草原の廃砦
方向感覚が狂ってしまいそうな深い森を、ハルカは右手のサバイバルナイフで邪魔になる草や木の枝を打ち払いながら、勘を頼りに進んでいた。
砂浜を出発してからすでに4日が過ぎている。あれから猛獣に襲い掛かられるような事態には遭遇していなかった。生き物の気配は時折感じるのだが、すぐに離れていく。あえて得体のしれない彼女に攻撃を仕掛けてくるほどお腹を空かせた獣は、そうそういないのかもしれなかった。
数日にわたって森を探索する中で、ハルカもだいぶ自分の体に対する理解が深まってきた。
まず、この体は随分と燃費が良かった。初日に食べた幾つかの赤い実でHPを半分程度まで回復させた後は、ほぼそのままの状態を維持していた。歩くぐらいではあまりエネルギーを使わないらしい。ただし空腹感は消えなかった。我慢はできるのだが、やっぱりお腹が減っているとちょっぴりイライラする。食べ物が見つかればHPを8割くらいまで回復させたいところだ。
次に、EPはフルになった。しかし使い道が無い。ゲーム時代はスキルの発動に必要だったが、今はスキルもまっさらだ。覚えるためにはショップでスキルディスクを購入する必要がある。現状では望み薄だ。
そして、BEPは相変わらずゼロのままだ。何か条件があるのかもしれない。まぁ、その前に何に使うのかまったく解らないが。
あと、トイレは[ファンが夢見るアイドル]状態だった。いや、正確に言うと[小]には海の水をがぶ飲みした初日に一度だけ行った。いずれ幻想が壊される日がくるかもしれないが、とりあえずは先送りできている。今の状況でトイレの心配をしなくて済むだけでも幸せだった。
もし、ヒューマン種族のプレイヤーに会えたら絶対自慢してやろう。ハルカは心の中の[友人に会えたら必ず話す事リスト]にその事項を加えた。
いい加減、単調な森の探索にも自分の体の探求にも飽きが来た頃、徐々にだが木々の間隔が広がり始めた。ようやく森を抜ける事ができそうだと、ハルカは足を速める。
小一時間、まばらになってきた木々の間を早足で抜けると、ついに森が終わり、豊かな緑が広がる草原へとたどり着いた。遠くにはちらほらと大型野生動物の姿も見える。動きがあまりない所を見ると、草食動物なのかもしれない。
前方はなだらかな小高い丘になっていた。後方から右側にかけて広がる森の遥か向こうには、淡い色彩を纏った雄壮な山々が連なっている。左側奥には海岸線が見え、海からあまり離れていなかった事にハルカは安堵した。
丘を登りきると、数キロ先に高い壁のような構造物が横に広がっているのが見えた。その向こうには建物が立っているのも確認できる。ついに文明に接触する日が来たようだと期待にハルカの胸が高鳴る。
「あ~でも、ちゃんと人なのかなぁ?有名スペースオペラの宇宙人みたいに爬虫類っぽい生物とかだったらどうしよう。言葉は…この意地悪な世界なら通じない気がする。ゼスチャー?なんかヤバそうなら逃げるしかないよね。友好的そうなら…そうだな、定番だとやっぱ記憶喪失のフリかな?」
ハルカは自分の考えを言葉にしながら、足早に進む。そして、ついには我慢できずに走り始めた。
結果的にハルカの期待は裏切られる事になった。
たどり着くと、壁は至る所が破壊されボロボロだった。崩れた隙間から中に入ると、荒れ放題の農地(だったようなものの跡)が広がっている。内側には荒れ地を挟んでもう一重、居住区域の建物をを守るように壁があったが、それも無残に壊されていた。
人が住んでいたであろう建物をよく調べてみる。放棄されてから数年といった様子だ。支柱の折れたベッドや扉が無くなった物入れ、割れた食器と竈に井戸の跡など、どうやら生活様式は自分たちとあまり変わりがないようで安心する。
中心地には頑丈そうな石造りの砦も存在したが、やはり中は荒らされてもぬけの殻だった。
「残念だったけど…でも」
ハルカは砦の屋上から周りの景色を眺めながらつぶやいた。
砦からは数本の道が土地を分割するように張り巡らされているのが見える。そしてそのうちの一本が壁を越え、外へと続いていた。
この道の向こうには必ず人がいる。彼女は改めて希望を持つ事が出来た。
砦と民家の探索にかなりの時間を割いたせいで、気が付くと随分と日が傾いていた。今晩はこの砦で休息を取る事にする。
砦の中にはまあまあ良い状態の部屋がいくつか存在したので、そこを簡単に掃除して横になって眠れるように整えた。荒れた畑の端に植えられていた木には、数個の木の実が生っていたのでもぎ取って持ってくる。
今日と明日はここで力を蓄えて…それから人の住む街を探しに行こう。
ハルカはそう決めると、木の実をかじりながら少し壊れかけた硬いベットに横になった。こんなに落ち着いた気分になれたのは、この惑星に降りてきてから初めてのことだった。
獣は久しぶりにその匂いを嗅いだ。
獲物が持つ甘い匂いと、こびり付き煤んだ血の匂いが複雑に絡み合った芳しい香り。それは闘う人の匂いだ。
抵抗もなくただ喰われるだけではない。闘う術を持ち、死に抗うモノ。獣はそんな彼らを狩るのが好きだった。
匂いは森から草原に移動して、丘の向こうに消えていた。焦る事はない。もうすぐ我らの時間だ。今夜は存分に楽しめるだろう。
人からは魔獣と呼ばれる、快楽という本能にのみ従って狩りを行う獣は、巣穴の奥で静かにその時を待った。