第六十四話 そして絶望は加速する
風がいっそう強くその場を凪いだ。風だって好き好んでこんな荒寥とした地に吹かれたくはあるまい。もしかしたら再三凪いだそれは警告だったのかもしれないな、とバザドゥーズは思った。
「訂正する」バザドゥーズは目の前の男を見て言った。「……確かにこいつは猛禽部隊案件だ。くそっ、コーイントススを連れてくればよかった」
ロココ・アリカは「そうですわね」とだけ言った。視線を彼──バアルと名乗った特徴のない男──から決して離さない。かといって、ロココ・アリカらは攻撃を仕掛けるわけでもない。静かな時間が流れた。
やがて男が言った。
「……俺ら、戦わなきゃいけない?」
それから男はぶらぶらと手を遊ばせる。うろんとした目は眠たそうだった。心の底から面倒くさがっているようだった。
ロココ・アリカはちらりとバザドゥーズを見る。同じタイミングでバザドゥーズもロココ・アリカに振り向いた。目が合った。どちらともなく彼らは小声で話し合う。
そして、バザドゥーズが言った。
「……そこをどいてくれるのなら、俺たちとしては戦わなくても構わない」
男はすこしだけ肩を落とした。
「あー、それは無理だ。ここから先に向かわせるなっつー、指令なんでな」
きっと男は本当に落胆しているのだろう。しかし、落胆の度合いでいえばバザドゥーズらの方が強かった。少なくともバザドゥーズにはその自信があった。
「……そうか。なら──」バザドゥーズは一歩前へ踏み出した。それは大きな一歩だった。「──開戦だ」
疾風迅雷。驚くべき速さ──いや、それを速さと呼んでいいものか。気がついたときにはバザドゥーズは男の懐に潜り込んでいた。「おおっと」と男も驚いた様子だった。
「はあ!」
向けられるは右手。殴りかかるような形でバザドゥーズは手のひらを男に押し付けようとする。男はそれを紙一重で避けた。ブゥン、と歪な音がして、何かがバザドゥーズの手のひらに吸い込まれた。
「……まじか」男は後退しながら言った。「相性最悪だな」
「ロココ・アリカ!」バザドゥーズはここぞとばかりに叫んだ。「ここは俺が引き受ける、行け!」
「やべっ」
男が呟いたときにはもう遅い。
男は後退しながら言った。先ほどまでは冥界の穴を塞いでいた男は今、後退しているのだ。冥界の穴への道を遮る者はもういない。
ロココ・アリカは素早く穴に飛び込んだ。慌てて男はそれを追いかけようとする。だが、それを許すバザドゥーズではなかった。
「ちぃっ」
「おらっ!」
またしても手のひらをバザドゥーズが翳したとき、男が魔術を発動する。バザドゥーズの周りを結界のようなものが包む。結界? ただの魔力の塊のように見えるが、しかしそれは属性を持った魔力の塊。なのに、『核』がある様子もない。『塗装』のみが施された歪な魔術。
不思議な透明の光を放つ手のひらはそれに直撃した。その瞬間、ぎゅるるるる、と手のひらは魔力を吸収する。さぞ堅牢な力を誇っていたのだろうが、その『魔力だけの魔術』──結界は数秒足らずで消え去ってしまった。
そして、バザドゥーズが結界に構っている間に男は穴へと向かっていた。ロココ・アリカを追いかけるつもりなのだ。
「させないと言っているだろう!」
やはり、疾風迅雷。超速で移動するバザドゥーズは穴から遠く離れた場所に着地し、その手のひらは今にも穴底に消え去りそうだった男の首根っこを掴んでいた。
「ありゃ?」
男は頓狂な声を上げる。ずざぁ、と勢いを殺しながらバザドゥーズは男を投げ飛ばす。勢いのままに、男は力強く地面に叩きつけられる──
──かに思われたが、またしても『結界』。
地面には、おそらく弾性の強い魔力の塊が敷かれていた。ぽよん、と男は弾かれて、空中で器用に姿勢を正して着地した。
「……」
ゆっくりと男はバザドゥーズを一瞥して、それから腕を地面と水平に振った。魔力が起こる。またしても結界がバザドゥーズを覆った。少しずつ、結界内から外へ外へと魔力が逃げていくのを感じる。そういう役割の結界なのだろう。
だが。
「無駄だ」
バザドゥーズはそれに手のひらを翳すだけだ。それだけで結界から魔力が吸われ、数秒後には跡形も無くなっている。
「……やっぱり、酷い相性だな」
呟く男はしかし、悲壮に思っている様子がない。バザドゥーズはその態度にどこか違和感を感じた。それに、ソロモンの悪魔『序列一位』という割には──
「──弱すぎる。一位うんぬんははったりか」
「……へ? いやいや、確かにこの身体は序列一位のものらしいぜ」
バザドゥーズは思案した。そして油断なく構えながら言った。男の言葉を信じることにしたのだ。
「……俺の魔術は」バザドゥーズの手のひらが淡く光る。「魔力を吸う──のではない。よく勘違いされるが違う。実際は──そこにある空間を喰らうんだ」
バザドゥーズは続けた。
「俺とお前との間にある空間を喰らえば、互いの距離はゼロになる。まさしく俺は瞬間移動でもしたような速度で接近できるんだ。これに喰われた空間は虚無──何にも存在しない場所になる。だから、タイミングさえ過たなければ魔術は俺には効かない」
バザドゥーズが言い終わると、手のひらに纏われる淡い光がいっそう強く発光した。その光は手のひらだけに止まらず、バザドゥーズの全身を覆う。
「術式の開示か」男は少しだけ忌々しそうに言った。「……縛りを背負うことによる能力の底上げ──等価交換の原理に基づく秘匿魔術の特権。……くそっ、忌々しい羨ましい」
厳密には秘匿魔術だけの特権というわけではない。例えば結界魔術を知らない人間に男が結界魔術の詳細を説明したら、それは縛りとして機能し、男の能力を底上げするだろう。世に知れ渡っていない秘匿魔術は、それだけ『術式の開示』が縛りたりえるので、恩恵が強いというだけだ。
バザドゥーズはなぜか羨ましがる男を無視した。
「……行くぞ」
そして、疾風迅雷。いや、それは速さではない。バザドゥーズと男との間にある空間を喰らうことによって、互いの距離をゼロにする、まさしく瞬間移動。種が割れても割れなくても、これを理解し対応することのできるものは少ない。
バザドゥーズはまたも男の首根っこを掴み、地面へと叩きつける──
「!?」
──と、バザドゥーズの視界が突然暗転した。男にたどり着く前に。いや、空間を喰らったはずだから、男がそこに何かを仕掛けたとしても、それはバザドゥーズの魔術──『暴食』──に消されるはずなのに。
いや、男は一歩、右足を引いていた。バザドゥーズが『暴食』を使った瞬間後退し、できたスペースに何かを仕込んだのだ。
「はっ」男は嘲った。「魔力が全部目に見えるものだと思ってんなよ」
魔力の隠蔽。罠を隠していたと。そこに結界があることを隠していたと。それはこれ以上なく簡単な手口だった。
ぎゅるるるるるる、と。今度吸い込まれるのはバザドゥーズだった。男が隠蔽してまでバザドゥーズに当てたかった魔術。それは十全に機能し、バザドゥーズは全身すっぽり閉じ込められた。
そして、気付く。
「!?」
「その『喰らう魔術』があるから大丈夫、とか思ったんだろ」
そこは。
その結界の中は。
まんまと誘い込まれたそこは果たして死地なのだろうか──
「残念だったな、そこで魔術を使えると思うなよ」
「ああ、ああ、ああ!」
──『封魔結界』。魔術が、使えない。『暴食』が機能しない。バザドゥーズは脱出できない。素手で破壊しようにも、それを許してくれるほどその結界はお粗末な作りをしていない。
「ああ──」
バザドゥーズは天を仰いだ。それは殉教者の顔だった。自らの天命を悟り、全てを受け入れたかのような表情。そして、それに応えるように結界は収縮し始めた。ぎちぎち、みちみちと嫌な音を立てる。容赦なくバザドゥーズを潰し殺そうとしてくる。
果たして、そんなバザドゥーズの恍惚とした表情が一転、にやりとした、不適な笑みに変わった。
「──術式を開示したのは正解だった」
げえ、ごぷ、ぎゅるるるる。
ぎゃりりりりり!!! とおぞましい咀嚼音がバザドゥーズから響き渡る。ごきゅり、ごがり。ぎり、ぎり、みち。
男にも何が起きているのかはわからなかった。ただ『喰われた』というのだけがわかった。『封魔結界』は魔力を閉じる。魔力を使わずに魔術を使うことはできない。それなのに、バザドゥーズは封魔結界の中で『暴食』を発動した。
「へえ」男はしかし、笑った。「面白いじゃん、お前」
「種明かしはしない」バザドゥーズは無傷で地に降り立ち、悠然と言った。「もう全て話した。これ以上は縛りにすらならない」
そして、とバザドゥーズは続ける。
「これはまた違う話になるんだが──」
男の渾身の一撃を無傷で切り抜けたバザドゥーズ。彼の瞳はぼさぼさの髪で隠れて見えなかったが、男はバザドゥーズが笑ったのがわかった。
「──勝ったと思っただろう。それを俺は覆したわけだが、今の俺は格好良かったか?」
バザドゥーズの放つ圧力が、いっそう強くなる。天を破り地を砕かんとするほどの力の奔流。細身のはずなのに、男にはバザドゥーズが自分より一回りは大きな巨人かに思えた。
「……へぇ。『生き様』にも縛りをつけてんのか」男はやはり、笑みを浮かべたまま言った。「いいね、それ。お前、名前は?」
バザドゥーズは答えた。
「『猛禽部隊』が勇士、バザドゥーズだ」
「バザドゥーズか。いい名前だ。俺も名乗ろう。俺の肉体の名はバアルだが、俺の精神の名は──」
そう言って男が名乗ろうとしたその時だった。
「バザドゥーズさん!」
バチュンッ、と男が何者かに狙撃された。そのままずざぁ、と男は荒野に倒れた。
バザドゥーズは振り向いて言った。
「ロココ・アリカ、どうして戻ってきた!」
ロココ・アリカ。バザドゥーズが身を挺して穴の奥へと導いた少女。
彼女は弁解するように言った。
「違っ、聞いてくださいまし! あのバアルとかいう男、穴の途中に結界のようなものを貼ってましたの!」
だから、と。
「……交代しましょう。私が彼を引き受けます。バザドゥーズさんの能力なら、あの結界も難なく突破できるはずですわ。私はできませんでしたが」
「しかし──」
──結界を突破できなかった、ということは、ロココ・アリカは男に勝つことができないということではないのか。
バザドゥーズは言葉を飲み込んだ。ロココ・アリカだってそれはわかっている。それでもこうして戻ってきたのは、任務を遂行するためだ。猛禽部隊に勤めている理由はそれぞれだろうが、ロココ・アリカにとってもこれが苦渋の決断に違いないことが、バザドゥーズにはわかった。
むくり、と。話し合いを続ける二人の目の前で、男がゆっくりと起き上がった。まるで糸に吊るされた人形のように手足はだらんとしていた。しかしゆっくりとその目が開かれると、身体は意志を取り戻して毅然と着地した。
「あのさあ……」男は言った。「いや、不意打ちに関しては、いいや。でも、せっかく戻ってきてくれたんだったら、もう穴には誰も入れないよ」
バザドゥーズはそれを無視してロココ・アリカに言った。
「すまない!」
そして彼は冥界に続く穴へと駆け出した。いつのまにか身体に纏う光は消えていた。今のバザドゥーズの姿は『格好悪い』からだろう。
「させるか!」
男もそれに追従する。しかし疾風迅雷、『暴食』で瞬間移動さながらに移動するバザドゥーズには追いつけず、さらには──
「あなたの相手はわたしよ!」
──ロココ・アリカが指先を男に向けていた。パァン、と発砲される。男は放たれる魔力弾をやはり紙一重で避けて、叫んだ。
「あー、くそ!」
ただでさえ気分の良かったところに不意打ちを喰らっているのだ。苛立ちのままに男は腕を水平に振った。結界が作られる。それはロココ・アリカを閉じ込めようとしたが、魔力の流れを見て、彼女は器用に避けた。
二度、三度、四度。何度も結界がロココ・アリカを襲う。当たれば必殺である。ロココ・アリカは防戦一方を強いられた。時折思い出したかのように発砲するが、そんな苦し紛れの攻撃が男に当たるわけはなかった。
そして、その時が来た。それは男の、十数度目の攻撃の直後だった。
「はあっ!」
やはりロココ・アリカは作成される結界を器用に横に飛んで回避した。そして飛びざまに指を構えて発砲する。
「!?」
そして、気がついた時には、彼女は結界の中にいた。
隠蔽結界。簡単な偽装工作。それが男の『塗装』技術をもってすれば、こうまで脅威になるのだ。ロココ・アリカはその結界が、最初からずっとその場所に息を潜めていたことに気が付かなかった。
「……ああ」
脳裏に蘇るは自らが戦士として働く理由。家族、旧友たち。そして──バザドゥーズの意味のわからない格好つけ。
「すみません、ルーヴァン隊長……」
そして、ロココ・アリカが全てを諦めて身をなげうとうとしたその時。
ぎゅるるるる、と結界はどこかに吸い取られ、ロココ・アリカは荒野に投げ出される。受け身もとれずに転がった。
「な、は、え??」
「……考えたんだが」まるで救世主のような体で、そいつは言った。「やはり、少女に任せて先に行くというのは、格好が悪い」
バザドゥーズ。天性の格好つけ。ナルシズムとはまた違った信念を持つ男。
ああ、ああもう、と。
「……ルーヴァン隊長に怒られても、知りませんわ……」
ロココ・アリカはそう言うのが精一杯だった。立ち上がって衣服についた泥をぱっぱと払い、目の前の男に毅然と向き直る。
「……」
男は何も言わなかった。特に攻撃を仕掛けるわけでもなかった。やはり穴に入ろうとしなければ敵対しないのだろうか。だがそれは、ロココ・アリカらからしてみれば、戦う理由として十分過ぎた。
「な、は、え??」
だが、今度混乱していたのはその男だった。そわそわと忙しなくあたりを見回し始める。バザドゥーズの登場に驚くには遅すぎる反応だ。明らかな隙だが、罠であるかもしれない。ロココ・アリカに何が出来るわけでもない。仕掛けられるとすればバザドゥーズか。
だが、そのバザドゥーズの決断が遅過ぎた。彼の脳内では『ロココ・アリカを守る』ことが最優先に置かれており、自分から仕掛けるという行動が取れなかった。
ドゴォンッ!! と遠方より何かが飛来した。隕石か、攻撃か。土煙からバザドゥーズはロココアリカを庇う。男は動かなかった。
「……何をしている、ソロモン・ディビルズ」
そして、絶望は加速する。
飛んできたのはどうやら人、だったらしい。
土煙の中から現れたのは女だった。メイド服を来た女。歳の頃二十六、七くらいの美女。怜悧がそのまま形になったような、表情のない氷の女。
ソロモン・ディビルズと呼ばれた男──特徴のない平凡な彼は、呆れたようにため息をついて言った。
「来なくていいのに、アンドラス」
アンドラス。
ソロモン・ディビルズ。
どちらも聞いたことのある名だ。前者はソロモンの悪魔『序列六十三位』、後者は言わずもがな、全ての元凶たる男。
「そういうわけにもいかなくなった。もうすぐ姉がやってくる」アンドラスは言った。「すぐに片をつけなければならない。彼女が到着する前に、些事は終わらせておかなければ」
「はあ、そうなのですか」
ソロモンの態度は鷹揚だった。面倒くさそうだった。先ほどまでの興奮に彩られた彼──そもそもロココ・アリカに不意打たれた時点で相当の熱量を失っていたが──は、もうそこにはいなかった。
だけれど、ソロモンは余すことなく、その場にいる全員に絶望をもたらした。
「……ちぃっ。目覚めろ、『万物の主』」
彼はやはり面倒臭そうに吐き捨てて。
その言葉を最後に、ロココ・アリカの視界はブラックアウトした。




