第58話わたくしは、いつでも素顔ですわ
港は、その日の昼から、また閉まった。
荷揚げ場の入口には、黒い羽織も灰色の上着も立っていない。その代わりに、衛兵の方々が二人、退屈そうに槍を立てていた。起重機の鉄の腕は、首を垂れたまま動かない。桟橋に着いた連絡艇は、荷を下ろさずに、また浮島の方へ昇っていった。
夕暮れの港沿いの道を、わたくしは坂の方へ歩いていた。
【コメント】港、また止まった
【コメント】今日一日って言ってたけど
【コメント】荷揚げの人たち、また仕事なくなる
【コメント】お嬢、帰り道?
【コメント】今日は木箱ひとつで十人だったな……
倉庫街の端まで来たところで、わたくしは、ふと足を止めた。
夕陽が、港の向こうの海に沈みかけていた。
その赤い光を背にして、いちばん端の倉庫の屋根の上に、人影がひとつ、立っていた。
背の高い人影だった。黒い外套の裾が、海風に、ゆっくりとはためいている。顔のあるべきところが、夕陽の逆光の中で、平らに、白く見えた。
閉まった港を、黙って見下ろしていた。
「……カンパネッロ様、とおっしゃるのでしたかしら」
【コメント】いた!!
【コメント】屋根の上!
【コメント】仮面の人だ
【コメント】カンパネッロ
【コメント】画角に入ってる、今度はちゃんと映ってる
【コメント】録画しろ録画
【コメント】お嬢、追う?
わたくしは、日傘を傾けて、その人影を見上げていた。
お声をおかけしようか、と、少しだけ思った。
けれど、あの方は屋根の上で、わたくしは道の上だ。お嬢様が、殿方を追って屋根によじ登るなど、ありえない。何かご用があるのなら、あちらからいらっしゃるだろう。
人影は、しばらく港を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと、こちらへ顔を向けた。仮面の、目のあるべきところが、わたくしの方を見た気がした。
次の瞬間、人影は、屋根の向こう側へ、すっと沈むように消えた。
【コメント】消えた
【コメント】こっち見たよな、今
【コメント】お嬢と目が合った
【コメント】こわ
【コメント】お嬢、追わないの!?
【コメント】追わないんだよこの人は
「お嬢様は、追いかけませんの」
わたくしは、日傘を肩に預け直して、また歩き出した。
踵から下ろし、土踏まずで受け、爪先で送る。いつもの歩き方で、いつもの速さで。
*
坂の下に着いたのは、港の灯りがひとつずつ点りはじめた頃だった。
角の屋台の暖簾が、夕風に揺れていた。
炭の匂い。脂の落ちる音。暖簾をくぐると、鈴村さんが、串を返しながら顔を上げた。
「おかえりなさいませ、九条院様」
「ごきげんよう、鈴村さん。……まあ、今日はたくさん焼いていらっしゃいますのね」
焼き台の上には、串が隙間なく並んでいた。
「港が閉まると、坂の皆さんが早めに夕飯を買いにいらっしゃるので」
「まあ。お疲れでしょうに」
「いえいえ。慣れておりますから」
【コメント】鈴村さん、今日も通常営業
【コメント】串の量すごい
【コメント】港閉まると坂が潤うの、なんか皮肉
【コメント】うまそう
わたくしは、丸椅子に腰を下ろした。
鈴村さんが、湯呑を置いてくださる。そのとき、前掛けの裾が、わたくしの膝の近くをかすめた。ほんの少しだけ、潮の匂いがした。
港から仕入れた串の具の匂いだろう。
鈴村さんの屋台の串は、港の魚も使っていらっしゃるから。
「そうそう、鈴村さん。港で、カンパネッロという方のお噂を伺いましたの」
「カンパネッロ」
鈴村さんは、串を返す手を止めずに、その名前を繰り返した。
「……異国の言葉でしょうか。聞き慣れない響きですね」
「港の裏で、騒ぎの前に決まって、紙を配って回る方なのですって。お顔に、仮面をつけていらっしゃるそうですわ。さっきも、港の屋根の上でお見かけしました」
「それは、物騒な」
鈴村さんは、穏やかに眉を寄せた。
「九条院様も、お気をつけて。仮面で顔を隠すような方は、何を考えているか分かりませんから」
【コメント】鈴村さん、心配してくれてる
【コメント】優しい
【コメント】そうなんだよ、仮面のやつは何考えてるか分からん
暖簾が、ばさりと持ち上がった。
「――よう」
熊の毛皮の大きな背中が、窮屈そうに屋台の中へ入ってきた。
ゲイリー様だった。目の下の黒い隈が、きれいに消えている。頭の上には、もう何も浮かんでいなかった。
「まあ、ゲイリー様。もう、お出になりましたの」
「今日の昼にな。……よく寝た。あんなに寝たの、いつぶりだ」
ゲイリー様は、懐から銭を一掴み出して、鈴村さんの前の台に置いた。
「こないだの、道中の串の分だ。お帰りの際に、って言ってたろ」
「これは、ご丁寧に。……ですが、串一本には、多すぎます」
「三倍だ。そういう主義なんだよ」
鈴村さんは、少しだけ困ったように笑って、銭を受け取った。
【コメント】ゲイリー!
【コメント】顔色いい
【コメント】隈が消えてる
【コメント】三倍払いの律儀さは健在
【コメント】ゲイリーを救う会、解散してよかった
「で、これからどうなさいますの?」
「決まってんだろ。賞金稼ぎに戻る」
ゲイリー様は、丸椅子に腰を下ろして、焼き上がったばかりのねぎまを一本取った。
「さっき詰所で聞いた。港で、カンパネッロとかいう仮面野郎が、騒ぎの種を撒いて回ってるらしいな。ああいうのに賞金がかかってりゃ、真っ先に狩りに行くんだが」
「かかっていませんの?」
「かかってねえ。顔も名前も分からねえ相手に、懸賞なんかかけようがねえんだと」
ゲイリー様は、ねぎまを頬張って、もぐもぐと噛んだ。
「顔を隠して悪さしてる奴ってのは、そういうとこがずるいんだよな。素顔の方で何してるか、誰にも分かんねえ」
「まあ。でしたら、わたくしは、いつでも素顔ですわね」
「お嬢ちゃんは、素顔のまんま一番やべえことしてんだよ」
鈴村さんが、小さく笑った。
それから、焼き上がったつくねを一本ずつ、わたくしとゲイリー様の皿に載せてくださった。




