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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第14話 間引かれる席

 朝のチャイムがひとつ遅れて鳴った。音はいつもより薄く、天井の板に吸われてすぐ消えた。教室の空気は乾いていて、黒板の粉の匂いとアルコール消毒の匂いが渦を作る。担任が出欠簿をめくる音がやけに大きい。紙の端がめくれ、名前がめくられるたび、目に見えない誰かの背中が一枚ずつはがれていく。

 「加瀬」

 「はい」

 「佐伯」

 「はい」

 「白石」

 一瞬の沈黙。白石ナミははっきりと「出席」と言った。声は高くないのに、遠くまで届く種類の声だ。班の列の何人かがそっと振り向く。左の袖の空虚に慣れてしまっている目もあれば、直視できずノートの線に視線を落とす目もある。担任の喉は既にかすれていた。名前を呼ぶ行為が、乾いた土地に水を撒くみたいに、力を必要とする季節だ。

 黒板の端では行事委員の男子が文化祭の看板の下書きを外して丸めていた。テープが板からはがれる音が、静かな教室で妙に生々しい。「中止」ではなく、「保留」。紙の隅に押された赤いスタンプは、指で触れなくても湿って見えた。「保留」という言葉はいつも時間を買おうとする。買えるだけ買って、それでも余る時間は少ない。

 午前中の授業は、前置きが長くなりがちだ。教師は板書を始める前に、教科書の版数や、宿題の負担や、今期の評価の公平性について丁寧に説明する。公平にしたい気持ちが、誰より教師自身の肩を重くしているのが見える。三時間目の途中、保健室から“光化”の報せが届いた。隣室から担任の名前を呼ぶ放送の声。戻ってきた担任は何も言わず、職員用のタブレットに短く入力した。そこでたぶん、ひとりの席が空席になった。消しゴムのかすみたいに、静かにはがれ落ちる。二列目の真ん中。後ろを振り返った誰かの目が止まり、誰かは眼鏡の位置を直した。

 後ろの掲示板に、写真部の告知が貼られた。昼の廊下展示。タイトルは『欠落する前に、こんにちは』。浅海ソラの字は意外なほど丸く、線に角がない。丸い字は攻撃性をどこかへ預けてしまう。けれど、その分だけ、読み手の胸に棘を残す。日付と時間の下に小さく「人は写っていません」とある。訂正ではなく、宣言。写っていないからこそ写るものがあると、ソラは知っている。

 昼休みの開始のチャイムから三分で、廊下は固まった観客で詰まった。誰も喋らない。掲示物を破らないように貼られた透明のテープが光を受けて細く線を返す。写真には人気のない教室、海と空の境目、折りたたまれた鉄棒、シャッターに描かれたクレヨンの太陽。どの画にも人の気配が濃く残っている。人のいない世界は、なぜか人の呼吸の気配に満ちる。誰の机か特定できない机の上の筆跡。体育館の片隅に置かれた、空のペットボトル二本。砂浜の端に忘れられたビーサンの片方。残骸という言葉は似合わない。まだここにいる、の途中が並んでいるだけだ。

 ユウは一枚の写真の端で、小さく映った自分の後ろ姿を見つけた。港の自販機の前で、背中が丸くなっている。肩甲骨の影。横にナミの髪の先だけが写り込み、真ん中に海の水平線。撮られた覚えがない。

 「いつ撮った」

 ソラに尋ねると、彼女は肩をすくめた。

 「覚えてない。カメラが勝手に、って言ったら笑う?」

 「笑えない」

 「だよね。最近、たまにある。撮った覚えのない角度。現像してからびっくりするやつ」

 「世界のほうから、俺たちを撮ってる」

 「そうかもしれない。目が慣れると、覗き返されているのがわかる。こっちがあんまり嘘をつかないほうが、向こうもおとなしい」

 ユウは写真から視線を外し、廊下の先を見た。教室の数だけ扉があり、扉の数だけ小さな窓がある。窓ガラスは薄く、一枚ごとに人の顔の輪郭を勝手に作る。ガラスの作る顔は、こちらを見ているふうで、何も見ていない。それでも、視線に気づいた瞬間だけは、こちらの背中に何かが触れる。

 午後は早く終わった。行事がなくなると学校は早く終わる。早く終わるのに、空は早く暗くなる。放課後、町の公民館の前には折り畳み机が並び、署名用紙が束になって置かれていた。停止案推進の紙は、失った人の数だけ勢いを持つ。怒りと恐怖がペン先に集まり、インクが濃く落ちる。名前を書く音は、紙ではなく自分の胸に傷をつける音に似ている。

 黒瀬トオルはその列の端に立ち、誰の背中も押さなかった。ただ見ていた。高校のジャージの上に薄いブルゾン。頬に残る青い痣は、鏡に殴られた影の続き。列の中の人たちの肩が少しずつ上がり下がりする。前に進もうとして止まり、止まろうとして進む。彼は目を細め、誰かが泣き出さないよう、泣き出せるよう、どちらにも手を出さずにいた。

 列の真ん中で、一本のペンが持ち主の指から滑り落ちた。拾おうとする手の前で、女性の輪郭が薄くなり、すぐ消えた。小さな吐息のあとに空気が何も持たず、ペンだけが床に転がる。紙の上に涙のようなインクのしみが広がり、それを見た周囲の誰かが叫び、誰かが祈った。トオルはしゃがみ、ペンを拾い上げ、濡れたインクの上にそっと手を置いた。

 「ごめん」

 誰にともなく、誰かひとりに向けて。言葉は床と紙の間の隙間に入っていった。そこは暖かくも冷たくもない。あとで思い出すとき、温度を勝手に足せる隙間。

 夕方、空に薄いヴェール雲がかかった。夕焼けの色は錆びた鉄の色に近くなり、海鳥たちは低い高度で同心円を描くように飛び続ける。空の真ん中に見えない穴があるみたいに、鳥たちの軌道は逸れず、戻らず、輪ばかり増やす。ユウはナミの手を取って、学校裏の倉庫へ向かった。文化祭の装飾を入れるはずだった倉庫だ。そこに停止デバイスが搬入される、とトオルが言った。

 扉は鍵がかかっていた。錆びた南京錠は固いが、窓ガラスの一枚に古いひびがあって、端が欠けている。手のひらで押すと、簡単に内側へ落ちた。小さな音。ユウが体をねじ込むと、室内の空気は思ったよりも冷たかった。銀色のケースが三つ、床に並べられている。封は切られていない。工場で出来上がったものが、一度も人に触れられないままここへ来たような清潔さ。嫌な清潔だ。

 ナミが近づくと、ケースの表面に淡い波紋が走った。反射ではなく、内部から出た何かが空気を撫でたような揺れ。ユウは思わずナミの腕を引いた。

 「触るな」

 「私が近づけば反応する。私のために作られた道具だから」

 「そんな言い方をするな」

 「道具って言葉、嫌い?」

 「嫌いだ」

 そのとき、背後で足音がして、倉庫の扉が開いた。サトルが立っていた。制服ではなく、作業着。胸のロゴが固い光を返す。顔色は悪くないが、良くもない。眠れていない種類の目。

 「見せるつもりはなかったけど、見つけちゃったなら仕方ない」

 彼はケースのひとつを開けた。蓋の内側に薄い発泡材。そこに嵌め込まれていたのは、黒い円盤。直径三十センチほど、中心に微細な孔が無数に穿たれている。孔の間に穴ではない細い線が走り、触らずとも冷たい風が漏れているのがわかる。耳の奥で、低い音が続く。

 「これは“間引き”じゃない。流れを別の場所に逃がす“迂回”だ。理論上はね」

 「別の場所ってどこだ」

 ユウは食ってかかった。声の角が自分でわかる。角は危ない。危ないのに尖らせる。

 サトルは目を伏せ、少ししてから上げた。

 「誰かの空の下」

 「ふざけるな」

 「ふざけてない。どこでもない場所に流す技術は、まだない。だから、どこかに流れる。それはたぶん、君の知らない誰かの空。君が今日見上げなかった空。……理屈は正しいけど、正しさが人を救う保障はない」

 ナミが円盤に手をかざす。風が強くなる。彼女の袖の結び目が揺れ、左の空虚に白い粉がこぼれ、すぐ消えた。

 「私が近づくと、呼吸するみたい」

 「近づくな」

 ユウはもう一度彼女を引いた。サトルは円盤をケースに戻し、蓋を閉めた。

 「明日の朝までには港の倉庫に移す。実験運用だ。止めるものと、止まらないものがある。止まらないものは、人の選択だ。これは、それを押すための道具に過ぎない。道具が選ぶんじゃない」

 「道具が選びやすくさせる」

 「それは否定できない」

 倉庫を出ると、夕焼けは鈍い錆色に変わっていた。風が海の匂いを強くする。鳥たちはまだ低い高度で輪を描いている。空が低くなったのか、鳥が高く飛べないのか。判断の材料は足りない。けれど、傾き始めた天秤の皿の色だけは分かる。こちら側は薄く、向こう側は濃い。

 帰り道、ナミは少し息が荒かった。歩幅は短く、でも乱れない。ユウは横に並び、速度を合わせる。道路脇の植込みの葉は埃をかぶり、信号の灯りは黄色で点滅を続けている。道路工事の立て看板の「ご迷惑をおかけします」が風に揺れ、謝罪の数だけ文字が薄くなっている。

 「明日、展示の前に洞窟へ行こう」

 ユウは言った。

 「印を増やす。迷わないように」

 「君は保守的だね」

 「臆病なだけだよ。君を失うのが、怖い」

 ナミは歩調を緩め、ユウの足音に自分の足音を重ねた。足音が揃うと、心の拍がほんの少し整う。整った拍は、恐怖の隙間にうまく入る。

 「私も、怖い」

 「何が」

「消えること。残ること。どっちも」


 「残ることが怖いのか」

 「残るってことは、誰かの痛みの隣に居続けるってことだから。私がここにいる限り、誰かの署名は増える。私がいなくなったら、別の場所で増える。私が消えなかったとしても、終わりはどこかへ行く。終わりが私のせいになるか、私の不在のせいになるかの違い」

 「違いは、大きい」

 「大きいね。だから怖い」

 信号の角で、トオルが待っていた。ジャージの上から薄いパーカー。フードをかぶらず、両手をポケットに入れている。彼の視線はユウの顔からナミの袖へ、袖から空へ、空から道路の白線へと移動し、そこで止まった。

 「お前ら、倉庫に行ったろ」

 「行った」

 「サトルに会ったろ」

 「会った」

 「殴ったか」

 「殴らない。走らせる」

 トオルは短く鼻を鳴らした。笑いと咳の中間の音。

 「署名、また増えてる。止められなかった。止めなかったのかもしれない。わからない。……でも、明日、俺はそっち側にいる。止めるなら、ちゃんと来い」

 「来る」

 「殴るのはやめとく」

 「知ってる」

 会話は短い。それで十分だ。十分な会話は、短くて済む。

 その夜、ユウは早めに家に戻った。玄関の前に小さな包みが置かれている。昨日と違う紙。違うひも。開けると、中には小さな懐中電灯と、予備の電池、そして短いメモ。

 ——暗い場所で恐怖は膨らむ。光で形にして、小さくすれば持ち運べる。

 筆跡はサトルではなかった。おそらくソラ。ユウは笑って、懐中電灯のスイッチを押した。丸い光が机の上の傷を拾い、乾いた鉛筆の芯が微かに光る。明るすぎない光は、夜に優しい。優しすぎない光は、恐怖に厳しい。

 机の上でメトロノームを弾く。一定の拍が部屋の隅々に広がり、壁紙の模様が生き物みたいに整列する。拍に呼吸を合わせる。走るときのために、歩くときのために。ナミの足音に合わせやすくするために。合わせられない日にも、戻る場所として。

 窓の外で低い振動がまた一度だけ鳴った。遠雷ではない。海の底が深呼吸を忘れて、体を起こす音。雲は薄い。星は少ない。光は上からも来るし、下からも来る。上下を言い当てる意味は今夜のところは薄い。ただ、来ている。来ているなら、こちらの足音も用意しなければならない。

 ベッドに横になると、ユウは目を開けたまま、朝のホームルームの出欠の声を思い出した。名前を呼ぶ行為は、存在の確認だ。呼ばれた人が返事をするたび、世界は少しだけ正気に戻る。返事のない席は、間引かれる。間引いた穴の縁に座るのは、たいてい近くの人たちだ。穴を覗くのは危ない。覗かないのも危ない。穴の縁に目印を置くことだけが、今できることだと、やっと思えた。

 翌朝、洞窟へ行く。印を増やす。廊下の展示を増やす。写真の前に立つ時間を増やす。走る距離を増やす。少しずつ。少しずつ、増やす。増やした小さなものが、やがて大きなものの形を変える。変えられないものの輪郭だけでも、柔らかくできる。柔らかくなった輪郭は、傷つけにくい。傷つけにくいものは、少し長くここにいられる。

 夜の終わりに近づくほど、メトロノームの音は静かになっていく。静かになるほど、聞こえる。ユウは目を閉じた。閉じたまま、明日の廊下の写真の並びを思い描く。最後の一枚の下に貼る小さな紙に、何を書くかを考える。長い言葉は要らない。短い言葉で十分だ。

 ——こんにちは。

 欠落する前に、何度でも。何度でも、先に言っておく。こんにちは。届くたび、世界は少しだけ正気に戻る。正気の分だけ、選択は遅くなる。遅くなった選択は、嘘を減らす。嘘が減った分だけ、朝は長くなる。長くなった朝の端に、今日の印を置く。置いた印の上を、明日の自分が踏む。踏んだ足音が、ナミの耳に届く。届いた音が、彼女の胸の中の海をすこし落ち着かせる。その想像に、ユウはようやく眠気を許した。

 朝のホームルームは、またやってくる。担任の声はまた少しかすれる。名前はまた呼ばれる。席は、間引かれる。それでも、呼ばれる限りは、返事ができる。返事の声が小さくても、大丈夫だ。小さな声のほうが、長く続く。長く続く声に合わせて、ユウは明日も走る。走りながら、印を増やす。印を増やしながら、写真を並べる。写真を並べながら、君の手を探す。探しながら、言う。

 こんにちは。今日はここにいる。ここにいて、君の名前を呼ぶ。呼ぶたび、世界はわずかに持ち直す。持ち直した世界の端で、鳥たちが輪をやめる。輪をやめた鳥たちは、長い直線を引く。その線の上に、今日の足跡を重ねる。重ならないぶんだけ、私たちは別々で、一緒だ。別々で一緒のまま、廊下の写真の前に立って、息を整える。息が整ったときにだけ、見えるものがある。見えたものの名を、ひとつずつ覚える。覚えた名を、忘れない。忘れないでいるうちは、席はまだ間引かれきっていない。まだ、足りない。まだ、間に合う。そう思えるだけの朝を、もう一度、買いにいく。時間を買うための言葉は、今日も「保留」だ。保留の赤いスタンプを、今は信じる。信じる間だけ、走る。走って、走って、君の席の隣に、空でない椅子を置く。椅子を置いたら、そこに座って、もう一度、言う。

 こんにちは。ここにいるよ。今日は、ここに。

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