聖女の仕事
馬車を降りた瞬間、乾いた土の匂いが鼻をついた。
王都よりもずっと強い日差し。風が吹いているのに、涼しさより先に、細かな砂ぼこりが頬を撫でていく。
「聖女様、長旅でお疲れのところ申し訳ございません。こちらへ」
地方神殿の神官に案内され、私は小さく息を整えてから歩き出した。
フォーン男爵領にほど近い村――私の実家からは馬車で二時間ほどの場所だ。遠くに見える山の稜線や、畑の向こうに立つ古い風車の形は、どこか見覚えがある。
(不思議。来たことは無いのに懐かしい感じがする)
神殿の前には、すでに村人たちが集まっていた。
誰もが一様に不安そうな顔をしている。中には幼い子どもを抱いた母親や、腰の曲がった老人もいた。私の姿を見つけると、ざわりと空気が揺れる。
「聖女様……」
「本当に来てくださったんだ」
「ありがたや……」
その声に、胸の奥がきゅっと縮む。
やっぱり、来てよかった。
「すぐに畑を見せてください」
私がそう告げると、神官は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お休みにならずに、よろしいのですか」
「はい。馬車で十分休みましたから」
揺られすぎて体が馬車の一部になりかけていたけれど。これはたぶん、歩いたほうが回復する。
隣に立つアルデン先輩が、呆れたようにため息を吐いた。
「……無理はすんなよ」
「わかってます」
「ほんとかよ」
小声でそう言う先輩を横目に、私は村人たちに案内されて畑へ向かった。
神官がちらりと先輩を見るけれど、アルデン先輩は、そんなことはお構いなしについてくる。
「このひと月日照りが続いておりまして。幸いなことに飲み水は確保できておりますが、農作物が――」
神官が歩きながら情報を整理してくれる。
そうしてたどり着いた畑は、思っていたよりも酷かった。
完全に枯れているわけではない。けれど、葉先は力なく丸まり、茎は細く、ところどころ土が白っぽくひび割れている。
まだ間に合う。そう思えるぎりぎりのところで、かろうじて踏みとどまっているような景色だった。
「あと少しなのです」
案内してくれた初老の男性が、かすれた声で言った。
「ここを越えれば、穂が入ります。けれど、このままでは……」
言葉の先は、誰も口にしなかった。
私は畑の端に膝をつき、そっと土に手を触れた。乾いている。指先に触れる土は軽く、少し力を入れるだけでほろほろと崩れた。
(まずは、できることから)
目を閉じ、光をそっと降らせる。
白く柔らかな光が、私の手のひらから畑へと降りていく。葉を撫で、茎を包み、ひび割れた土の上に薄く広がる。
人々が息を呑む気配がした。
しおれていた葉が、ゆっくりと開いていく。項垂れていた茎が、ほんの少しだけ背を伸ばす。枯れかけた色の中に、かすかな青みが戻った。
「おお……」
「本当に……」
「女神様の光だ……」
村人たちの声が震える。
私は光を少しずつ広げながら、畑全体の様子を確かめた。どの株も弱ってはいるけれど、まだ命は残っている。
(よかった。役に立てそう)
聖女の治癒は、植物の成長を促せるわけじゃない。でも、今日を越えられるだけの力は戻せる。なら、穂が入るまで明日も、明後日も、必要なら何度だってやればいい。
「ひとまず、この区画は大丈夫だと思います。次の畑へ案内してください」
「聖女様、少しお休みに」
「大丈夫です。今は、先に見て回りたいんです」
村人たちが涙ぐみながら頭を下げる。何度も、何度も。
そのたびに胸が苦しくなった。
(聖女って、こういうことなんだ)
光継祭で崇められていたのとも違う。思えばあれも、聖女としての自覚を持った出来事だったけど。
ここでは私の光が本当に生活に直結する。作物が枯れれば、収穫が減る。収穫が減れば、冬を越せない家も出るかもしれない。
(なんか……神殿への反抗心とか、ちょっと恥ずかしくなってきた)
政治とか、神殿の権威とか。そういうことを考えていられること自体がどれだけ平和なことなのかを思い知らされる。
ふう、と小さなため息が漏れた。
気分を変えるように視線を遠くに向けて、ふと思考が現実に戻る。
(そう言えば――実家の周りで水が途絶えたなんて話は聞いたことがなかったな)
地形も気候も、フォーン領とそう大きく違うようには見えない。
それなのに、この村だけがここまで乾いている。
今年の日照りだけが原因なら、フォーン領にも似たような被害が出ていそうなものだけれど。
「水路は?」
「こちらです。例年なら、ここに水が流れているのですが」
村人に案内され、私は水路を覗き込んだ。
「……え」
思わず声が漏れる。
石で縁取られた細い水路。底には湿り気すらなく、乾いた泥がひび割れて固まっている。水草だったらしいものが、茶色く縮れて底に張り付いていた。
水が足りないどころじゃない。水が、全くない。
「これはいつから――」
そう尋ねると、村人は困ったように首を振った。
「雨が降らなくなって、徐々に。
ただ、ここは祈り場の湧き水から引いている水路でして。多少日が照っても、完全に干からびることなど……」
「祈り場?」
私が顔を上げると、村人は少し離れた山裾を指差した。
畑の向こう。岩場に寄り添うように、小さな白い建物が見える。
「あそこ……」
「女神様の祈り場です。昔から、村の水を見守ってくださる場所で」
神官が、横から静かに補足した。
「土地の平穏を祈るための古い祈り場です。村の者たちも、収穫前には必ず祈りを捧げます」
「そこから、水が?」
「ええ。正確には、あの祈り場の奥にある湧き口から、石の水路で畑へ分けております」
「祈り場……」
豊作を願う祈り場があるのは、特に珍しくもないことだ。けれど、その言葉がどうしてか気になった。
この感覚を、以前に経験している気がする。
けれど、それがいったい何だったのかが、どうにも掴めない。
(なんだろう……何か、何かわかりそうなのに……)
私はもう一度、水のない水路を見下ろした。
学園に来た神官が言っていた通り、一週間持ちこたえれば黍に穂が入るだろう。そうすれば、今年の収穫は確保できる。
けれど、この水路に水が戻らなければ――
来年以降も同じことの繰り返しだ。
「――その湧き口を、見せていただけますか」
見ても何も変わらないかもしれない。
聖女の範疇を超えている気もする。
けれど、どうしてもこの違和感を無視してはいけない気がした。
「もちろんです。こちらへ」
山裾の祈り場へ歩き出す神官の後を、乾いた水路に沿って追う。
歩きながらもう一度白い祈り場を見上げた。
女神の光を象った紋章。乾いた風に揺れる草。
どこにでもありそうな、地方の祈り場。
なのに、なぜだろう。
その奥に湧き口があると聞いた瞬間から、頭の片隅で何かが小さく鳴っている。
からから。
しとしと。
懐かしい旋律が、不意に記憶の底から浮かび上がった。
――赤穂様、赤穂様。
(あ……この歌——)
子どもの頃、何の意味も考えずに歌っていた遊び歌。門を作って、くぐって、最後に捕まった子が笑いながら鬼になるだけの、どこにでもあるような童歌。
赤穂様、赤穂様。
門あけて。
行きはからから。
帰りはしとしと。
「……聖女様?」
前を行く神官に声をかけられて、私ははっと顔を上げる。
「あ、いえ。何でもありません」
慌てて小走りで追いかける。アルデン先輩が、ポン、と肩をたたいて「無理すんな」と小さく囁いた。
大丈夫、と目だけで合図する。頭の中では、赤穂様の歌が鳴り続けていた。




