第31話今日は、良い方でしたわね
砂埃が、夕暮れの風に流されていった。
日向雑貨店だった場所には、床板だけが残っていた。
四方の壁も、棚も、帳場も、天井から吊るされていた籠や鍋も、どこにもない。床一面に散らばっていた琥珀色の飴の粒が、夕陽を受けて、宝石をばら撒いたようにきらきらと光っていた。
その真ん中で、ゲイリー様が、ゆっくりと体を起こした。
裂けた毛皮の背中が、大きく上下している。頭の上の赤い表示の横で、体力の数字が、まだ細く明滅していた。
ゲイリー様は、震える手で胴着の内側を探って、赤い小瓶を一本、取り出した。親指で栓を弾き、一息にあおる。
明滅が、止まった。
【コメント】回復薬
【コメント】生きてる
【コメント】ギリギリ
【コメント】あの赤い瓶、灯台の丘の下の露店のやつじゃね
【コメント】ラベル手書きのやつだ
【コメント】ゲイリー、ばら撒かずに済んだ
ゲイリー様の腕の下から、小夜さんが這い出してきた。
髪にも、肩にも、茶葉がびっしりと貼りついている。小夜さんは、床に座り込んだまま、しばらく辺りを見回していた。
壁のない店。遠くまで見通せる坂。瓦礫の山。角の屋台の暖簾だけが、夕風に揺れている。
小夜さんは、立ち上がった。
膝の茶葉を払いもせずに、戸口だった場所まで歩いていく。
割れた看板が、落ちていた。
小夜さんは、二つに割れたその片方を拾い上げて、もう片方も拾って、割れ目を合わせるように、胸の前でそっと重ねた。
日向雑貨店。かすれた字が、真ん中で少しだけずれていた。
誰も、何も言わなかった。
コメントの流れさえ、止まっていた。
「……明日には、元に戻るんだよね。こういうの」
小夜さんが、看板を見下ろしたまま言った。
「角のときも、そうだったし。壁も、棚も、たぶんこれも」
「……ええ」
「そっか」
小夜さんは、看板を胸に抱えたまま、振り返った。
まず、ゲイリー様を見た。
「あなたね」
「……おう」
「配信に書き込んだから、ああいう人たちが来たんでしょ。自分で居場所教えて」
「……悪かった」
ゲイリー様は、床に座り込んだまま、大きな体を小さく丸めた。
賞金首の大男が、雑貨屋の娘に叱られて、うなだれている。
「ほんとに、悪かった。嬢ちゃんの店に、面倒持ち込んじまった」
「うん。……でも」
小夜さんは、少しだけ言葉を切った。
「かばってくれたのも、あなただよね。ありがとう」
ゲイリー様が、顔を上げた。
何か言おうとして、口を開いて、結局、何も言わずに閉じた。髭の奥で、耳の先が少しだけ赤くなっていた。
【コメント】ゲイリー照れてる
【コメント】小夜ちゃん強い
【コメント】叱ってから礼を言う
【コメント】できた子だ
【コメント】三階です この二人、いいコンビになりそう
それから、小夜さんは、わたくしを見た。
「で、あなたは」
「……はい」
「うちの店、床しか残ってないんだけど」
「悪い方々は、ひとり残らず片付けましたわ」
「お店ごとね」
「……お店ごと、ですわね」
わたくしは、日傘の柄を握り直した。
なぜだろう。いつもなら、ここで胸を張れるはずだった。悪い方々は、もういない。小夜さんも、ご無事だった。これ以上の結果は、なかったはずなのに。
小夜さんは、じっとわたくしの顔を見ていた。
呆れているのとも、怒っているのとも、少し違う顔だった。
「……瑠璃華」
「はい」
「さっき、すごい顔してた」
わたくしは、瞬きをした。
「わたくしが、ですの?」
「うん。あいつらに突き飛ばされて、顔上げたとき。……あなた、あんな顔もするんだね」
小夜さんは、看板を抱え直して、少しだけ笑った。
「怒ってくれて、ありがとう」
わたくしは、何も言えなかった。
日傘の柄を握る指に、なぜか力が入らなかった。
【コメント】……
【コメント】小夜ちゃん……
【コメント】お嬢が黙った
【コメント】お嬢が言葉に詰まるの初めて見た
【コメント】これは友情
【コメント】店ごと吹き飛ばしたけど友情
【コメント】台無しにするな
ゲイリー様が、のそりと立ち上がった。
裂けた胴着の裾を払い、布を巻いた拳を開いたり閉じたりして、動きを確かめている。
「……おい、お嬢ちゃん」
「なんですの」
「さっきの、お前だろ。坂ごと吹っ飛ばしたの」
「ええ」
「あのまま削られてたら、俺は倒れてた。倒れてたら、全部ばら撒いてた。金も、道具も、全部だ」
ゲイリー様は、わたくしの顔を、正面からまっすぐに見下ろした。
灯台の丘で見たときとも、さっき問い詰められたときとも違う、困り果てたような顔だった。
「俺はな、お前に借りを返しに来たんだ。灯台の借りをな」
「存じておりますわ」
「それが、なんだ。借りが、ひとつ増えちまったじゃねえか」
【コメント】借りが増えた
【コメント】恩の方の借りな
【コメント】仇討ちに来て命救われてるの草
【コメント】ゲイリー、完全に調子狂ってる
わたくしは、少し考えた。
この方は、悪い方だ。この街の法が、そう定めた。賞金首の赤い表示は、今も頭の上に浮かんでいる。
けれど、今日、小夜さんをかばったのは、この方だった。
身を丸めて、背中で剣を受けて、倒れたら何もかも失うと分かっていて、それでも一歩も退かなかった。
「ゲイリー様」
「……なんだよ」
「あなたは悪い方ですけれど」
わたくしは、日傘を開いた。
「今日は、良い方でしたわね」
ゲイリー様の口が、半開きのまま止まった。
「……どっちなんだよ」
「両方ですわ」
【コメント】両方
【コメント】お嬢の中でゲイリーの評価が「悪い方(今日は良い方)」になった
【コメント】進歩……なのか?
【コメント】ゲイリー、頭抱えてる
遠くで、呼子笛が鳴った。
坂の下の方から、いくつも。今度は賞金稼ぎではなく、衛兵たちだ。坂一帯が吹き飛んだ音を、聞きつけたのだろう。
ゲイリー様は、舌打ちをひとつして、坂の上の方を振り返った。
衛兵たちとは反対の、瓦礫だらけの道。
「……行くわ。ここにいたら、嬢ちゃんにまた迷惑かける」
ゲイリー様は、小夜さんの方へ、ほんの少しだけ頭を下げた。
それから、わたくしに向き直った。
「この借りは、いつか返す」
大きな背中が、瓦礫を踏み越えて、坂の上へ遠ざかっていく。
その途中で、ゲイリー様は一度だけ振り返って、ぶっきらぼうに付け加えた。
「……ちゃんとした方の意味でな!」
夕暮れの坂に、その声だけが、長く残っていた。




