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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第15話 姉の部屋の空

 朝、窓が全開だった。

 カーテンは左右に引き裂かれたまま海の風を受け、薄い布が呼吸するみたいに何度も膨らんでは萎んだ。台所からコーヒーの匂いがして、マグカップの触れ合う小さな音が一度だけ鳴った。浅海ソラは洗面台で顔を濡らし、鏡の中の自分にピントが合うのを待った。目の下の影は昨日より濃い。目の奥の乾きは昨日より浅い。どちらも誤差みたいな差だ。誤差の積み重ねで、今日が立っている。


 「おはよう」


 居間のテーブルで母が笑った。髪をひとつに結び、前髪をピンで押さえている。彼女の背中の向こう、開きっぱなしの扉の先が姉の部屋だ。母はもう片づけない。代わりに、毎朝、窓を大きく開けて空気を入れ替えるようになった。


 「帰ってくる場所は、空気がきれいじゃないとね」


 「うん」


 ソラは返事を短くし、食パンを三口で平らげ、いつものようにカメラを肩に掛けた。ストラップが鎖骨に乗る位置に少し赤い跡ができている。重さの場所を体が覚えると、痛みは後回しにされる。後回しにされた痛みは、ある日急にまとめてやってくる。それが怖いから、写真にする。写真にすれば、痛みを四角の中で待たせておける。


 玄関で靴ひもを結び直したとき、母が言った。


 「今夜は窓、もう一枚開けておくね」


 「風、強いよ」


 「強い風のほうが、匂いが早く動く」


 姉の匂い。柔軟剤の甘い香りと、暗室の薬品の匂いと、潮の湿り気と、少し焼けたトーストの残り香。どれも、まだここにある。ソラは喉に溜まった返事を飲み込み、扉を引いた。


 ◇


 展示初日。廊下の壁一面に、写真が並んだ。

 ソラは前日のうちに許可を取り、用務員さんに脚立を借りて、位置を計算してテープを貼り、上下のラインを合わせて並べた。人は写っていない。写さなかった。写すと嘘が混ざる。残したいのは風景の側の呼吸で、人の側の言い訳じゃない。


 最初は生徒だけだった見物人が、次第に教師、保護者、通りがかりの町の人へと広がっていく。写真は廊下の両側に均等に、三十センチの間隔で。キャプションは地名と時刻だけ。説明文はない。体育館の床に落ちる窓枠の影。校門の前に積まれた落ち葉。砂浜に残る自転車のタイヤ跡。朝礼台の足元でひび割れるコンクリート。空になった水槽の、斜めの光。ガラス越しの空はいつもより透明で、透明なものほど重く見える。


 誰かが「きれい」と言い、誰かが「こわい」と言う。

 「きれい」と言う声は少し高く、「こわい」と言う声は少し低い。音程が違って、意味は近い。どちらも、ここがまだ「ここ」だと確かめようとする言葉の形だ。


 ユウとナミが二人で現れ、端から順に見ていく。二人は喋らない。喋らない人の視線は、たいていまっすぐだ。まっすぐな視線は、写真の端でいつも跳ね返る。跳ね返った視線が、またこちらに戻ってくる。ソラはその往復を数えるみたいに、シャッターの位置を指で確かめた。


 昼の少し前、違和感が来た。

 一本目の列の真ん中あたり。ある一枚の白が、ふっと浮いた。ソラの目は白に敏感だ。暗室で育てられた目は、白の具合で水の温度や薬品の濃さを推し量る。今の白は、水ではない。薬品でもない。紙の中の「像」が、紙より先に呼吸を始め、紙のほうの息が続かなくなるときに出る白。にじむ。輪郭が薄れる。印画紙そのものが、柔らかい光に溶けていく。


 最初は一枚、次に二枚。

 ざわめきが廊下を伝い、教師がテープで周囲を囲った。止められない炎症に包帯を巻くみたいな動きだ。ソラは一歩前に出て、消えかけの写真に向かってシャッターを切った。消えるものを、さらに消えない別の媒体に移す。間に合うのか。間に合うことが、本当に救いなのか。罪ではないのか。シャッター音は静かで、でも何度も重なると騒音みたいに耳の中で増幅する。


 「展示、良かったよ」


 隣に立ったサトルの声で、ソラは視線だけ動かした。作業着ではなく、今日はスーツに近い服装だ。職員証のカードが胸の前で光る。


 「あなたは、この展示を“物語”に利用するつもり?」


 ソラは振り向かずに言う。言葉の角を丸くする気はなかった。


 サトルは黙り、やがて短くうなずいた。


 「うん。たぶん。僕は君が嫌う“観測者”の側にいる。だけどそれは、怖いからだよ。何もできない自分に耐えられない」


 ソラは初めて彼の顔を見た。疲れ。眠れていない目。人間の目。数字に寄りかかるより前に、数字に追われている目だ。


「じゃあ、あなたの怖さも撮っておく」



 「光化して消えないものを?」


 「消えないもののほうが、嘘をつきやすいから」


 サトルは笑った。笑いは短く、音は出なかった。彼は消えかけの一枚を見つめ、それからポケットから小さな透明の封筒を取り出した。封筒の中には、薄い紙に印刷された注意事項と、白い手袋が一組。


 「これ、使って。写真を貼り直すとき、皮脂がつくと消えやすくなる」


 「ありがとう」


 感謝は短く、真ん中で切った。


 ソラは白手袋をはめ、溶け始めた一枚の端をそっと押さえた。紙は少し柔らかく、体温を吸ってから、わずかに落ち着いた。テープを四辺に当て直し、上からフィルムを重ねる。重ねたフィルムに自分の顔が薄く映る。映る顔が、その一瞬だけ、写真の中の人と同じ「誰でもない人」になる。誰でもない人の顔は、勇敢だ。勇敢なふりが上手い。


 ◇


 放課後、ソラは母を連れて展示を見て回った。

 「今日は風、冷たかったね」と母は言い、廊下の途中でコートの前を合わせた。ソラは歩く速度を少し落とし、母の肩の上で揺れるスカーフの端を指で直した。母の指は細く、指輪の跡が薄く残っている。姉が消えた日から、母はアクセサリーを全部外した。軽くなると寒くなるから、と言ってスカーフだけを首に巻いた。


 母は一枚の写真の前で立ち止まる。

 姉が好きだった海の角度と似ている。潮目の線が画面の三分の一の位置を斜めに横切り、雲が低く、空の白が重い。母は小さく息をのんで、「きれいだね」と言った。次の瞬間、軽く咳をして、ハンカチで口元を押さえる。ハンカチの繊維の間から、微かな光がこぼれた。ソラは息を止め、母の手首を見た。静脈は青い。皮膚は薄い。光は、ほんの一瞬だけだった。


 「大丈夫。今じゃない」


 母は笑い、ソラの腕に触れた。震えていない。震えていないとき、人は決まって相手を心配させまいとして嘘をつく。嘘は薄い。薄い嘘のほうが、長く持つ。ソラはうなずき、母の歩幅に合わせた。


 帰り際、ソラは受付の机から余ったパンフレットを数枚もらい、鞄に入れた。紙の匂いは安心する。紙はまだ、光に勝てる。勝てる時間がある。勝っているうちに、言葉を印刷しておく。


 ◇


 夜、ソラは姉の部屋に入った。

 扉は軽く、蝶番はきしむ音を出さない。机の上のカレンダーは、姉が消えた月からずっとめくられていない。細いペンで書かれた予定の中に「ソラ展のフレーム受け取り」とある。日付は次の週。次の週は永遠に来ない。永遠に来ない日付が、紙の上ではまだ未来にいる。未来にいる予定を、現在に連れ戻す方法は一つしかない。引き出しからフレームを出し、写真を収める。


 写真は、姉の撮った海だ。

 波の表面に風の骨が見える瞬間を、姉は好んで切り取った。ソラは写真の裏に薄い紙を添え、四隅を金具で押さえ、背板を戻す。中央の金具をカチリと回す音が、部屋中に広がった。音の余韻が壁に吸い込まれて、すぐ戻ってくる。その戻り方で、部屋の空気の重さがわかる。今夜の空気は、重い。重いのに、冷たくない。


 「戻ってくる場所は、空気がきれいじゃないとね」


 母の言葉が背中で再生される。ソラは窓を開け、カーテンを少しだけ揺らした。夜気が入る。遠くで波の音。数秒おきの車の音。住宅街の犬が一度だけ吠える声。暗室の薬品はもう匂わない。匂いが消えると、記憶は輪郭を太くする。不思議な順番だと思う。


 机の引き出しの奥に、姉の古いメモがあった。

 ——写真は、呼吸の代わりになる。

 ——息ができないときのやり方。

 書きつけは乱暴で、インクの色が途中から変わっている。途中でペンを替えたのだ。替えられるものと、替えられないもの。ソラはメモをしまい、枕元にフレームを立てかけた。明日、学校に持っていく。展示の最後に、姉の一枚を置く。そこに「こんにちは」と小さく書く。さよならの前に、先に言う挨拶。


 ◇


 翌朝、母は目を覚まさなかった。

 眠るみたいに、静かに、光の粉を枕元に少し残して。


 ソラは音を立てないように泣いた。泣く音が母を揺らしてしまいそうで。音のない泣き方は難しい。体が勝手に嗚咽しようとするのを、喉の奥で押しとどめる。押しとどめた涙は、鼻の奥と目の奥の交差点で熱に変わる。熱は、指先まで届く。


 窓を開け、姉の部屋で撮った写真を空にかざす。

 逆光で見えない。見えないのに、シャッターを切る。シャッターは忠実だ。忠実すぎて、残酷だ。残酷さは、時々救いに似ている。残したことの証明は、あとで自分を助ける。助ける相手が自分だと知っていても、撮る。撮らずにいると、明日の自分が怒る。


 葬儀のかわりに、ソラは母のスカーフを畳んで鞄にしまった。

 軽い。軽いのに、肩にかけると重さが出る。重さは、持ち主の分だけ増える。持ち主が増えた分だけ、途切れない。


 「行ってきます」


 誰もいない部屋に言い、扉を閉める。鍵はかけない。鍵をかけると、姉の部屋の風が止まるから。止まる音が聞こえる気がして、怖いから。


 ◇


 学校の昇降口で、ユウとナミが待っていた。

 ユウの目は赤く、ナミの袖の結び目は昨日と同じ位置にある。二人の顔を見るだけで、言葉の形が崩れていく。崩れる前に、ソラは形を先に言った。


 「展示、続ける。止めたら、私も止まる」


 ナミは抱きしめることをためらい、代わりにソラのカメラのストラップを握った。指は細く、力は強い。引きちぎらない程度の強さで、繋ぎ止める強さ。


 「重いね。手伝わせて」


 ソラは泣き笑いみたいな顔になり、吐息で笑った。


 「ありがとう。あなた、軽そうで、ちゃんと重い」


 ユウが一歩近づく。胸ポケットから写真が少し覗いている。昨日のナミの背中の一枚だ。彼は何も言わない。代わりに、鞄からメトロノームを出して見せた。針が小さく光る。


 「音、いる?」


 「いる。今日は、いる」


 ◇


 展示の前に、三人で体育館の裏手にまわり、折りたたみのテーブルを一台運び出した。最後の壁面に空きがある。そこにフレームを掛ける。姉の海。キャプションは「篠ヶ浜 午前五時二十二分」。その下に短い紙を貼る。ソラは母のスカーフを首に巻き直し、ペンを握った。手が震えるなら、震えたまま書く。震えた文字は嘘が少ない。


 ——こんにちは。


 たった五文字。

 紙は風で少し揺れ、テープの角がわずかに音を立てた。展示の列の一番端で、その紙は白く目立った。白は呼吸する。呼吸する白は、見ている人の呼吸と喧嘩しない。


 昼前、廊下の人だかりの中に、サトルがいた。彼は列の最後尾から少し離れて立ち、腕を組んで写真を見ていた。視線は早く動くが、戻る場所は一定だ。彼は姉の海の前で立ち止まり、額に指を当ててから、ソラのほうを見た。ソラはうなずいた。合図はそれだけで十分だ。


 「君のお母さん」


 サトルが小さく言う。

 ソラはうなずき、スカーフの端を親指で撫でた。


 「今じゃなかった。けど、今になった」


 言葉は短いほど重くなる。サトルは目を伏せ、すぐに上げた。


 「展示、続けて」


 「続ける。続ける間だけ、私も続く」


 サトルは一歩下がり、列の外に出た。彼の背中は薄く、でも折れなかった。折れない背中が誰かの盾になるとは限らない。ならないかもしれないけど、見える場所に立つことだけはできる。


 午後、廊下の写真のうち、朝に溶けかけた二枚は消えきった。

 壁にはテープの跡だけが四角く残り、そこだけ新しい白になった。人は新しい白に弱い。弱さはやさしさに隣り合う。ソラはその二つの跡の間に、母のスカーフの端を短く結び、ほどけないようにピンで留めた。布は風にほとんど揺れない。揺れない布は、写真よりも強く残る。残るものが増えるたび、失われたものの輪郭が少し柔らかくなる。


 「ソラ」


 ユウが呼んだ。

 廊下の突き当たりで、町内の掲示板のコピーが配られている。「停止デバイス、明朝搬入・試験運用」。場所は港の倉庫。時間は日の出前。ソラはその紙を受け取り、端の黒いインクの滲みを指でこすった。インクは指先に移らない。乾いている。乾いた文字は、強い。強いけれど、読まない選択をしにくい。


 「行く?」


 「行く」


 「撮る?」


 「撮る」


 「写すのは装置?」


 「ううん。写すのは、人」


 ユウはメトロノームをポケットに戻し、ナミの結び目を一度だけ確かめるように見た。ナミはうなずき、ソラのカメラのストラップをもう一度握った。握ってから、そっと離す。離した指先が、空のほうでまだ温かい。


 ◇


 夕方、ソラは家に戻った。

 玄関は静かで、台所も静かで、居間のテーブルの上にマグカップが伏せて置かれている。冷蔵庫の中に、昨夜のカレーが少し。温めようとして、やめる。空腹は写真にすると薄くなる。薄くなった空腹は、眠気に変わる。眠る前に、姉の部屋に入った。


 窓は開いている。

 カーテンは朝より静かだ。風が弱い。夜の匂いが濃い。スカーフを外し、枕元に置く。手元のカメラに残ったフィルムはあと八枚。八枚で足りる夜は、短い。足りない夜は、長い。足りなくても、撮る。


 机の上のフレームに、薄い埃が一枚。

 指で払う。埃は光に見える。光は埃に見える。見分けがつかないときは、両方写真にする。ソラはシャッターを切り、巻き上げレバーを親指で引いた。その動きは、泣くのと同じくらい体に染みこんでいる。


 「ただいま」


 部屋に言う。返事はない。返事がないとき、写真は返事になる。今日の分の「ただいま」と「おかえり」を両方入れて、シャッターを切る。カメラの重みは、首の骨をまっすぐにする。まっすぐにした骨は、朝まで折れない。


 ◇


 夜は長く、朝は早く来た。

 日の出前、港の空気は冷たく、金属の匂いがする。倉庫の前にはセンターの車両。黄色い回転灯。作業員の声。サトルの姿。新聞社の腕章。見物人。怒る人、震える人。祈る人。泣かない人。立っているだけの人。みんな、朝の色が似合わない顔をしていた。


 ソラは列の外側を歩き、隙間から覗き、シャッターを切った。

 装置は黒い円盤。冷たい風。微細な孔。箱に残る白い緩衝材。台車のゴムタイヤの跡。港のコンクリートの割れ目。そこに生えている小さな草。草の上に落ちる光の粉。粉は消える。消える前に撮る。消えたあとも撮る。両方を重ねて、どちらかを選ばない。


 背後で、ユウの足音。一定の拍。

 隣で、ナミの呼吸。薄いが、長い。トオルの姿もある。彼は列から抜け、倉庫の脇で壁に背を預けていた。彼の頬の痣は薄くなり、目の下の影は濃くなっている。彼はソラと目が合うと、顎で小さく合図をした。合図を返す。合図は言葉より早い。


 サトルが前に出て、拡声器を持った。

 「これから試験運用を開始します」

 説明は簡潔で、誠実だった。誠実な説明は、人を救うとは限らない。けれど、嘘よりは、ずっといい。ソラは彼の横顔を一枚撮った。怖さの混ざった横顔は、正直だ。


 装置のスイッチが入る。

 風が生まれる。空が少し低くなる。海面の白が細かく砕け、遠くの波の線が一本消える。ナミが一歩前に出そうになり、ユウが袖を掴んで止めた。ソラはその手を撮る。手を撮ると、心臓の音が少しだけ整う。整った音は、フィルムの上で長生きする。


 誰かが泣き、誰かが叫び、誰かが祈った。

祈りは録音しない。祈りは、祈った人の胸のほうに残るべきだ。ソラは風の音を撮った。風の音は写真に写らない。写らないものを撮る練習は、姉から教わった。写らないものの分だけ、白が増える。白が増えるほど、黒が深くなる。深くなった黒は、写真を支える。


 運用は十五分で終わった。

 終わりの合図は、誰かのため息より小さかった。回転灯が止まり、人の声が戻る。港の空は、夜明けの色に追いつけずにいる。追いつけない空は、今日の分だけ、低い。


 ソラはカメラの巻き上げを終え、空を見上げた。

 「姉の部屋の空」と同じ青は、ここにはなかった。ここにある青は、ここでしかない。違う青の下で、同じ言葉を言う。


 「こんにちは」


 小さく言って、シャッターを切る。

 今は朝だ。さよならは、まだ言わない。言わないまま、言える挨拶だけを増やす。挨拶は、世界を少しだけ正気に戻す。正気の分だけ、選択は遅くなる。遅くなった選択は、嘘を減らす。嘘が減った分だけ、朝は長くなる。長くなった朝の端をつかんで、ソラは鞄の中のスカーフに触れた。


 「帰ってくる場所は、空気がきれいじゃないとね」


 母の声が風と混ざって耳に戻る。

 ソラはうなずき、風上に顔を向けた。

 姉の部屋の空は、今も少し開いたままだ。窓から入った朝の空気が、写真の角で静かに折れ、部屋の四隅に溜まり、また外へ出ていく。出ていくたびに、部屋は少し軽くなる。軽くなったぶんだけ、帰ってくる余地が増える。帰ってこられる余地が増えたことを、今日の自分に写真で知らせる。


 ソラは首のストラップを握り、ユウとナミのほうを向いた。

 ユウはうなずき、ナミは結び目を軽く揺らした。三人は並んで歩く。歩幅は揃わない。揃わないぶんだけ、互いの輪郭が確かだ。輪郭が確かなまま、学校へ戻る。廊下の白い跡に、新しいフレームを一つ掛けるために。

 フレームの下に、また紙を貼る。

 書く文字は、今日も五文字で足りる。


 ——こんにちは。


 姉の部屋の空の青さを、廊下の白に少し分ける。

 分けたぶんだけ、ここは「ここ」に近づく。

 近づいた「ここ」で、ソラはもう一度、カメラを構えた。

 まだ、間に合う。

 間に合ううちは、撮る。

 撮ることが、呼吸の代わりになるうちは、きっと大丈夫だ。

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