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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第13話 潮の記憶、岩の心臓

 潮騒の洞窟は、昨日よりも静かだった。

 天井の亀裂から降る光は粉雪みたいに舞い、白石ナミの輪郭をやさしく縁取る。さっきまで続いていた地鳴りは、遠い腹痛みたいに少しずつ弱まり、岩肌の奥へ沈んでいった。春日ユウはナミの肩を抱き寄せ、右手首に触れて脈を確かめる。体温はある。鼓動も、まだ確かに。けれど左袖の先でちらちら砕ける光は、砂時計の砂みたいに止められない。触れようとすると逃げ、離れると追いかけてくる。

 洞窟の壁には、過去の満潮線のような白い輪染みが幾重にも残っている。水が届いた場所と、届かなくなった場所の境界線。剥き出しの歴史の皺。ナミはそれに指を這わせ、かすかに笑った。

 「ここ、好き。戻らないものの境界が、ちゃんと残ってるから」

 「戻らないもの、か」

 ユウは頷き、ミナの話をした。熱に浮かされた夜、彼女が「海の音が心臓みたい」と言って笑ったこと。額に貼った冷却シートの端が光を反射して、小さな波紋を作ったこと。言葉にすると、思い出は静かに形を取り直す。ユウはそっとナミの胸に額を寄せ、波の合間に潜む微かな鼓動を聞く。耳の奥で、一定ではないリズムが続く。速くも遅くもない。今の彼女の速さで、彼女の時間が進んでいる。

 「ここにも、海がある」

 「あるよ。君にも、ある」

 ナミは少し照れたように目を細め、天井の亀裂を見上げた。光の粉は揺れない。揺れないのに、見ているとこちらが揺さぶられる。

 外に出ると、町は部分的な停電に落ちていた。信号は黄色で点滅し、交差点の真ん中で車同士が譲り合って止まる。家々の窓の明かりはランタンの柔らかい色に変わり、裏路地では人の影が壁に大きく伸びている。防災無線は相変わらず不規則に鳴り、臨海医科学研究センターの無人巡回車が、ウミネコを驚かさない速度で海沿いを走っていた。スピーカーからは何も流れない。静寂を見張るだけの黒い箱。

 ユウはナミの右手を取った。指は冷えているが、握り返す力は確かだ。

 「このまま隠れていようか」

 思わず口に出た言葉を、ナミは首を横に振って押し戻す。

 「隠れるのは、私だけならいい。でも、君は隠れちゃ駄目。君が隠れたら、私が出ていく意味がなくなる」

 「出ていく、か」

 「いつか、ね。今はまだ、準備の途中」

 準備。準備という言葉は不思議だ。終わりを近づける道具にも、延ばすための楔にもなる。二人は堤防を歩き、学校へ向かう坂道で別れた。別れ際、ナミは手をほどき、結び目の固さを指先で確かめてから笑った。笑いは薄いのに、目だけはぶれない。

 翌朝。始業前の教室は、人が減った分だけ音がよく通った。椅子を引く音、ページをめくる音、遠くの庭で水撒きをする音。掲示板の行事予定の紙は、また“未定”の赤いスタンプで埋まっている。今日の予定と明日の予定が同じ形をして、同じ場所に並ぶ。違うのは赤の濃淡だけだ。

 席に着くと、浅海ソラが小声で言う。

 「展示、やろうと思う。廊下で、写真。『失われる前の今』を、残す」

 「手伝う」

 「ありがとう。人を写さない。写せないわけじゃないけど、写すと嘘が混ざる気がするから」

 「わかる」

 ソラはうなずき、レンズキャップを指で弾いた。硬い音が小さく跳ねて、机の下で途切れる。

 昼休み、屋上に黒瀬トオルが現れた。頬骨の下に、殴られたような青い痣がある。誰に、と尋ねる前に彼は言った。

 「署名、集まってる。『停止』に。俺は……やってない。やってないけど、集まってる」

 「誰に殴られた」

 「俺が殴った。鏡を」

 風が強く、フェンスの影が床で震えている。トオルはユウから目を逸らしたまま、ポケットから紙片を出した。白い紙の角は汗で柔らかくなっている。

 「センターの“停止デバイス”の試験運用。港の倉庫。明日、設置する。……俺は止められない。大人が決めた」

 「知らせてくれて、ありがとう」

 「礼はいらない。……気をつけろよ」

 トオルは踵を返し、ドアに手をかけてから振り向いた。

 「なあ、ユウ。もし俺が、明日お前の邪魔をしたら、殴れ」

「殴らない。走らせる」


 「なら、走る」

 笑わないやり取りは、今の自分たちに似合っていた。ソラがフェンス沿いに歩きながら、空の端をのぞき込む。

 「雲、低い。夕方、来るかも」

 放課後、ユウとナミは再び洞窟へ向かった。入口の岩に白いチョークで小さな印を付ける。ナミの提案だ。

 「もし私が道を忘れても、印が呼び戻してくれる」

 「呼び戻される方でいてくれ」

 「いるよ。いるための印だもん」

 ナミは印の上からそっと指でなぞり、粉を軽く払った。白は岩肌に残る。残る方がいい。残って困るものは、今は少ない。

 帰り際、ナミが「キス」と呟いた。ユウは顔を上げる。ナミはいたずらっぽく笑い、砂浜に膝をついて両手で砂をすくい上げた。砂の粒が光を拾って、指の間でこぼれる。

 「世界が滅ぶまでにキスをしよう。世界が滅ばなかったら、明日もしよう」

 答えたい。答えたいのに、喉が固まる。躊躇いはいつも、守りたいものの輪郭をなぞってしまう。輪郭をなぞる指が、そのまま境界線になってしまいそうで、ユウは言葉を飲み込んだ。ナミは、それでも笑った。

 「今日は練習。誓いの練習」

 「次は本番にする」

 「うん。次はね」

 日が落ちるのが早くなった。二人は町へ戻り、角で別れた。ユウが家に着くと、玄関に小さな包みが置かれていた。差出人は記されていない。紐をほどくと、中には古いメトロノームと、短いメモが一枚。

 ——時間を均す道具。君が走るときに使え。

 サトルの筆跡だ。ユウは机の上に置き、針を軽く弾いた。カチ、カチ、と均等に落ちる拍が、胸の奥の乱れたリズムを少しだけ整える。一定の音に合わせて呼吸を整えるのは、思っているより簡単だった。簡単なことを、今まで難しい場所に隠していただけかもしれない。

 ベッドに横になると、遠くで雷が鳴った。雲はないはずなのに。壁がわずかに震え、ガラスのコップが口の中で歌う。光は上からだけじゃなく、海の底からも近づいていた。

 ◇

 翌朝、展示の準備が始まった。廊下の壁に、ソラが撮った写真が並ぶ。人影のない町。シャッターの落書き、朝礼台、歪んだ堤防、空になった水槽、外されないままの運動会のポスター。見慣れた場所が、見慣れない顔で立っている。立っているのに、どこか座っているようにも見える。

 「キャプションは短く」

 ソラは言った。

 「説明しすぎると、見えるものが減るから」

 小さな紙片に、地名と時間だけが打たれる。文字の行間は広い。呼吸の代わりに、余白が置かれている。

 作品の最後に、ユウが昨夜受け取った写真を加えた。ナミの背中。海へ向けられた肩の線。濃い影。誰の顔も写っていないのに、誰かの名前を呼びたくなる。ユウは胸ポケットを押さえ、メトロノームの針を思い出す。一定の拍。今日の脚。本番の夜。

 午後、町の掲示板の前には人だかりができていた。停止デバイスの設置についての告知。港の倉庫、明日の日の出前。実験運用のため、一時的に沿岸を封鎖する。赤いスタンプの上に黒い文言が重なり、紙の角が風にめくれるたび、ざわめきが起きた。賛成と反対の声は混ざり合い、ひとつの言葉にならない。それでも、紙の前から離れない背中が何人もいた。

 放課後、ユウは一人で港へ向かった。倉庫の周りには仮設の柵が組まれ、センターの車両が出入りするたびに黄色い回転灯が回る。倉庫の奥、布で覆われた長方形の装置。角に貼られた注意書きの一部が風でめくれ、見えた文字は——「収束」「遮断」「閾値」。読みたくない言葉ほど、目に入る順番が早い。

 ユウは倉庫の影に身を寄せ、息を整えた。ポケットの中でメトロノームの針を軽く弾く。耳の奥で、カチ、カチ、と音が刻まれる。足音が近づいた。サトルだ。ジャケットの胸にセンターのロゴ、首から下げたカード。彼はユウに気づいても驚かなかった。

 「来ると思ってた」

 「止めに来た」

 「止められるなら、止めたい。だけど、今日は説明しに来た」

 サトルは倉庫の影に立ち、声を低くする。

 「これは試験運用だ。止まるものと、止まらないものがある。止まらないものは——人の選択だ。装置は、選択の代わりにはならない」

 「なら、やめればいい」

 「やめられない。行政と住民の合意がある。僕個人の意見だけでは、動かない」

 「じゃあ、俺はどうすればいい」

 「自分の意見を、誰かに渡す。渡す形は、声でも写真でも手でもいい。誰かが受け取ったら、それは道具になる。道具になったら、選択を押す力に変わる」

 サトルはそこで、ほんの少しだけ笑った。

 「それと、もう一つ。……メトロノーム、使ってくれた?」

 「使った。ありがとう」

 「君が走る音が、どこかで秩序になる。秩序があると、人は少しだけ冷静になる。冷静になった人は、嘘を見分ける可能性が上がる」

 「難しい話だ」

「簡単に言うと、走ってくれ、ってこと」


 サトルは手を振り、倉庫の中へ戻った。ユウはその背中を見送り、海の方へ視線を移した。沖には白い筋。潮の流れがいつもより速い。薄い雲の向こうで、光が迷っている。

 夜。ユウは家に戻り、机の上のメトロノームをもう一度弾いた。音は同じ。同じなのに、さっきより少し強く聞こえる。体が覚え始めたからだろう。一定の拍は、恐怖の隙間に入る。入った音は、すぐ抜けない。抜けない音は、眠りを呼ぶ。

 眠りの手前で、ユウは立ち上がった。窓を開けると、遠くで波の音。それは心臓の音に似ていて、違っていて、やっぱり近かった。ミナの言葉が再生される。海は、心臓みたい。心臓は、海みたい。似ているせいで、人はときどきどちらの声か間違える。間違えたままでも、生き延びる夜はある。

 ◇

 試験運用の前夜。港の倉庫の裏に、小さな影がいくつか動いた。人の気配。大人たちの影と、迷っている若い影と、迷っていない小さな影。署名の紙を掲示板から剥がして、ポケットに突っ込む子もいた。意味があるのかはわからない。意味がないことを、いまは少しやっておきたい夜だった。

 ユウは、洞窟へ向かう。潮の時間は引き、入口は開いている。白い印は、昨日よりも白かった。濡れた岩肌に粉が馴染んで、輪郭がくっきり残っている。印の前で立ち止まり、掌を当てる。ひんやりした感触が皮膚の裏まで届いた。

 「来たね」

 暗がりの奥から、ナミの声。彼女は印の先で待っていた。右手で胸を押さえ、壁の輪染みを背にして立つ。左袖の先は、今日も光の粉をこぼしている。粉は砂よりも軽く、水よりも早く消える。

 「大丈夫か」

 「うん。大丈夫。今は」

 「今は、って言うな」

 「言うよ。嘘つかないって、決めたから」

 ユウは彼女の前で膝をつき、額を寄せた。岩の冷たさと体温の温かさが、額の皮膚の薄さの中で並ぶ。二つの温度が一緒にいる場所は、そんなに多くない。

 「明日、倉庫に装置が来る」

 「知ってる。サトルが言ってた。私に聞きに来た。『君はどうしたい』って」

 「なんて答えた」

 「『まだ、決めない』って」

 「それでいい」

 「君は?」

 「決める。君のほうを選ぶ」

 ナミは目を伏せ、すぐに上げた。伏せている時間は短いのに、上げた目は遠くをよく見た。遠くを見た目で、近くを捕まえる。

 「誓い、練習じゃない方にしようか」

 「……今?」

 「今じゃなかったら、いつ?」

 問いはやさしかった。やさしい問いは、時々刃になる。切るためじゃなく、境界を確かめるための刃。ユウはうなずいた。メトロノームの針を心の中で弾く。カチ、カチ。音はなくても、拍はある。

 顔を寄せる。光の粉が頬に触れ、すぐ消える。消えた場所だけ、少し涼しい。唇が触れる——その瞬間、洞窟の外側で低い振動が走った。岩がかすかに鳴り、天井から砂が落ちる。二人は反射的に顔を離した。振動はすぐ止まり、代わりに静けさが増える。大きな音の後の静けさは、音そのものよりも深い。

 「先送り?」

 「……違う。確認。ここで、絶対に逃がしたくないから」

 「ずるいね」

 「ずるく生きる。君のために」

 ナミは笑って、涙を指で拭った。涙は透明で、光の粉は白い。白と透明は隣り合って、同じではない。違うもの同士が同じ場所にいても、喧嘩にならない夜がある。今日は、その種類の夜だ。

 ユウは立ち上がり、印の横にもう一つ印を付けた。二つの印の間に、小さな矢印。洞窟の奥へ向かって伸びる。道順を増やす。増やした道は、迷いを減らす。減らした迷いの分だけ、明日に持っていける荷物が増える。

 帰り際、ナミが言った。

 「君の走る音、好きだよ」

 「走ってるところ、見てないだろ」

 「音でわかる。均されてる。前より」

 ユウは笑った。メトロノームの針が胸の裏で跳ねる。自分の音が誰かの耳に届いて、誰かの均し方の役に立つなら、走る意味が一つ増える。

 外へ出ると、港の灯が一つ消え、一つ点いた。交代の時間。空の端に薄い光が広がる。夜明け前。ユウはナミの手を握り、町の方に歩き出した。足跡は並ぶが、完全には重ならない。重ならないぶんだけ、二人の輪郭がある。輪郭があるぶんだけ、明日が入る隙間が残る。

 「また印を付けに来よう」

 「うん。増やそう。目印を増やすの、好き」

 「目印が増えたら、帰る場所が増える」

 「帰る場所、増やしとこう。たくさん」

 ユウはうなずき、メトロノームの拍をもう一度弾いた。カチ、カチ。均された時間が、二人の歩幅に乗る。歩幅は合っていない。でも、進む方向は同じだ。合わない歩幅のまま同じ方向へ進むことが、並んで生きるってことだと、今なら言える。

 町に近づくほど、電気の匂いが薄れていく。停電は一部で解消し、別の場所で続いている。誰かの灯りが戻ると、誰かの灯りが消える。世界は均等じゃない。均等じゃないのに、均すための拍だけは誰にでも同じように落ちる。ユウはその拍を、今夜だけは信じた。

 家の角を曲がる前、ナミが立ち止まった。

 「ねえ、ユウ」

 「何」

 「もし明日、君が私を選んだことで誰かが君を責めても、私のせいにして」

 「嫌だ」

 「いいから。君を守る言い訳は、たくさん持っておいて」

 「言い訳じゃない。選択だ」

 ナミは目を細め、短く笑って頷いた。笑いはすぐ消えたが、頷きは残った。残る頷きは、約束の代わりになる。代わりで十分な夜もある。

 別れたあと、ユウは家に戻って机の前に座り、メトロノームを弾いた。針は真ん中を挟んで左右に同じ距離を往復する。どちらにも行き過ぎない。戻り過ぎない。止まらない。止めない。カチ、カチ。一定の拍が、明け方の空気に細く混ざる。窓の外で、遠い雷がまた一度だけ鳴った。雲は薄い。光は、上からだけじゃない。海の底からも、ちゃんと近づいている。

 終わりの前触れは、静かに、確実に近づいていた。

 けれど同じように、二人の目印も静かに、確実に増えていった。白い印。小さな矢印。写真の列。メトロノームの拍。殴らなかった拳。受け取った盾。並んだ足跡。——どれも重さはない。けれど、集めれば、岩の心臓みたいに硬くなる。潮が何度満ち引きしても消えない輪染みのように、そこに残る。残ったものは、明日の選択を押す力になる。押す力があるかぎり、まだ走れる。走れるかぎり、まだ間に合う。間に合わなかったものに触れる指先だけでも、あたたかくしておける。そう信じられる夜だった。

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