第160話運河の向こうへ、お散歩ですわ
小夜さんが発って、五日が過ぎた。
空き店の扉には、まだ札が下がっていた。その下の、水を撒く石の脇に、熊の毛皮が、今朝も座っていた。
【コメント】こんにちは
【コメント】ゲイリー、今日もいる
【コメント】番する店、もうないのに
【コメント】日当問題、まだ決着してない
坂の上の空き店の前には、もうひとり、立っていた。
白髪まじりの、肩幅の広い方だった。羽織の袖に腕を組んで、扉の札を見上げていた。
関谷様だった。
【コメント】隊長?
【コメント】坂の上に何の用だ
「……本当に、発ったんだな」
「ええ。小夜さんは、もう、雲の向こうですわ」
わたくしは、日傘の柄を、肩に預け直した。
「確かめにいらしたのですわね。疑っていらした方が、本当にいなくなったのか」
関谷様は、何もおっしゃらなかった。札から、目を離さなかった。
「演説の日の、鐘楼の方」
関谷様の目が、こちらへ動いた。
「小夜さんより、ずっと背がお高うございましたわ。……それに、いつもの仮面の方より、肩が、ずいぶん落ちておりましたの。あの方も、おひとりで、いろいろな場所にお手紙を投げたり、お顔を出したり……お疲れなのでしょうね」
関谷様は、しばらく、わたくしの顔を見ていた。
「……いつもの方、か」
それだけおっしゃって、組んでいた腕をほどいた。坂を下りていく羽織の背中が、白い石畳の上で、一度だけ、立ち止まりかけた。
【コメント】隊長、まだ雑貨屋の子疑ってたのか
【コメント】お嬢、ちょっと怒ってる?
【コメント】悪党の肩の心配するお嬢
【コメント】いつもの仮面の方、って何回見てんだ
【コメント】お疲れなのでしょうね、じゃないんだよ
わたくしは、ドレスの隠しから、銀貨を何枚か取り出した。
「ゲイリー様。本日の分ですわ」
ゲイリー様は、わたくしの手のひらの銀貨を見た。それから、扉の札を見上げた。
「……いらねえ」
「まあ。どうしてですの」
「番する店がねえ」
わたくしも、札を見上げた。
――空き店。
「……そういえば、そうでしたわね」
【コメント】忘れてた
【コメント】払うのやめるの、ほんとに忘れてた
【コメント】で、ゲイリーは五日分もらってから言い出した
【コメント】どっちもだった
【コメント】「どっちもありそうで困る」の答え、両方
ゲイリー様は、懐から小さな袋を出して、わたくしの手の銀貨の上に、どさりと重ねた。
「店がなくなってからの分だ」
「お返しいただかなくても、よろしいのに」
「よろしくねえ」
ゲイリー様は、立ち上がって、膝の砂を払った。
「その代わり、勝手についてく。あんたの周りが、いちばん札が転がってる」
【コメント】日当を返して、ついていく
【コメント】律儀なのか図々しいのか
【コメント】お嬢の周り=賞金首の漁場
【コメント】言い方ひどいけど事実
*
店の三歩手前で、古い石畳が終わる。そこから坂の下手までは、白い。
白い壁の長屋は、どの窓も、内側の布が引かれていた。布の端が、日傘の動くのに合わせて、少しずつずれていった。
【コメント】坂の下、相変わらず白い
【コメント】窓の布、全部こっち見てる
【コメント】スタロは?
【コメント】東の長屋。手紙の宛名の人、まだ探してる
「……運河の向こうで、夜な夜な倉庫が荒らされてるらしい」
三歩後ろで、ゲイリー様が言った。
「札つきが多い」
「まあ。でしたら、本日は、運河の向こうまで、お散歩ですわ」
【コメント】行き先、賞金首基準で決まった
【コメント】お散歩(物騒)
【コメント】工業区、逃げて
*
錆びた鉄の橋を渡った。
橋の下を、煤で黒ずんだ運河が、ゆっくりと流れていた。潮の匂いが薄れて、油と、焦げた金属の匂いが混じりはじめる。
初めてこの橋を渡ったのは、小夜さんのお使いのお供だった。この先で、小夜さんは「あんまりきょろきょろしないでね」と、声を落としていた。
わたくしは、きょろきょろしないで、橋を渡りきった。
工業区は、白くなかった。
赤煉瓦の工場が、鉄柵の向こうで肩を寄せ合っている。どこかで、金槌を打つ音が、規則正しく響いていた。
ただ、鉄柵にも、倉庫の扉にも、同じ紙が貼ってあった。墨で、大きく。
――日傘、お断り。
「まあ」
わたくしは、貼り紙の前で、足を止めた。
「前は、板切れ一枚でしたのに」
【コメント】www
【コメント】最初に来た日、門柱に「日傘の女、立入禁止」って打たれてたよな
【コメント】刷って量産してる
【コメント】出世したな
【コメント】出禁の出世ってなんだよ
貼り紙のすぐ上の軒先に、小さなものが揺れていた。
手のひらほどの、布の人形だった。黄色い毛糸の髪が、くるくると二本。黒い端切れのドレス。爪楊枝に布を張った、小さな日傘。
わたくしだった。
通りの先で、腕に金色のサイコロの布を巻いた方が二人、籠から人形を取り出しては、配っていた。前掛けの女の方が、一つ受け取って、背伸びをして軒に吊るす。
「お代は要りません。撃たれないお守りです。……お嬢様のお許しも、ちゃんといただいておりますので」
「お許しは、差し上げておりませんわ」
籠を抱えた方の手が、宙で止まった。
振り返って、わたくしの日傘を見た。それから、籠を抱えたまま、路地の奥へ消えていった。
【コメント】本人いた
【コメント】公認詐欺、二回目
【コメント】日傘お断りの貼り紙の上に、日傘の人形
【コメント】矛盾の塊
【コメント】怖いから貼り紙、怖いから人形
前掛けの女の方は、人形を吊るしたまま、少し気まずそうに、わたくしを見下ろした。
「……ただなら、吊るしとくよ」
「ええ。……ただ、日傘の骨が、足りておりませんわね。本物は、十二本ですのよ」
【コメント】採点
【コメント】お許しはしないけど、可愛いは否定しない
*
赤煉瓦のいちばん大きな工場の前に、人だかりができていた。
前掛けの職人の方々が、腕を組んで並んでいる。その真ん中に、白髪を短く刈り込んだお爺さんが立っていた。煤で黒くなった太い指に、使い込んだ金槌を握っている。職人頭、というお立場の方なのだろう。
その前で、紺の上着の背中が、深く頭を下げていた。
鈴村さんだった。
「坂の下の白い家々には、まだ、ろくに家具もございません。卓でも棚でも、工業区で作っていただけましたら――」
「白いのに、うちの品を持ち込むなと言っとる」
職人頭の方の声は、低くて、太かった。
「人が住んどった家が、一瞬で、白い箱になったと聞いた。……わしらは、それがうつるのが怖いんだ」
「うつるものでは、ございません」
「分からんだろう、そんなこと。誰にも」
鈴村さんは、それ以上、何もおっしゃらなかった。もう一度、深く頭を下げた。
【コメント】串屋の旦那、こっちでも頭下げてる
【コメント】白いのがうつる、か
【コメント】気持ちは分かる
【コメント】うつるわけないだろ。お嬢が撃ったら白くなるんだよ
【コメント】じゃあ、お嬢を連れてくるなって話になるな
鈴村さんが、顔を上げた。人だかりの向こうに、わたくしの日傘を見つけて、いつものように会釈をなさった。
「九条院様。……こちらにも、いらっしゃいましたか」
わたくしは、会釈だけをお返しした。
職人頭の方が、振り返った。煤だらけの顔が、みるみる強ばっていった。
「――貼り紙が、読めんのか」
「読めますわ。とても、達筆でいらっしゃいますのね」
【コメント】褒めた
【コメント】達筆
【コメント】職人頭の顔
鈴村さんが、穏やかに、わたくしと職人頭の方とのあいだに、半歩だけ入った。
「九条院様は、悪い方しか、お撃ちになりませんので」
「そりゃ、悪い方の言い分だ」
職人頭の方は、金槌の柄で、運河沿いの方角をさした。
「どこからか流れてきた連中が、夜になると、運河沿いの倉庫に集まって、うちの品を持っていく。……そいつらだけ撃って、とっとと帰ってくれるなら、文句は言わん」
「まあ。お招き、ありがとうございます」
「招いとらん」
【コメント】招いとらん
【コメント】お嬢の耳、都合よすぎる
【コメント】でも職人頭、場所は教えた
わたくしは、日傘を傾けて、運河沿いの倉庫の並びを眺めた。
黒ずんだ赤煉瓦の倉庫が、ずっと向こうまで続いていた。どの軒先にも、小さな日傘が、くるくると揺れていた。




