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やめたい騎士団長は、なぜか昇進し続ける  作者: カンヌワルト
第一章 やめたい騎士団長の日々
154/158

帰る場所がない皇女

――帝国暦三二一年・秋初め ヴェリア帝国 帝都アウレシア 皇城《アルケイオン宮》・皇女私室――


 部屋は、美しかった。

 高い天井。

 磨かれた床。

 薄い絹の天幕。

 窓辺には、帝都の庭園が見える。


 何も不足はない。

 皇女の部屋として、十分すぎるほど整っている。


 だが、イリスは、少しだけ息苦しかった。

「……広いですね」

 小さく呟く。

 声は、部屋の中で静かに消えた。


 騎士団領の部屋より、ずっと広い。

 ずっと上等で。

 ずっと静かで。

 ずっと退屈だった。


 イリスは椅子に腰掛けたまま、窓の外を見る。帝都へ戻ってから、外出は制限されていた。


 正式には、反省。

 実質は、留め置き。

 皇帝である父が怒っている。


 それは分かっていた。

 皇女が、騎士団領で任官したいなどと言い出したのだ。


 当然だ。

 分かっている。

 分かっているからこそ。

 少しだけ、笑ってしまう。


「……本当に、困った娘ですね」

 自分で言って。


 少しだけ、寂しくなった。


 ■皇女私室


 扉が鳴った。

 返事をする前に、控えていた侍女が来客を告げる。


「皇女殿下方がお見えです」

 イリスは少しだけ目を伏せた。

「通してください」

 間もなく、数人の皇女が部屋に入ってきた。

 異母姉妹。

 血は繋がっている。

 だが、近いとは言い難い。

 年上もいれば、同じくらいの年頃の者もいる。


 皆、美しい。

 皇族らしく。

 帝都らしく。

 整っていて、隙がない。


「イリス」

「久しぶりね」

「騎士団領から戻ってきたと聞いたわ」


 声は穏やかだった。

 けれど、その奥には、好奇心があった。

 心配ではない、確認。

 あるいは、噂の続きを見に来たような目だった。


 イリスは笑う。

 いつものように。

 帝都で覚えた笑い方で。


「ええ。少し戻ってきています」

「少し?」

 一人が小さく笑った。

「父上に怒られて閉じ込められていると聞いたけれど」

「反省中です」

 イリスは軽く返す。


 それで済ませられるなら、楽だった。

 だが、姉妹達は簡単には済ませない。


「騎士団領で任官したいそうね」

「皇女が?」

「書類仕事でもするの?」

「随分と変わった遊びを覚えたのね」


 柔らかい声。

 けれど、刺さる。


 イリスは笑ったままだった。

「遊びではありませんよ」

「あら、では本気なの?」

「その方が問題ではなくて?」


 また笑い声。

 小さい。

 上品で。

 冷たい。


「それとも」

 一人が、少しだけ首を傾げる。

「その騎士団長が、よほどお気に入りなのかしら」


 空気が、少しだけ変わった。

 イリスは、笑みを崩さない。

 崩さなかった。


「騎士団領には、興味深い方が多いですから」

「答えになっていないわ」

「そうでしょうか」

「昔からそうよね、イリスは」


 姉の一人が言った。

「何を考えているのか、よく分からない」

 それは、悪意というより。

 長年の感想だった。

 イリスは少しだけ目を細める。


「私も、自分でよく分からない時があります」

「でしょうね」

 また、笑い声。

 イリスは笑う。


 笑って、受け流す。

 それは得意だった。

 皇城で生きるには、必要な技術だった。


 ■皇女私室


 昔から。

 イリスは、少し浮いていた。

 母が違う。

 立場が違う。

 後ろ盾が違う。

 興味も違う。


 姉妹達は、それぞれの母の家と、帝都の人脈と、将来の立場を背負っていた。


 誰と近づき。

 誰を避け。

 どの派閥と笑い。

 どの言葉を飲み込むか。

 皆、自然に覚えていた。

 イリスも、覚えてはいた。


 しかし、どうしても息が詰まった。

 綺麗な言葉。

 整った笑み。

 見えない線。


 誰も大声を出さない。

 誰も走らない。

 誰も書類を抱えて廊下を駆けたりしない。

 当然だ。

 皇城なのだから。

 それが正しい。


 それなのに。

 イリスは、いつも少しだけ場違いだった。

 皇女でありながら。

 皇女の中で、うまく居場所を作れなかった。


 そんなある日。

 同母兄であるアシュレイが言った。

「なら、騎士団領へ行ってみるか」

 何気ない言葉だった。


 名目は視察。

 皇族として、騎士団領を見る。

 東ロンバルディア帝国騎士団領。

 帝都とはまるで違う、軍事特化の土地。

 最初は、少し離れるための理由だった。

 逃げ道に近かった。


 だが、行ってみると。

 そこには、帝都とは違う空気があった。


 雑で。

 硬くて。

 騒がしくて。

 不器用で。

 誰も、イリスを皇城の駒としては見なかった。


 もちろん、皇女として扱われた。

 丁重に。

 距離を置かれて。

 客人として。


 それでも。

 リリアは笑ってくれた。

 メリーは、お姉様と呼んでくれた。

 エリシアは、皇女殿下と呼びながら、きちんと本当のことを言ってくれた。


 レオンは。

 客人だからと線を引いた。

 それが悲しかった。


 けれど。

 信用しているとも言った。

 あまりにも真っ直ぐに。

 それが、ずるかった。


 気づけば。

 あの場所は。

 息ができる場所になっていた。


「聞いているの、イリス?」

 声に、意識が戻る。

 姉妹達はまだそこにいた。


 美しく。

 正しく。

 皇女らしく。


「すみません。少し考え事を」

「騎士団領のこと?」

「ええ」

「そんなに良かったの?」


 問いには、少しだけ棘があった。

 イリスは笑う。

 今度は、ほんの少しだけ本当に。

「はい」

 姉妹達が止まる。


「良い場所でした」

 その言葉は、自然に出た。

 取り繕えなかった。

 イリス自身、少し驚いた。


「……変わったのね」

 誰かが言った。

「そうかもしれません」

「皇城が嫌になった?」


 イリスは少し黙る。

 嫌いではない。

 ここは生まれた場所だ。

 育った場所だ。

 美しい場所だ。

 守られてきた場所だ。


「嫌になったわけではありません」

 静かに言う。

「ただ」


「戻りたい場所が、別にできただけです」

 姉妹達は、しばらく黙った。

 その沈黙は、先ほどまでとは違った。

 理解ではない。

 共感でもない。


 ただ、イリスが、本気でそう言っていることだけは伝わったのかもしれない。


「……そう」

 誰かが短く言う。

「父上がお許しになるといいわね」

 それは、慰めだったのか。

 皮肉だったのか。

 分からなかった。


 やがて姉妹達は去っていった。

 香の匂いだけが、部屋に残る。


 一人になると。

 部屋は、また広くなった。

 静かで。

 美しくて。


 どこか遠い。

 イリスは窓辺に立つ。

 帝都の庭園が見える。

 整えられた木々。

 石畳。

 噴水。

 何も乱れていない。


 騎士団領なら、今頃どうだろう。

 レオンは嫌そうな顔で書類を見ているだろうか。


 エリシアは静かに叱っているだろうか。


 リリアは一人分多くお茶を用意していないだろうか。


 メリーは、自分をお姉様と呼んでくれるだろうか。


 そんなことを考えて。

 胸が少し痛くなる。

「……帰りたいですね」

 小さな声だった。


 ここは帝都だ。

 生まれた場所。

 皇女としての場所。

 なのの、帰りたいと思う先は。


 もう、別にあった。

 それが少し怖くて。

 少しだけ、嬉しかった。


 扉が鳴る。

 今度は、侍女の声が少し硬かった。


「イリス皇女殿下」

「何でしょう」

「陛下がお呼びです」

 一瞬、部屋の空気が変わった。


 イリスは目を伏せる。

 父が呼んでいる。

 叱るためか。

 問うためか。

 許さないためか。

 分からない。


 けれど。

 行かなければならない。

 逃げるつもりはない。


 客人のままでいたくないと願ったのは、自分なのだから。


「分かりました」

 イリスは立ち上がる。

 衣を整える。

 髪に触れる。

 鏡を見る。


 そこには、皇女の顔をした自分がいた。


 でも、その奥に騎士団領で笑っていた自分も、確かにいた。


「行きましょう」

 静かに言う。

 扉が開く。


 帝都には、生まれた場所があった。

 けれど、帰りたい場所は。

 もう、別にあった。

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