第六十六話 そして、彼女は最悪を選択する
ロココ・アリカは肩で息をしていた。あの怪物たち──ソロモンとアンドラス──の脇を気付かれずに通り抜けるのには、かなりの神経を必要とした。身体を纏っていたバザドゥーズの『暴食』の光は、冥界に入る時に、ソロモンの結界を喰い尽くして消滅した。
今、目の前には扉があった。決して開くことはないのだろう。固く閉ざされたそれは、ところどころ錆び付いていて、永い間その機能を止めていたことが伺えた。
「冥界の主よ!」
ロココ・アリカは叫んだ。実際に『冥界の主』とやらに会ったことはない。ルーヴァンから存在だけ聞いていた。
だけれど、今はそんなあやふやな存在に頼るしかないのだ。いるのかいないのかすらわからない存在に。
「お願い、教えてください! わたしは冥界でなにが起こっているか、知りたいだけなのです!」
冥界で何が起こっているか把握し、そして、万事を解決すること。それがルーヴァンから課せられた仕事だった。だけれど、それは無理だ。アンドラスとソロモン・ディビルズが邪魔をする。一度情報を持ち帰り、仲間たちを連れて、もう一度来よう。ロココ・アリカはそれが最善だと思った。
「マスターハデス!」
懇願ですら生温い、絶叫のような誓願だった。穴の外にバザドゥーズを残していた。彼のためにも──いや、バザドゥーズはもう既に殺されていてもおかしくない。扉をドンドンと叩きながら、ロココ・アリカは頼み続けるしかない。目元には涙が浮かんでいた。
そして、足音が聞こえた。かつ、かつ、と。
「……無駄だ」
女の声が聞こえた。ロココ・アリカはゆっくりと振り向いた。見たくなかった。だけれど、それを目にして、ロココ・アリカの瞳から光が消えた。
アンドラス。そしてソロモン・ディビルズ。彼らは連れ立って、悠々と歩いていた。ここまで侵入されたことなど、全く痛痒たりえない。そう言っているようだった。
「冥界の主──ブラズは既に私の『喚起の指輪』の支配下にある。いや、もう少しで手中におさまる、と言った方が正しいか」
アンドラスは言った。
絶望が諸手を挙げた。希望が音を立てて崩れ落ちた。そんな気がした。
果たして、ロココ・アリカは嘆願を続けた。
「マスターハデスよ!」
はあ、とアンドラスはため息をついた。ソロモンは何も言わなかった。ただ興味深そうに、ロココ・アリカを見ていた。
「無駄だと……」
「助けてくれる必要はありません! わたしは任務を遂行しなければ帰れないのです! 教えてくれるだけで、あとは自分で助かります! ひとまずの成果が欲しいのです!」
アンドラスの言葉は、ロココ・アリカには届かなかった。
大した考えがあっての行動ではなかった。ただ、ロココ・アリカには、それ以外に取れる行動がなかっただけだった。
状況を整理しよう。ロココ・アリカの行動とともに。
敵はアンドラス。その支配下にあるのが、ソロモン・ディビルズと、ブラズ。この三人を相手に切り抜けなければならないが、ソロモン・ディビルズが操られているのは先の戦闘で確定している。
ならば、ブラズはどうか? 本当に操られているのだろうか? それを自分の目で確認したか?
ロココ・アリカは縋るしかなかった。『どうしてかブラズが操られていない』という可能性に。本当に二人とも操られていて、三対一の構図になっているのなら、もとより勝ち目はないのだから。
「マスターハデス! あなたが操られていれば、わたしは八方塞がりです! でももし、あなたが策略を練って、この者たちの魔の手を掻い潜っているのなら、わたしは──」
「……くどいぞ」
アンドラスはゆっくりとロココ・アリカに近付く。焦る必要はなかった。文字通りの袋のネズミを、あとは刈り取るだけだ。
緩慢な、悠然とした彼女の歩みは、冥界の扉が開くまで続いた。
「!?」
アンドラスは驚愕に動けなかった。ギィィィ、と扉が開き始める。すぐに止まるが、本当に少しだけ、扉は隙間を作った。その隙間から子供の腕が伸びた。腕はロココ・アリカの身体を軽々と扉の内側へと引っ張った。そして、バタンッ、と扉は閉まった。
「貴様、何をやっているッ!!??」
アンドラスの指輪が紫に光った。綺麗な白色の薔薇を模した彫刻が、本来は耳につけるための針を使って、無理やりに指に刺し留められている。針を伝ってアンドラスの血液が指輪に吸われ、紫の光はより一層ドス黒く、光りだす。
「答えろッ!!」
先ほどまでは感じられたブラズとの魔力回路が感じられない。つい先ほどまでは、アンドラスはブラズを操ることができていた。『喚起の指輪』は、完璧にブラズを支配下に置いていた。
その感覚が、偽装されていたことをアンドラスは悟った。仮にも『ソロモンの悪魔』であるアンドラスすら完璧に欺くこの手腕。
まるで、『冥界では俺が法だ』とでも言っているかのような、完璧な翻弄。
「ちぃっ……!」
知らず、アンドラスは舌打ちをしていた。このままでは指令を果たすことができないかもしれない──
──と、ソロモン・ディビルズが唐突に言った。
「ん? てことは俺、なんでブラズに胸を貫かれたの?」
「知らん。操られているカモフラージュか、私怨だろ」
「し、私怨……はあ……」
アンドラスは歯軋りをしながら思案する。その隣で、ソロモンは膝をついて落胆していた。
冥界の扉は、やはり固く閉ざされていた。もう二度と開くことはないのだろうとアンドラスは思った。
○
「焦る必要はないんだよね、アンドラス」
どこかで誰かが言った。
○
暗く冷たい、じめじめとした空間。誰も進んで過ごそうとは思わない陰気な空間に、二人の男女が出現した。
「ぷはぁ!」
ロココ・アリカは息を吐いた。扉を潜る際、うまく呼吸をすることができなかった。空気を求めて喘ぐ。そして、そこが冥界だろうということを悟って、慌てて口元をおさえた。
「心配するな」ブラズが言った。「空気が淀んでいたりはせん。安心して息を整えろ」
「は、はあ……」ロココ・アリカは深呼吸をした。そして、思い出したかのようにブラズに詰め寄った。
「わ、わたし、早く戻らないと! 外に人を置いてきているんです!」
「……話が違う。お前は『冥界で何が起こっているのか知りたい』と言った。人を助けろとは一言も聞いていない」
「そのために! 助けるために、話を聞いて、そして、王国へ救援を呼びに帰るのですわ!」
「……さっさと教えろということか。へぇ?」
ブラズは吐き捨てるように嘲笑した。ロココ・アリカは怯んだ。だが、次の瞬間、額を地に擦り付けた。俗に言う土下座だ。
「……お願いします!」
果たしてブラズは応えた。もとより助けるためにロココ・アリカを冥界に引き入れたのだ。そして、『態度』だとかいう些事にいちいち腹を立てるほど、ブラズの心は狭くなかった。
「頭を上げろ」ブラズは言った。「一度しか言わん。よく聞けよ」
続けて、
「何も起きていない」
「……は?」ロココ・アリカは困惑した。「いや、え、でも冥界の扉が開いたら閉まったり……」
「二度は言わん」冥界の主は補足した。「……というより、冥界が襲われるのなんか日常茶飯事なんだ。ここに眠る莫大な力を操りたいと思う輩は少なくない。既に死んだ愛する人に会いたいからといって、冥界を襲撃するやつとかも、いる」
ブラズは続けた。
「扉の開閉──冥界の制御が不安定になっているのは、謝ろう。俺の不手際だ。今回の敵がそこそこやり手なんだ」
ロココ・アリカは尋ねた。
「……それで、その『敵』というのは──」
「ああ。今、俺が対処にあぐねているやつの名前は──」
「──『序列四位』サミジーナ、だよねっ!」
その声は、ブラズのものではなかった。ロココ・アリカのものでもなかった。第三者の声が、あっけらかんに、陽気に、二人の間に生まれた。
ぴょこっ、と。二人の間に生まれたのだ。時空が裂けて、その狭間から飛び出してきた彼は、子供だった。
「いやー、嬉しいなー!」
子供はきゃっきゃとはしゃぐ。ロココ・アリカは動けなかった。それはブラズもまた然りだった。陽気な口調に反してその子供が放つ雰囲気は、彼らの自由を禁じるほど、おぞましいものだった。
「招待しちゃだめでしょー、ブラズくん! 無理やり入ったソロモンと違って、ロココ・アリカは君に招待されて、冥界に入ったんだよね。そうすると、現世と冥界にどうしても通路が残っちゃうじゃない! どれだけ上手にその招待の痕跡を消したとしてもね!」
「ッ! 逃げるぞ!」
ブラズはようやく動き出した。ロココ・アリカは未だ放心していたが、手を引かれ、辿々しくもブラズに付いていく。
子供は笑った。
「それでねー、ぼく不思議なんだ。どうしてブラズくんはアンドラスの『喚起の指輪』に操られていないんだろう? 『恐怖』を司っていた彼女の力は、僕に底上げされて、『感情』を司る力になっているんだ。生者というのはみな感情を持っているから、アンドラスに操れない生者はいないはずなんだよ」
ブラズたちは凄まじい速度で子供から距離を取っている。しかし、どこへ向かってもその声が聞こえなくなることはなかった。ずっと背後──真後ろにその声はついて回った。
子供は嬉しそうに笑った。
「でもねー、それはだめだ! アンドラスに支配されたくないからと言って、『死者の衣』を着てしまうなんて! 確かに死者に感情はないから、アンドラスには操られなくなるけど──」
「ちぃっ!」
ブラズは舌打ちをして『死者の衣』を脱ぎ捨てようとした。だがしかし、それは些かばかり、遅かった。
「──僕の存在を忘れたのかい? 『序列四位』サミジーナ! 死者を操る『ソロモンの悪魔』だよ!」
がくんっ、とブラズの身体が静止した。急に立ち止まったブラズに振り向いて、走り続けるロココ・アリカは叫んだ。
「マスターハデス! 何をしているのですか!」
しかし、返答はなかった。ブラズはだらんと身体に力が入っていない様子で、虚な瞳を向けるのみだ。
「ブラ……ズ、さん……?」
「きみ、邪魔だね」
声は、ロココ・アリカの背後から聞こえた。あたりは冥界、真っ暗である。ぴちゃり、とどこかで水滴が落ちる音がした。
「……え?」
そして、唐突にロココ・アリカの視界が高くなった。別にジャンプをしたわけでもないのに。そして、眼を下にやれば、そこに首のなくなった胴体があるのに気がついた。
胴体は真っ赤な色彩の、ゴスロリ風のドレスを着ていた。
「あ──」
そして、ロココ・アリカの意識は暗転した。きっと覚めることのない眠りなのだろう──ロココ・アリカにはそんなことを思う暇すら与えられなかった。




