第130話扉の手前まで、でございますわ
三。
わたくしは、閉じた扉を見上げた。
分厚い木の扉だった。真鍮の鋲が、縦に並んでいる。その向こうから、押し込まれた人たちのざわめきが、かすかに漏れていた。
「扉の手前まで、ですわ」
わたくしは、日傘の先で、階段のいちばん上の三段を、そっと示した。
「扉には、指一本、触れませんわ。小夜さんが、中にいらっしゃいますもの」
【コメント】答えた
【コメント】ちゃんと答えた!
【コメント】扉の手前まで
【コメント】……扉の手前って、今、人がいっぱいいるとこだよな
【コメント】締め出された人たちが、扉叩いてるとこ
【コメント】スリも、そこに固まってる
五。
スタロ様は、スリの方を押さえつけたまま、階段の上を振り仰いだ。
扉の前の三段には、締め出された方々が、肩と肩をぶつけ合うようにして詰めかけていた。拳で扉を叩く方。払い戻しの札を振り回す方。その人垣の中に、身軽な背中が、まだ、何食わぬ顔で混じっている。
「……っ、みんな! 下がれ! 階段から、離れろ!」
誰も、振り向かなかった。
「金庫が落ちる前に、下ろさせろ!」
「開けろ! 開けろよ!」
【コメント】聞いてない
【コメント】お金のことしか頭にない
【コメント】スタロの声、届いてない
【コメント】十
わたくしは、日傘を差したまま、階段を見上げていた。
人垣のいちばん後ろで、白い髭の殿方が、ふと、こちらを振り返った。
わたくしの日傘を見た。わたくしの顔を見た。
「……あの日傘」
殿方の顔から、すっと血の気が引いた。
「市場の島の。中継の。……勇敢な、市民の」
その声が、隣に伝わった。
隣から、その隣へ。人垣の後ろから、前へ。
「――日傘の娘だ!」
「英雄様に指輪をもらった、あの……!」
「三番通りが消えた日に、いた娘だ!」
「逃げろ、来るぞ!」
【コメント】伝わった
【コメント】ニュース効果
【コメント】上層でも有名人になってる
【コメント】勇敢な市民(逃げられる側)
十五。
階段から、人が、雪崩のように降りてきた。
わたくしの両脇を、裾を翻して駆け抜けていく。誰も、わたくしに触れなかった。わたくしの周りだけ、ぽっかりと、人のいない輪ができていた。
扉の前の三段に残ったのは、六人だけだった。
逃げる人たちが取り落としていった財布や払い戻しの袋を、這いつくばって拾い集めている方々。それから、扉を叩くのに夢中で、何も聞こえていなかった殿方が、おひとり。
【コメント】スリ、逃げないのか
【コメント】落ちた財布、拾ってる
【コメント】欲張りすぎ
スタロ様が、押さえつけていたスリの方を、石段の下へ放り出した。
光の足場をひとつ蹴って、日傘の横へ降りた。
それから、ゆっくりと、腕を上げた。
指の先が、扉の前の三段をさした。
「……あいつらだけだ。財布を抱えてる、あいつらだけ」
スタロ様の声は、低かった。
「それ以外の奴が、まだ一人でも残ってたら、撃つな」
【コメント】条件つけた
【コメント】学習してる
【コメント】指さしに条件をつけるヒーロー
財布を抱えた方々が、扉を叩く殿方の両脇に、さりげなく寄っていった。
【コメント】スリ、おっさんにくっついた
【コメント】盾にしてる
【コメント】三十秒の約束、知ってるやつらだ
二十。
扉を叩いていた殿方が、最後に一度だけ、拳を振り上げた。
それから、ふと、振り返った。
がらんとした階段。ぽつんと立つ日傘。その横で、まっすぐに腕を伸ばしている、白い装甲。
「…………」
殿方は、何も言わずに、財布を抱えた方々の脇をすり抜けて、階段を駆け下りていった。
【コメント】気づいた
【コメント】逃げた!
【コメント】ナイス判断おっさん
【コメント】盾、いなくなった
財布を抱えた方々が、ぎくりと顔を上げた。
ひとりが、階段を駆け下りようとして、抱えた財布をばらばらとこぼした。
わたくしの数段下で、別の財布を盗られたご婦人が、膝をついて、扉の前を見上げていた。
柔らかい目だった。
二十九。
その目を、お借りした。
――扉の前の三段。財布を抱えた、五つの背中。その向こうの、真鍮の鋲。
三十。
扉の前が、白く光った。
【コメント】撃った
【コメント】三段だけ
【コメント】ほんとに三段だけ!?
【コメント】柱、一本割れたけど
【コメント】扉は……無事!
【コメント】お嬢、初めて言った通りの範囲で撃った
【コメント】それはそれで怖い
煙が晴れると、扉の前の三段が、なくなっていた。
代わりに、黒く焦げた窪みがひとつ。その縁から、光の粒が五つ、昇っていく。
窪みのまわりに、財布が、ぼとぼとと落ちた。
ひとつ。ふたつ。十。二十。抱えきれないほど盗んでいた分が、全部、石段の上に散らばっていた。
【コメント】財布の雨
【コメント】盗んだ分、全部落とした
【コメント】持ち主、取りに行け
そのご婦人が、這うようにして段を上ってきた。
散らばった財布のひとつを、震える手で拾い上げて、胸に抱きしめた。
その時、扉が、ぎい、と内側から開いた。
隙間から、小さな顔が、ひょこりと覗いた。
「……終わった?」
「ええ。扉の手前まで、でございましたわ」
小夜さんは、焦げた窪みを見下ろして、それから、わたくしを見上げた。
手の中に、鈴村さんの書き付けと、口を固く縛った小さな袋を、大事そうに抱えていた。
「下ろせた。窓口の人が、閉める前に、急いで出してくれた」
「まあ。お使い、お見事ですわ」
【コメント】小夜ちゃん無事!
【コメント】ちゃんと下ろしてる
【コメント】この子、どんな状況でもお使いは果たす
【コメント】お嬢との相性、そこなんだよな
小夜さんの後ろから、銀行の制服の殿方が、青ざめた顔で、外を覗いていた。
焦げた窪み。割れた柱。散らばった財布。階段の下で、遠巻きにこちらを見上げる、何百という人たち。
殿方は、喉を鳴らして、唾を呑み込んだ。
それから、声を張り上げた。
「ほ、本日より、当面のあいだ、払い戻しを停止いたします! 玄関の修繕が済むまで、館を閉めさせていただきます!」
それだけ言うと、殿方は、扉の内側へ引っこんでしまった。
階段の下が、一瞬、しんと静まった。
「……玄関の、修繕?」
「口実だろ。金が、もうないんだ」
「やっぱり、金庫が空なんだ」
その声が、人垣の中を、波のように広がっていった。下がっていた人垣が、また、じわりと階段の方へ寄りはじめた。押された子どもが、石段の角につまずいた。
【コメント】まあ、そう思うよな
【コメント】いや、玄関は本当に吹っ飛んでるし
【コメント】どっちだよ
【コメント】また押し寄せてくる
スタロ様が、階段を駆け下りた。つまずいた子どもを引き起こして、人垣の前で、両腕を大きく広げる。
「落ち着け! 口実じゃない! 玄関が壊れたのは本当だ、俺が見てた!」
「……じゃあ、誰が壊したんだよ!」
スタロ様の腕が、宙で止まった。
それから、兜が、ゆっくりと、こちらを振り返った。
人垣じゅうの目が、その視線の先を追って、階段の途中の日傘に集まった。
「……玄関を吹っ飛ばしたのが、あの娘なら」
「金庫を狙ってたのも、あの娘だ」
「市場の島の次は、銀行の島か」
【コメント】スタロ、噂を止めに行った
【コメント】そして燃料を足した
【コメント】振り返っちゃだめだった
【コメント】正直者すぎる
わたくしは、日傘を傾けて、ざわめく人垣を見下ろした。
「まあ。皆様、お噂がお好きですのね」




