第157話 それでも行くか
――帝国暦三二一年・秋初め ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室――
扉の前で、イリスは一度だけ息を整えた。
皇帝に呼ばれた。
父に呼ばれた。
どちらも正しい。
だが、この場で向き合うのは、たぶん父ではない。
ヴェリア帝国の皇帝だった。
「イリス皇女殿下」
侍従が静かに告げる。
「陛下がお待ちです」
「分かりました」
イリスは頷く。
手は、少しだけ冷たい。
けれど、逃げるつもりはなかった。
自分で言い出したことだ。
客人ではいたくない。
責任を持つ側へ行きたい。
その言葉を、今度は皇帝の前で言わなければならない。
扉が開く。
重い音だった。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
室内は静かだった。
机の向こうに、皇帝が座っている。
その横には、アシュレイが控えていた。
同母兄。
いつもなら、少しだけ安心できる存在。
だが今は、視線だけで短く告げてくる。
逃げるな、と。
イリスは小さく頷いた。
それから、皇帝へ向き直る。
「お呼びとのことでしたので、参りました」
声は、思ったより落ち着いていた。
皇帝は、しばらくイリスを見ていた。
怒りはある。
失望もある。
だが、それだけではない目だった。
「なぜ、自室に留めたか分かるか」
最初の問いは、静かだった。
イリスは少しだけ目を伏せる。
「私が、父上のお怒りに触れたからです」
「それだけではない」
皇帝は即座に言った。
イリスが顔を上げる。
「お前の言葉は、皇女のわがままでは済まん」
「騎士団領で任官したい」
「客人の立場を捨てたい」
「その一言が、帝都の貴族に渡れば騒ぎになる」
「騎士団領の者に渡れば、利用しようとする者も出る」
「判断前に火が広がれば、戻れるものも戻れなくなる」
声は低い。
だが、感情だけではなかった。
「だから止めた」
イリスは黙る。
怒られたので、閉じ込められた。
そう思っていた。
それは間違いではない。
けれど、それだけではなかった。
皇帝は、火が広がる前に止めたのだ。
イリスの願いを消すためではなく。
願いを、政治の火種で潰さないために。
少しだけ、胸が痛んだ。
「……申し訳ありません」
「謝罪を聞くために呼んだのではない」
皇帝は言う。
「聞くためだ」
「お前は、本気で騎士団領へ戻るつもりか」
イリスは、真っ直ぐ皇帝を見た。
「はい」
短く答えた。
「客人ではなく?」
「はい」
「任官し、役職を持ち、責任を負うつもりか?」
「はい」
「レオンハルト・ヴァイスのためか」
一瞬、イリスは止まった。
アシュレイも、わずかに視線を向ける。
皇帝の目は鋭い。
嘘は許されない。
誤魔化しも、きっと通じない。
イリスは、少しだけ息を吸った。
「その方の影響はあります」
正直に答えた。
皇帝の表情は変わらない。
「ですが、それだけではありません」
「私は、あの場所で初めて、見ているだけでは嫌だと思いました」
「役に立ちたいと思いました」
「守られる客人ではなく」
「責任を負う側に立ちたいと思いました」
言葉にすると、少し怖かった。
けれど、嘘ではなかった。
皇帝は黙っていた。
長い沈黙だった。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
「皇女であることを、軽く見ているのか」
皇帝が問う。
「見ていません」
「騎士団領へ行けば、皇女ではなくなると思っているのか」
「思っていません」
「ならば、分かるはずだ」
皇帝の声が重くなる。
「お前がどこへ行こうと、皇女であることからは逃げられん」
「はい」
「むしろ、騎士団領に入れば、より強く見られる」
「帝都の目にも」
「騎士団領の目にも」
「サルヴァディアの目にも」
南方の名が出た瞬間、空気がさらに重くなる。
イリスは唇を結んだ。
「それでも行きたいのか」
「はい」
「では、代償を払え」
静かな言葉だった。
けれど、その一言で部屋の空気が変わった。
アシュレイが、少しだけ目を伏せる。
イリスは皇帝を見る。
「代償……ですか」
「そうだ」
皇帝は、机の上に置かれた書状へ視線を落とす。
騎士団領から届いた、ヴァルド総長名義の書状。
イリスを受け入れるという書状。
その紙が、今はひどく遠く見えた。
「戻るなら、条件がある」
皇帝は言った。
「一つ」
「騎士団領に任官する以上、お前は帝都の皇女としての宮廷内の立場を一部失う」
イリスは息を止めた。
「宮廷でのお前の席は空ける」
「戻っても、元の場所には座れん」
重かった。
思っていたよりも、ずっと。
帝都に居場所がなかった。
そう思っていた。
姉妹の中で浮いていた。
皇城で息苦しかった。
それでも、ここは生まれた場所だった。
自分が皇女として育った場所だった。
そこにあった席を失う。
失ってから、戻れないかもしれない。
それは、想像よりずっと痛かった。
「二つ」
皇帝は続ける。
「一年だ」
「一年で、帝都と騎士団領を繋ぐ役目を果たせ」
「ただ滞在するだけでは認めん」
「ただレオンハルト・ヴァイスの近くにいるだけでも認めん」
「役職者として、成果を示せ」
イリスは静かに息を吸う。
一年。
短くはない。
だが、長くもない。
その間に結果を出せなければ。
「三つ」
皇帝の声は変わらない。
「果たせぬなら、帝都へ戻す」
「以後、騎士団領への任官も、長期滞在も認めん」
今度こそ、胸が強く痛んだ。
騎士団領へ戻れるかもしれない。
けれど、失敗すれば、二度と戻れない。
あの場所へ。
リリアが笑う場所へ。
メリーが、お姉様と呼んでくれる場所へ。
エリシアが、本当のことを言ってくれる場所へ。
レオンが、客人だからと線を引きながらも、信用していると言ってくれた場所へ。
戻れなくなる。
イリスの指が、少し震えた。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
「怖いか」
皇帝が問う。
イリスは、すぐには答えられなかった。
怖かった。
とても。
騎士団領へ戻れない未来が。
帝都での場所を失うことが。
兄に迷惑をかけることが。
自分の決断が、誰かを傷つけることが。
「……怖いです」
小さく答えた。
嘘はつかなかった。
皇帝は黙っている。
イリスは続ける。
「でも」
「それでも、行きたいです」
声は震えていた。
だが、途切れなかった。
「皇女であることから逃げたいわけではありません」
「帝都を捨てたいわけでもありません」
「ただ」
「見ているだけでは、もう嫌なんです」
言葉が、少しずつ形になる。
「私は、あの場所で」
「初めて、自分でそこに立ちたいと思いました」
「客人ではなく」
「誰かの後ろに守られるだけでもなく」
「責任を持って、役に立ちたいと思いました」
イリスは頭を下げる。
「だから」
「条件を受けます」
「一年で結果を出します」
「失敗すれば、戻されることも受け入れます」
「それでも」
「私は、騎士団領へ戻りたいです」
部屋は静かだった。
アシュレイは何も言わない。
皇帝も、すぐには答えない。
ただ、イリスを見ていた。
皇女としてではなく。
娘としてでもなく。
一人の人間として、見定めるように。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
「アシュレイ」
皇帝が口を開いた。
「はい」
「お前は、これを推すのか」
アシュレイは静かに頭を下げる。
「はい」
「妹だからか」
「妹だからこそ、甘い判断はしません」
「イリスには、騎士団領と帝都の双方を見る目があります」
「今後の騎士団領には、帝都と現場の間を繋ぐ者が必要です」
「それが誰でも良いなら、私もここまで申しません」
皇帝はアシュレイを見る。
「失敗すれば、お前の責にもなる」
「承知しています」
「皇太子が妹を甘やかしたと言われるぞ」
「その程度は、私が受けます」
静かな声だった。
だが、強かった。
イリスは兄を見る。
胸が、また痛んだ。
自分の決断は、自分だけでは済まない。
兄にも重さが乗る。
それでも、アシュレイは退かなかった。
「……兄様」
小さく呟く。
アシュレイは、ほんの少しだけ笑った。
すぐに表情を戻す。
皇帝の前だから。
皇帝は、長く沈黙していた。
やがて。
「よかろう」
低い声だった。
イリスは息を止める。
「許可するとは言っていない」
すぐに続く。
イリスが少しだけ固まる。
「正式な任官先、役職、責任範囲、報告経路」
「すべて整えろ」
「騎士団領からの書状だけでは足りん」
「帝都側の監督も必要だ」
皇帝はアシュレイを見る。
「お前が窓口になれ」
「承知しました」
「月に一度、報告を入れさせる」
「はい」
「問題があれば、即時帰還だ」
「はい」
そして、皇帝はイリスを見る。
「イリス」
「はい」
「戻るなら、皇女として戻るな」
一瞬、イリスは顔を上げる。
「皇女であることを忘れるな」
「だが、皇女であることに甘えるな」
「任官するなら、役職者として扱われる」
「失敗すれば、役職者として責を問う」
厳しい言葉だった。
だが、そこには道があった。
閉じられた扉ではない。
細くても、確かに開いた道だった。
「それでも行くか」
皇帝が問う。
イリスは、今度は迷わなかった。
「行きます」
静かに。
はっきりと。
「私は、戻ります」
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇帝執務室
皇帝は、イリスの答えを聞いても表情を変えなかった。
ただ、机の上の書状へ視線を落とす。
ヴァルド総長の書状。
騎士団領の受け入れ意思。
帝都の懸念。
皇女の覚悟。
すべてが、まだ不安定だった。
だが、動き始めている。
「下がれ」
皇帝が言う。
「正式な結論は、追って出す」
「はい」
イリスは深く頭を下げた。
アシュレイも続く。
二人は、静かに退室する。
扉が閉まる直前。
イリスは、一度だけ振り返った。
皇帝はこちらを見ていなかった。
ただ、書状を見ていた。
怒りは消えていない。
許されたわけでもない。
だが、切り捨てられたわけでもなかった。
■ヴェリア帝国・帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・廊下
廊下に出た瞬間。
イリスは、ようやく息を吐いた。
膝から力が抜けそうになる。
けれど、踏みとどまった。
「よく言った」
アシュレイが静かに言う。
イリスは小さく笑う。
「怖かったです」
「だろうな」
「兄様にも、ご迷惑をかけます」
「今さらだな」
「ひどいですね」
「事実だ」
少しだけ。
イリスは笑った。
騎士団領で笑っていた時のように。
ほんの少しだけ。
「戻れるでしょうか?」
小さく聞く。
アシュレイは歩き出しながら答えた。
「戻るのだろう?」
一瞬、イリスは目を丸くする。
それから、静かに頷いた。
「はい」
「戻ります」
帝都には、生まれた場所がある。
けれど。
帰りたい場所は、もう決まっていた。
そのために、イリスは初めて、代償を受け入れた。




