ろうとすると、言葉の角だけが立ってしまう。角は夜には向かない。代わりに、トオルが少しだけ前を見たまま言った。


 「俺たちが触れてる間は、あったかい」


 その言い方に嘘はなく、慰めの形だけを先に置かないやり方が、ナミの肩をほんの少し軽くした。ナミはうなずき、灯籠の火が映る自分の瞳を確かめる。映っているあいだは、まだ「ここ」にいる。


 空が群青に沈むころ、遠くの海面で光がまとまって立ち上がった。灯籠の列と同じ高さで、ゆっくり、等間隔に。波の上からではなく、海の底から葬列が浮かび上がってくるようだった。人々は声を失う。目だけが動く。やがて、誰かが歌いはじめた。昔からこの町で歌われてきた輪唱。歌は拙く、途中で途切れる。それでも音程の揺れと、潮の呼び合う音が重なって、浜はひとつの長い息になった。


 灯籠が海へ出ていく。岸に寄せては返す波に逆らわず、灯りはゆっくり沖へ向かう。途中で転びそうになる小さな子を、お父さんの手が軽く支える。杖を持ったおばあさんが、灯りに合わせて首だけでうなずく。うなずくたびに、耳の横の白髪が揺れる。今日だけは、悲しむ順番が決まっていない。順番がない代わりに、誰もが誰かの近くへわずかに寄る。


 そのとき、ソラの腕からスカーフがするりと落ちた。風に乗って、海へ滑る。布は水に触れ、重さを取り戻す。ソラが一歩踏み出した。ユウが肩をつかむ。だがソラは振りほどかない。踏み出した足を引いて、水際に膝をつき、両手を水に浸した。


 「ありがとう」


 誰に向けた言葉か、本人にもわからない。濡れた手を顔に当てる。塩の匂いが目の奥に来る。痛いのは涙のせいか、海のせいか、わからないくらいがちょうどよかった。


 灯りが沖へ並ぶ。並ぶ灯りの向こうで、海の色が一段深くなる。空はまだ完全な夜にならない。昼と夜の間で、あいまいな色がいちばん長く残る時刻だ。人の顔も同じで、この時間帯だけは泣き顔と笑い顔の区別がつきにくい。区別がつきにくいから、誰も強くは泣かないし、強くも笑わない。


 儀式の終わり、灯籠の火が弱くなったころ、ナミがよろめいた。立っている場所がわずかに傾いたのかと思うほど静かな揺れだった。ユウが反射的に抱きとめる。細い肩を支えて、胸の奥に耳を寄せる。そこに、小さな欠損が生まれた音がした。音にはならないが、確かに「欠けた」。丸いものの縁が、目に見えないほど少し削れたような感覚が、ユウの掌に伝わる。


 「大丈夫」


 ナミは苦笑いに似た形で口元を上げた。目の奥の光は弱くない。弱くないのに、遠い。遠い光は、手を伸ばす前から届かないと知ってしまう。それでもナミは空を仰ぎ、灯りの列を追って言った。


 「今日の光、きれいだね」


 強がりか本心かわからない声で、続ける。


 「羨ましいな。みんな、ちゃんと見送ってもらえて」


 ユウは首を振る。「君はまだ、見送られる順番じゃない」。そう言いたかった。口を開いたが、言葉は形にならなかった。形にする前に、ナミが小さく首を振って、話をそこで閉じた。閉じる力は残っている。それが今は救いだ。


 列が砂浜の端まで進むころ、トオルは町のほうへ抜けた。誰にも知らせず、海沿いの坂道を登る。上り坂は暗く、街灯の間隔が少し広い。車道の端にセンターの白いワゴンが停まっていた。後部座席のドアが開き、職員のひとりが降りる。


 「黒瀬くん」


 トオルは足を止める。呼び方が丁寧だと、用件が重いのはわかっている。


 「明日、運用テストをする。町の北側の海岸線だ。君の協力が必要だ、黒瀬くん」


 「俺は何も決められない」


 「決めないのも協力だ」


 言い方は淡々としている。責めてもいないし、宥めてもいない。トオルは肩で息をし、顎をかすかに上げた。遠くで波の音。足下の砂利の音。どちらの音も、自分のものではない気がした。


 「トオル!」


 背中からユウの声。振り向くと、ユウが走ってきて、数歩手前で減速した。息は上がっているのに、目は落ち着いている。


 「……一緒に帰ろう」


 短い言葉が、坂道の途中で体の重さを変える。トオルはうなずいた。うなずいたが、そのうなずきは重く、地面に落ちて割れた。拾い上げるには、明日の朝がいる。


 四人は別々の方向へ散り、夜が町に入ってきた。風は止まらない。止まらない風のほうが、思考は少しだけ均等になる。均等になったところで、眠りが来るとは限らない。


 その夜、ナミはユウの家に泊まった。玄関で靴を揃え、廊下の明かりを半分にして、部屋の隅に布団を二つ並べる。ナミは袖の結び目を解かず、髪だけをほどいて横になった。ユウは電気を落とし、カーテンを十分に閉めないでおいた。きっちり閉めると、夜が部屋と喧嘩をするからだ。街灯の薄い揺れが天井に映り、波のように広がる。


 「ねえ」


 ナミが小さく呼ぶ。声は昼より近い。


 「キス、したい」


 ユウは息を飲む。言葉を待った。ナミは続ける。


 「今日じゃないと嫌だって気持ちと、今日じゃないほうがいいって気持ちがある」


 正直だ。正直は刃になる。でも刃に触れる前に、扱い方を知っていれば、手は切れない。


 ユウは手を伸ばし、ナミの額に触れた。熱はない。冷たすぎもしない。


 「今日じゃないほうに賭けよう」


 「賭けに負けたら?」


 「俺が全部受け取る」


 暗闇の中で、ナミの目がわずかに光る。笑っている。笑ってから、目を閉じた。


 「ずるいね。ありがとう」


 並んだ布団の間に、手の幅くらいの隙間がある。隙間はあるのに、距離は遠くない。ナミの指先が、布団の縁からそっと出て、ユウの手の甲に触れる。触れたまま、動かない。動かさない強さで、夜をやり過ごす。


 窓の外、海のほうからまた低い振動が届いた。遠雷と潮騒の中間のような、胸骨に染み込む音。耳ではなく、骨で聞く種類の音。布団の中で小さな息が合って、またずれる。ずれても、戻る。戻れるあいだは、まだ負けていない。


 眠りは浅く、夢は光に焦がされた。

 ユウは、花火の夜のミナの横顔と、灯籠の列と、港の倉庫の黒い円盤を順番に見た。順番を間違えるたびに、誰かの名前がほつれ、糸が手の中でほどけた。ほどけた糸を結び直す夢は長い。長い夢の中で、ユウは何度も同じ結び目を作った。ほどけやすくて、でも見つけやすい結び方。朝になれば指が覚えているように、くり返し結ぶ。


 暗い部屋で、ナミが静かに言う。


 「もし私が消える日が来たら、明るい場所でお願い。誰かの声があるところで」


 「約束する」


 「約束って重い?」


 「重いよ。でも、重いほうが落ちない」


 言葉はそこで止まった。止まった言葉の上を、夜の時間が通り過ぎる。通り過ぎる音はしない。ただ、通り過ぎたあとに空気が少し軽くなる。軽くなった分だけ、まぶたは閉じる。閉じたまま、遠くの振動を数える。数えるうちに、夜は少し短くなっていく。


 目を閉じても、灯籠の列は消えなかった。

 並んだ光は、ちゃんと沖へ出ていった。出ていった光のあとへ、波がそっと入って、穴をならした。ならした跡は見えないが、そこを歩けば、足の裏が覚える。覚えた足裏で、朝になったら砂浜へ行こう。白い印を増やしに。戻る道を、もう一度確かめに。


 葬列は海へ降りた。

 でも、その夜のベッドの中で、もうひとつの葬列は、まだ誰の中にも立たなかった。立たせないために並べる手と手の幅が、そこにあった。幅は狭くて、頼りなくて、やさしかった。やさしさは、朝に強い。朝に強いものを、今夜は信じる。


 海の音が、少しだけ遠くなる。

 代わりに、鳥の声が近くなる。窓のカーテンが薄く色を変え、天井の揺れが消えていく。ユウは目を開けないまま、隣にいる人の気配が確かに「ここ」にあるのを数えた。数えられるうちは、大丈夫だ。大丈夫だと信じられるうちは、今日を始められる。


 小さな朝が来る。

 灯籠の残り香と、濡れたスカーフの塩と、夜に言えなかった言葉の重さを、ポケットに分けて入れる。重さは、今日は落ちない。落とさない。落ちないように、走る。走れるうちは、約束を先へ運べる。


 海は今日も、町の端で呼吸している。

 呼吸に似た音が、家々の屋根を越えて、道の角を曲がって、ふたりの布団の間の小さな隙間にも入り込む。ほんの少しひんやりした空気が、肌の上で形を変える。変わるたび、ユウは目を閉じたまま、うなずいた。


 起きたら、潮の道へ。

 印をひとつ増やして、帰る道を忘れないように。

 忘れないまま、また夜を迎えられるように。

 そしていつか、賭けの勝ち方を、ちゃんと笑って話せるように。

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