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世界が滅ぶまでにキスをしよう  作者: 妙原奇天


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第11話 ズレの告白

 朝の港は、青よりも白に近かった。

 薄い霧が海面に低く張りつき、波の縁をぼかしている。桟橋の柱には昨夜の潮がまだ残っていて、指で触れれば塩の粉が少し剥がれ落ちた。カモメの鳴き声はどれも遠く、近くにいるはずの鳥の気配でさえ、ここだけすり減って聞こえる。


 白石ナミは、風を避けるように桟橋の柱に背を預けて立っていた。片方の袖を朝の空気が揺らす。結び目はほどけない。ほどけないように、今日は三度も結び直してきた。欠けた部分が軽いせいで、風の方が勝る。負けるたび、結び目だけが彼女の側に戻ってくる。


 足音が近づいた。春日ユウだ。いつも通りのスニーカーの音、いつも通りではない歩幅。視線は迷っていない。手には、薄いカバーをかけたアルバム。


 「おはよう」


 「おはよう」


 挨拶は短かった。短い言葉は、長く残る。


 ユウはアルバムを開き、端のページを静かに差し出した。花火のページ。群衆の端。小さな横顔。ナミに似ている。似ている、では足りない。ぴたりと合う。その合い方が、今朝の寒さに似ている。


 「この日、君はそこにいた?」


 ナミはページを覗き込み、長く黙った。霧が少しだけ薄くなる。遠くの赤い浮標が一度だけ揺れて、また止まる。やがて、彼女はうなずいた。


 「いたよ。だけど、その時の私は、まだ“ナミ”じゃなかった」


 朝の港は、言葉を吸い取るのが上手かった。ナミは柱から背を離し、桟橋の縁に腰を下ろした。ユウも隣に座る。波が板を打つ音が、ふたりの膝に細かく伝わってくる。


 「私の“始まり”は、人の出生届けの日付じゃない。研究データのタイムスタンプ。ファイル名の横に並ぶ、数字の列。そこに、私のはじめてがある。……でもそれも一個じゃない。幾度も書き換えられた。複数の“バージョン”がある。そう説明された」


 ユウは口をはさまなかった。代わりに、彼女の声の揺れを数えた。揺れは大きくない。揺れが小さいとき人はたいてい、深く揺れている。


 「光の病が報道される前から、私はいくつかの町に“現れた”らしい。記録上も、証言でも。自分の記憶は、ところどころ透けてる。気がついたら別の町にいて、気がついたら、別の時間の方に“にじんで”いた。……輪郭がふとした拍子に薄くなるの。引き出しにしまい忘れた白いシャツみたいに、別の日付の中へ混ざっていく」


 風が、桟橋の下を通る。ユウはアルバムを閉じ、手のひらで表紙を押さえた。押さえる動きは、何かを否定するためのものではない。今ここにある頁を、ここに留めるためだけの重さ。


 「センターでは言われた。私、世界の『疲れ』を引き受ける器だって。流入と流出の間で調整する“弁”だって。……でも、本当は違うのかもしれない」


 ナミは、少しだけ笑って、自分を見下ろした。笑い方はうまくいかない。うまくいかない顔は、それでも正直だ。


 「私は、誰かの願いが形になっただけ。そう思うときがある。誰かが“世界が滅ぶまでにキスをしたい”って願ったから、私はここにいる。……そう思ってる」


 ユウは堪えられなかった。言葉より先に、腕が動いた。抱きしめる。抱きしめたはずの腕の中で、ナミの体温はちゃんとあった。けれど左腕の部分だけ、空の側へすり抜ける。空の方が広い。広い方へ重さは落ちる。


 「願いが形になったなら、その願いは俺のものだ。俺が叶える」


 ナミは目を閉じた。閉じるまでのわずかな時間、まつげが光って見えた。


 「叶えたら、私は終わっちゃうかもよ」


 「それでも」


 答えは短い。短い方が、重い。霧が少しほどけ、港の灯がひとつ消えた。朝の交代だ。海鳥が低く飛び、桟橋の先で二度だけ旋回した。


 ふたりの会話を、遠くから見つめる影があった。桟橋の柱の影の向こう、黒瀬トオル。拳を握り、額を木の節に押し当てる。彼は目を閉じていた。見ないことで、見ているものの形を探していた。


 「俺の願いは、どこに行けば形になるんだ」


 誰に向けてもいない声だった。潮風がすぐ奪っていったが、奪われた後に、彼の胸だけに残る類の声だ。


 ナミがユウの腕からそっと離れる。袖の結び目を指で確かめ、海に向き直る。ユウはポケットにアルバムを戻し、空気を吸い直した。


 「君の“ズレ”が、君を遠くに連れていくなら、俺は走って追いつく。追いつけないなら、立って待つ」


 「待つのは、難しいよ」


 「知ってる。だから約束にする」


 ナミは首をかしげ、笑った。笑えるうちは、大丈夫。笑えないときも、大丈夫にする。それが約束の使い方だと、今朝のユウはうまく言えないまま理解していた。


 ◇


 午後、学校に「臨時集会」の連絡が回った。体育館に集合。町の「対策会議」との合同で住民意見を募るという。チャイムの代わりに流れた放送の声は、いつもより一オクターブ低い。大きな行事を読むとき、人の声は低くなる。


 体育館は、白い。白い天井、白い壁、白い投光器の光。壇上のスクリーンに投影されたスライドだけが、色を持っていた。センターの職員が数名、壇上に並ぶ。その中に、サトルの姿。学ランではない。胸元に小さくセンターのロゴ。ユウは、ベンチに座るナミの肩越しに彼を見た。ソラは通路側に座り、膝に手帳を広げている。トオルは後方の入口近く、立ったままだ。体育教官が通路に目を配る。保護者席には、見慣れた背中がいくつも並ぶ。


 マイクを握った校長が言う。「我々は、この町を守らねばならない」


 スクリーンには、比較表。収束案と停止案。左には「地域光化率推定曲線」、右には「外部影響波及シミュレーション」。数字は無感情だ。無感情の方が、よく刺さる。停止なら町のグラフは短期的に低下する可能性がある——しかし別の町のグラフには、跳ね上がる赤線。善意と利害が同じ色で描かれている。見分けがつかない。


 「挙手による意見の時間に移ります。できるだけ具体的に——」


 校長が言い終える前に、ソラが手を挙げた。躊躇いはなかった。彼女は立ち上がり、通路に出る。マイクが渡される。体育館の空気が、少し詰まる。


 「浅海ソラです。写真部です」


 第一声で笑いが起きるかと思ったが、起きなかった。誰も笑わない方が、今日の言葉は届く。


 「私たちは、数字で他人の死を選べない。選ぶなら、自分の痛みを引き受ける形じゃなきゃ嫌だ。……これは綺麗事かもしれない。でも、綺麗事を最初に捨てた日から、写真は嘘をつく」


 ざわめきが起きた。保護者席の何人かが腕を組み、前列の教師が前のめりになる。壇上のサトルは目を伏せ、それからゆっくりと開いた。彼は何も言わない。言葉を重ねない方がいい場面を、きちんと知っている顔だった。


 後方で、トオルが立ち上がった。彼にマイクは渡らない。それでも、声は出る。


 「俺は……俺は、誰も選びたくない」


 逃げているように聞こえる言葉だった。だがその声は、正直だった。正直は、いつも強くはない。だからこそ、今のような場所でだけ、真ん中に届く。


 壇上のサトルがマイクを受け取った。彼は会場を見渡し、目を閉じ、それから一言。


 「選ばないことは、世界が選ぶことに委ねるという意味になります」


 静かな敵意が、体育館の床下からゆっくりと上がってくるのがわかった。「じゃあどうしろというのだ」という言葉が、誰の喉にも浮かんで、消えた。選択はいつも、誰かの肯定をひとつ壊す。


 議論は続き、時間は過ぎ、結論は翌日に持ち越された。投票箱はまだ用意されない。今日のところは、各家庭の回覧で署名の意思を確かめるという。会議の終わりを告げるチャイムはなく、体育館の照明が一段階落ち、放送のスイッチが切れる音だけが響いた。


 ◇


 夜。ユウたちは学校の非常階段に座り込んで、黙って風に当たっていた。階段の金属はすぐ冷える。冷えた鉄は、背中をまっすぐにする。遠くのグラウンドでは、遅くまで残っていた誰かが片付けをしている音がした。金属のぶつかる音。ボールが箱に落ちる鈍い音。電気が消えていく順番は、いつも同じだ。


 ソラは上段で膝を抱え、顎をのせる。トオルは一段下、靴の先を揃え、紐を指で撫でる。ユウは一番下、踊り場に背を預けて空を見た。星は少ない。雲が薄く、港の灯は半分。ナミはユウの隣、柵に背中を預け、風に髪を預けた。欠けた袖の結び目は、相変わらずきれいだ。


 「……ねえ」


 ナミが小さく言う。誰もすぐには返事をしない。返事を遅らせるのは、敬意だ。


 「世界が滅ぶまでにキスをしよう。そう約束できたら、私は……きっと怖くない」


 言葉は、思っていたよりも軽くなかった。軽い約束は風に飛ぶ。彼女の声は、階段の鉄に沿って留まった。


 ユウは頷いた。頷いたうえで、心のどこかで、あと少し——ほんの少しだけ先送りしたいと思ってしまった。終わらせないために。終わらせない言い訳は、だいたい愛の形をしている。愛の影は、やさしい顔をして、どこかで誰かの足を止める。


 「明日、港で」


 ユウがやっと言うと、ナミは「うん」と頷いた。彼女の頷きは、薄い霧のように軽いのに、落ちない。落ちないものは、残る。残るなら、まだ間に合う。


 ソラが立ち上がり、ポケットから小さな紙を取り出した。センターで配られた注意事項の裏面。そこに、彼女はさらさらと二本の矢印を描いた。片方には「見る」、片方には「見られる」と書く。


 「観測は、ほんとは公平じゃない。……でも、嘘を足さなければ、救いに近づく」


 トオルが鼻を鳴らした。笑ったのか、泣いたのか、自分でもわからない音。


「俺も、明日行く」



 「来なくていい」


 ユウが言うと、トオルは肩をすくめた。


 「行くって言ってんだよ。殴りに」


 「じゃあ、走る準備しとけ」


 「してる」


 ソラが片手を上げた。「私も行く。撮らない日でも、見えるものがある」


 四人は階段に立ち、校舎の影を降りた。夜風は冷たいが、冷たさの輪郭がはっきりしているうちは、まだ大丈夫だ。輪郭がぼけたとき、人は簡単に遠くへ連れていかれる。今夜の町は、輪郭を保っている。


 ◇


 帰り道、ユウはアルバムのページをもう一度指でなぞった。花火の端の横顔。そこに写る“ズレ”は、恐怖を連れてきた。けれど、同時に救いの可能性でもあった。“ズレる”ものは、同じ場所に長くいられる。正確な歯車の中では、誰も長く留まれない。ズレは、隙間だ。隙間は、呼吸のために使える。


 玄関の鍵を回すと、母がキッチンで立っていた。ユウが「ただいま」と言うと、母は「おかえり」と返し、それ以上は何も訊かなかった。味噌汁の香りが薄く、吸い口から湯気がまっすぐ上がる。「明日、朝早い」とだけ言って、ユウは部屋に戻った。


 窓を開ける。遠い港の灯。手すりに白い粉が少し残っている。指で集めて、掌に握る。握れば、今夜の中に残るものが増える。掌を開く。白は細く割れ、線になって机に落ちる。ペンダントをその上に重ね、灯りを落とす。雫の内側で小さく光が揺れた。光は、まだこちらの側に留まっている。


 床に座り、壁にもたれる。ナミの「まだ“ナミ”じゃなかった」という言葉が、頭の中で輪に戻る。輪をほどき、結び直す。結び直すたび、少し違う輪になる。人間は、同じ約束を何度でも作り直す。作り直した約束だけが、明日に持っていける。


 携帯が震えた。メッセージは短い。


 『明日、七時。いつものところ』


 『行く』


 送って、画面を伏せる。眠りはすぐには来ない。来なくても、目を閉じる。目を閉じて、港の白を思い出す。白は怖い。怖いけれど、そこに色を足せる。足すのが約束。引くのが別れ。今夜は、足す側に立って眠る。


 ◇


 朝の前、一度だけ夢を見た。花火の夜、群衆の端。ナミではない“誰か”の横顔。横顔がこちらを見て、口だけが「まだ」と言う。聞こえない声は、目覚めた後によく残る。ユウは体を起こし、靴ひもを結び直した。走る。走った距離と、今から向かう距離は違う。違っていて、それでいい。


 港へ向かう道の途中、掲示板の前に人だかりがあった。署名の紙が、新しい一枚に替えられている。名前の上の欄に、印刷された文言。賛成か反対か。丸をつける欄に、濃い鉛筆の跡。誰かの手の震えが、そのまま色の濃淡になって残っている。


 紙の前に立っていた浅海ソラが、ユウに気づいて小さく手を上げた。彼女はペンを持っていない。持たないことを、彼女は選んだ。観測者でいることは、時々ひどく不親切だ。けれど、彼女の不親切が、今のユウにはやさしかった。


 「行く?」


 「行く」


 「撮らない」


 「見てて」


 ソラがうなずく。彼女の視線は、港の方へ伸びる。視線は矢印だ。見ている、と伝えるための。


 角を曲がると、港の白がまた広がった。桟橋の先に、ナミがいる。袖の結び目は、今日もきれいだ。結び目がほどけないうちは、まだ間に合う。間に合ううちは、約束は未来形で言える。


 「おはよう」


 「おはよう」


 ナミは、風の向きを確かめるみたいに頬を少し傾け、それからユウの方を見た。焦点は昨日より遠い。遠いのに、ここにいる。


 「約束、しよう」


 ユウは言った。声は震えなかった。震えない声は、簡単には折れない。


 「世界が滅ぶまでに、キスをしよう」


 「うん」


 「——だから、今日じゃない」


 ナミは、少しだけ目を見開いた。それから、ゆっくりとまぶたを閉じ、開く。


 「先送り?」


 「終わらせないために。……卑怯だってわかってる」


 ナミは笑った。笑いは薄かった。薄い笑いは、傷の上に貼る絆創膏に似ている。剥がすときの痛みも、一緒に約束している種類の笑いだ。


 「卑怯じゃないよ。生きたいだけ」


 ユウは、息を吐いた。吐いた息の分だけ、胸の奥に空きができた。空きは、次の言葉の居場所になる。


 「走ろう。今日も、明日も。……間に合うものの方へ」


 「間に合わないものは?」


 「形を残す。誰かが、見てる」


 桟橋の後ろ、柱の影が少し動いた。黒瀬トオルだ。彼は出てこない。出てこないことも、いることだ。遠くにソラの影。レンズは上がらない。手だけがポケットの中で、矢印を握る。見ている、と伝えるための。


 港の霧が、少しだけ薄くなった。海鳥の声が近くなり、波の縁がくっきりする。世界は続くふりをする。ふりの下で、誰かが選ぶ。選んだものは、いつか必ず名を呼ばれる。呼ばれた名に、時間が追いつく。追いつくまでの時間を、今日の足で稼ぐ。


 「また明日」


 ナミが言う。


 「また明日」


 ユウが返す。


 約束は、過去形にも未来形にもならない。今の形のまま、胸の中に置かれる。重くない。軽すぎもしない。走れる重さだ。走りながら持っていける重さだ。


 霧の白の向こう、港の灯がひとつ点いた。点いた灯に、朝が追いつく。朝に追いつかれる前に、ふたりは歩き出した。桟橋の板が低く鳴り、背中の影が並んだ。並んだ影は、少しだけズレていた。ズレのぶんだけ、ふたりは別々に立っている。別々に立ちながら、同じ方向に進む。進むたび、ズレは形を変える。形を変えたズレは、やがてふたりの輪郭の一部になる。


 その輪郭を、誰かが見ている。見られていることを、ふたりは少しずつ学んでいる。見られている世界は、嘘に敏感だ。だから、今日の言葉に嘘はない。嘘のない言葉は、怖い。でも、怖いものは、手放すより先に、抱えていく。終わらせないために。終わらせるとき、手が空くように。


 朝の港は、青に戻りつつあった。白はまだ端に残り、波頭に細い線を引く。線は消える。消えたあとに、足跡が残る。足跡は、次の約束の場所になる。ふたりはそこへ向かう。走らなくても、歩いてでも。歩けなくても、立ってでも。立てなくなったら、座ってでも。座ったまま、互いの名を呼ぶ。呼ぶ声は、霧よりも長く残る。


 ズレの告白は終わった。終わったというより、始まった。告白はいつも、始まりの方に近い。終わりは、たぶん別の言葉が選ぶ。その日まで、今日の言葉で生きる。今日の言葉で、明日を迎えに行く。いいかげんで、誠実に。怖がりながら、まっすぐに。

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