薔薇の葉 *
新月。
空気の冴えた冬の夜空だというのに、星もまったく見えない。白い息を吐いて、ローズは船の甲板から空を見上げる。
足下にあるとばかり思っていた闇は、天上にも広がっていた。昼間は青を薄く伸ばした空と、それより一段濃い色をはるか遠くまで広げた海は、今は揃いの闇色。ショールをかき合わせ、ローズは冷え切った指先に息を吐きかけた。
…堕ちてみれば闇は穏やかで、それまで敬遠していた温もりで包んでくれる。
―――「ローズ」
波音をかき分けて名を呼ばれ、ローズが振り向くとアーサーが上着片手に駆けてくるところだった。
「身体が冷える。風邪をひくよ」
ローズよりもずっと薄着のくせ、そう言ってアーサーは彼女に上着を羽織らせた。そのままなんとなく、ふたり並んで別たれてはまた交わる黒い波に視線を落とす。
不快では無かった沈黙を破ったのはアーサーだった。
「…なあローズ、…怒ってる?」
質問の意味を呑み込むまで、しばらくかかった。
「…今さら?え、何に対して?今さら何に対して、それ?」
「…いや、もろもろ」
「もろもろ…!」
ローズは目を剥いた。質問がざっくりしすぎて、返答に困る。
怒っているかと訊かれれば、怒っている、としか答えられないが、それだけではないのだ。しかし「それ」の正体も、当のローズがきちんとかたちを掴めていない。
「ローズ、怒っていてもかまわないが、…無視はやめてくれ」
「…は、は!?」
しかめ面で大真面目に考えていたローズは顔を上げた。アーサーは苦悶に表情を歪め、波を見ている。
「無視されるのはほんとうにつらい。気に障る事があったなら殴るなり刺すなりしてくれ。出来たら口頭で注意を加えてくれるとありがたい。改善できるところはしていくから」
…ついこの間までの事だが、【女主人】と【使用人】の関係を固持していた頃、ローズはアーサーを視界に入れる事も忌避していた。
「…つらかったんだ…?」
「いっそ殺してくれと思ってた…」
アーサーはあの無表情の裏でこんな事を考えていたのか。まんま犬ではないか。主人が好きで好きで堪らない、犬。哀れだと感じつつも、ローズの唇は失笑にゆるんでいた。
気を抜いた身体をアーサーに抱きすくめられ、ローズは息を止めた。少し前まで触れられるだけで鳥肌をたてていたのに、もう嫌悪は無い。その事に苛立ちながら、諦め、受容をしている自分もいる。
「…抵抗、しないのか」
「しても無駄でしょう。…騒ぎを起こしたくないし」
寒いし、面倒だし、とローズが誰に向けてか判別できない言い訳を連ねれば、アーサーの笑いを含んだキスが額に降ってくる。…やっぱり嫌ではないのが複雑だ。
―――「アーサー、ずっこい!!」
騒ぎを起こしたくない、と言った直後にいきなりルナールの大声が甲板に響き、ローズとアーサーは期せずして同時に嘆息していた。
「ふたりとも船室にいないと思ったらさぁ、こんなところで僕抜きで!アーサーはいつもそうだよ、僕を出し抜いてローズを独り占めしようとするんだ!!」
ずかずかと大股で歩み寄ってきたルナールに背後から思いきり抱きつかれ、ローズは鈍い悲鳴をあげた。…ルナールの精神状態は別れた頃からあまり成長していない気がする。アーサー曰く、ローズに対してのみ幼児退行の症状が出るらしいのだが、人目のある場所では控えてほしい。
「ローズ、アーサーとキスしてた!じゃあ僕ともするよね?」
「…しないわよ」
なんだ、その方程式は。
しつこく言い寄ってくるかと思われたルナールは、しかし唇を尖らせるとあっさりと退いた。
「いいよー、新しい家に着いたら、アーサーそっちのけで僕、ローズといちゃいちゃするもんね」
「…わたしの意志は?」
ローズの言葉は我が道を行く狐の獣人には届かない。これが狐の狡猾さだろうか、とローズは思った。
「ねぇねぇローズ、新しい家ってどんなの?庭は広い?薔薇の生垣はある?」
矢継ぎ早の質問にローズは首を傾けて記憶を探る。ふたりぶんの獣の尻尾が機嫌良く振れるなか、ひとつの結論に辿り着いてローズは思わず笑ってしまった。
「ローズ?」
心配そうにのぞき込んでくるルナールにローズは笑いかけた。そう、気付かないうちに純粋な笑みを向けていたのだ。
「昔の家に似てる…」
「そうなの…?」
ローズの笑顔に硬直していたルナールの美貌に、雲を払うように笑みが広がった。
「大きな暖炉がある?おじいちゃんみたいなロッキングチェアも?」
「あるよ」
ルナールはますます笑みを深くし、ローズの頬にふわふわの獣耳を擦り付ける。
故郷を出て生き直す、と決意し、ローズは自分の理想を叶えるために歩き回った。家も、調度品も、自分の為だけに探して見つけて。
けれど振り返ってみれば、理想の具現は生家と酷似していた。
ローズのなかでは、幼い日の幸せと、初夏の夜の悪夢は切っても切れないものだ。だからこそ、まとめてパンドラの匣に押し込めて、忘れようとした。すべて捨ててしまう事が、楽になる近道だったのだ。
けれど、結局それは叶わなかった。パンドラの匣は開かれ、ローズが記憶としてのみ留めておいた思い出は、痛いほどの愛おしさと輝きを取り戻してしまった。
ああ、なんだ。わたしもふたりと変わらない。未練がましく過去に縋りついて、取り戻そうと必死になってあがいていたのか。
「ローズ、向こうについたらまずアンナに手紙を書け。あのひとの事だ、毎日ジンジャープディングを作っておまえを待ってる」
「……」
ローズの頭頂部に頬をつけ、アーサーが柔らかく囁く。無言のまま、ローズは素直にうなずいた。
ローズにくっついたまま、ルナールが首をかしげる。
「ね、ずっと聞きたかったけど、なんでジンジャープディングなの?ローズ、そんなに好きじゃないでしょ」
「うん、どっちかっていうとチェリープディングのほうが好き。でもプディングよりアップルクランブルが食べたい」
口にして、ローズは自分で驚いた。…そうだった。いちばん好きなのがアップルクランブルで、林檎が無い時期には母が代わりに洋梨や、他の果物で作ってくれていたのだ。
仕事をはじめて珈琲ばかり飲むようになったけど、ほんとうは紅茶の方が飲みやすい。紅茶を淹れたらスコーンにたっぷりのクロテッドクリームを合わせたい。それからジャムも。
…そういえば、そうだった。思い出して、ローズは笑う。
「…わたし、あの国に好きなもの、いっぱいあったんだった」
両親への感情は未だ複雑だ。差別と選民意識で凝り固まった国への郷愁は露ともわかない。それでも、あの初夏の夜までローズは間違いなく彼らのもとに産まれ、アーサーとルナールと出会えた事を感謝していた。
確かに愛していたひとたちを激しく拒絶し、遠ざけたのは、きっとやっぱり愛情からだった。
―――憎んだ事は事実だよ。でも嫌いになれなかった、最後まで
ルナールの言葉がすとん、と胸に落ちてきて、ローズは笑いながら涙をこぼす。
もの心ついた頃から、ローズが泣いた時にいちばん近くにいてくれたのはアーサーとルナールだった。色々なものが変化してしまったけど、彼らの根幹は変わらない。今もやっぱりいちばん近くで寄り添って、ローズが泣き止むのを待っている。
「…あたらしい家、庭はあるけど花が少ないの」
ぐすぐすと洟をすすりながらローズがつぶやけば、アーサーとルナールがちいさく首肯した。
「ルナール、薔薇…、植えて。新種の薔薇が咲いたら、アーサー、いっしょに市場に打って出よう」
子供の頃の夢は、どうしようもなく歪んでしまった今でも叶える事ができるだろうか。頭を撫でてくれるアーサーにくっつき、ローズは目を閉じる。
そういえば、屋敷を出る頃にはルナールが懸命に手入れしていた薔薇の開花時期は終わり、すっかり緑だけになっていた。愛でてくれる者がいなくても、来年もあの薔薇たちはおなじように花を咲かせるだろうか。
薔薇にはさまざまな花言葉が付随する。そういえば、葉にすらも。
「…薔薇の葉の花言葉って、なんだったっけ…」
どうしても思い出せないローズの問いに、すぐさまアーサーとルナールが答えを出す。
左右の耳元で睦言のように囁かれた返答に、ローズは笑っていた。
おあつらえむき。まるで計ったようではないか。
瑞々しい緑を目にして、ひとは後の花を想像し、期待する。
―――アーサーに手伝ってもらって、ルナールの咲かせた新種の薔薇を売って。小さくてもいい、3人で暮らしていけるだけの店を持って。
どれくらいぶりだろう。アーサーとルナールのすっかり冷たくなった手を引いて、ローズは未来の話をする為に船室に戻った。