お兄様と一緒
カリッと焼けたバゲットの表面を、黄色いバターがゆっくりと溶けて滑り落ちる。果肉をたっぷり使ったフルーツジャムは常時数種類が用意されていて、わたしはオーソドックスに木苺と林檎のジャムがお気に入りだ。パプリカとハーブを練りこんだハムやソーセージ、とろとろのスクランブルエッグ、生ハムとグレープフルーツのサラダに、カリフラワーのポタージュ。
久しぶりに家族と食べる朝食は、いつも以上に美味しく感じた。
目が覚めて数日、ずっとベッドの上で重湯や具のないスープばかりの生活だったんだもの。バゲットひとつでも胃と心が満たされると言うものだ。
どれもこれも、とても美味しい。けれど、日当たりの良いパーラーのテーブルに並んだ皿数や食事内容は、決して豪華なものではなかった。むしろ、上流階級の朝食としてはかなり質素な部類だろう。
わたしは生まれたときからこの環境だし、よそのお宅のエンゲル係数を知らないから疑問に思ったことはなかったのだけど、前世のイメージでは貴族って毎日毎食、食べきれない量の食事を並べて朝からワインやビールを飲んでるのよね。
けれど、我が家の食卓にそう言う趣向は見られない。
前の世界と今の世界、どれほど貴族社会の常識に齟齬があるのか気になったので、以前ジーンに訊ねたことがある。
「よそのお家のご飯は、もっと豪華なの?」
あの瞬間の、哀れむような彼の目は忘れられない。
「……足りませんか?」
「なんでそうなるのよ」
人を食いしん坊みたいに言うんじゃないわよ。
そこにあるのが当たり前で、深く考えることなく享受してきた生活について振り返っただけで、そんな目で見られることある?
「グラニースミス家の皆様は無駄を厭いますから、食べ切れない量の食事も“無駄”と判断されたのでしょう。食事の内容に関して代々大きく変更はないと聞き及んでおります。もちろん、来客時は別ですが――お嬢様、やはり軽食を用意させましょうか?」
「だから、違うってば!」
文句を言いつつ、結局は木苺ジャムとクリームチーズを挟んだサンドイッチを作ってもらった。大変美味しかったです。
それはさておき、つまり上流階級の食事風景として我が家は異質なのだと分かった。
だけど、朝から胃に重たい肉料理や魚料理を出されても困るし、食べ切れずに残したときの罪悪感も半端ない。物心ついてから庶民の感覚を手に入れてしまったわたしには耐えられなかっただろう。量だけでなく無駄なカロリーも排斥されているので二重にありがたい。
グラニースミス家の家風は、わたしの胃と健康と精神衛生に優しかった。
それに、公爵家の令嬢が丸々としていたら、絵にならないものね。
……いや、でも待てよ?
ご機嫌にジャムを塗っていた手が止まる。
ここがゲームやラノベの世界だとしたら、太ってる悪役令嬢って言うのはキャラ的に有り寄りの有りなのでは?
なぜならわたしはヒロインの引き立て役。前世の記憶を取り戻すと言うイレギュラーが起きなければ、モリモリ食べてプクプク太っていたかもしれない。いえ、今だってモリモリ食べてるけども。ちょっと二の腕とかプクプクしてるけども。でも標準体型だし、育ち盛りの八歳児だから大目に見て欲しいの……
「ハリエット」
ジャムスプーンを持ったままフリーズしたわたしを、ギル様が訝しげに呼ぶ。
「は、はい」
「食事中にぼんやりするんじゃない」
「はい、お兄様……」
ギル様に怒られてしまった。しかし、いつものキレがない。わたしが病み上がりだから気を遣ってくれてるのかな。
そう言えば、昨日もお見舞いに来てくれたっけ。会わなかったけど、やっぱりギル様も少しは心配してくれていたのだろうか。……だとしたら、武装だなんだと言って追い返して悪いことをしてしまったわ。
食事の時も隙のない兄へ一瞥を投げる。
本日もギル様は顔が大変良ろしかった。なに、この横顔、芸術じゃん……。十一歳でこの美貌なのだから、将来が楽しみ過ぎて頰の緩みが止まらない。
わたしの、いかにもお金持ってまーす!って感じの派手な金髪と違って、少し烟った感じのアッシュブロンドは落ち着きがあってとても上品だ。彼の鮮やかな緑色の眸とも良く合っている。
兄はこの通りの性格だし、わたしは落ちこぼれで疎まれているから、これまであまり積極的に会話をした記憶はない。前世の記憶を思い出すまで、彼のことが怖かったのもある。
メンタル四十路超えの今となっては、いつ彼がわたしを雑種と罵ってくれるか楽しみでならないが。
それに、前世では長子だったから、兄姉と言う存在に憧れもあったのだ。
今世でその夢が叶い、その兄がこんなにも美形だったら――
そんなものは、攻略対象に決まってるではないか。
……なぜこんな簡単なことに気が付かなかったのか、自分で自分の能天気さが嫌になる。
将来、ハチャメチャにイケメンになることが約束されている我が兄ギルバートは、ヒロインに籠絡……もとい、攻略されてしまう運命にあるのだろうか。
むやみやたらと顔の良いモブが登場する乙女ゲームで、なぜ彼らの攻略ルートや専用スチルがないのかと血の涙を流した過去もあったけれど、ギル様を等しくモブ扱いするにはあまりにも条件が揃いすぎていた。
ヒロインをいじめる“推定”悪役令嬢であるハリエットの兄で、妹を疎んじており、イライジャ殿下とも親しい。
加えて容姿端麗、品行方正、将来有望。少し棘のある物言いをするけれど、おそらく親密度を高めるほどに貴重なデレを見せてくれるであろう。正統派ツンデレとはギル様のことよ。
そしてヒロインと恋に落ちた場合、ハリエットに恋路を妨害されるリスクを伴うガチのロミオとジュリエットのストーリーが繰り広げられるのだ。
こんな美味しいポテンシャルを秘めたうちの兄が、ただのモブで終わるなんてことがあるだろうか? いいや、ない。わたしがプレイヤーなら真っ先にギルバートのルートを選ぶ。スチル全回収する。
しかし、わたしはハリエット。
実の兄に断罪される運命(仮)まで背負った悪役令嬢だ。
あまりにも過酷な現実に、さすがのわたしも愕然とする。これ、罵って欲しいとかふざけてる場合じゃなくない?
まだ間に合うと信じて、今からでも兄妹仲を深めておくべきではないだろうか。
「そう言えば、ハリエット」
斜向かいに座っていた父が、にこにこと嬉しそうに口を開いた。
「魔法が使えるようになったんだってね」
「えっ」
ああ、やっぱり昨夜のうちにジーンが報告したのね。
父の隣で母も微笑んでいる。
「よかったわね、ハリエット」
魔法が使えなくて落ち込んだときもあったけれど、優しい両親はこんな出来損ないの娘でも愛してくれて、「気にしなくていい」と言ってくれた。彼らが純粋にわたしの成長を喜んでくれているのは分かるし、念願の魔法使いになれたのだ、わたしだって嬉しくないわけがない。
「……ありがとうございます」
でもステルス機能を高めるためには、むしろ落ちこぼれのままでいた方が良かったのではないだろうかとも思うのよね……
「でも、たまたまかも知れませんし……」
「大丈夫、練習すればきっとすぐに上手くなるさ」
「そうよ、ハリー。あなた、お勉強の出来は悪くないんだもの」
「……ですよねー」
困った、両親の期待が重い。
魔法の実技訓練が出来ない分、座学は頑張ってたからね、わたし。訓練の時間を刺繍やダンスに充てていたから、令嬢としての嗜みや教養もバッチリだ。魔法以外のステータスは、わりと満遍なく優秀であると自負している。一般教科の家庭教師が小憎たらしい従者だから、絶対に無様な成績を残すものかと意地になって机に噛り付いていたせいもあるけれど。
「おまえにも実技専任の教師を付けてあげたかったのだけど、なにしろ昨日の今日だからね。適任者が見つかるまでの間、ギルバートと一緒に学ばせてもらいなさい」
「えっ」
正気かな、このお父様。
絶対足手まといになって、さらにギル様から嫌われるやつじゃん。
しかし、これは断れる空気ではない……
「……あの、お兄様」
恐る恐る隣を見る。
わたしの魔法について兄は初耳だったらしく、長い睫毛を動揺に揺らしながら、彼は無言で見つめてきた。
「お、お邪魔にならないよう気を付けますので、よろしくお願いします……」
考えようによっては、これは兄との距離を詰める絶好のチャンスだった。拡大し続ける宇宙の如くわたしたちに心の距離がある場合、遠い惑星ほど速く移動するので永遠に追いつかない可能性もあるけれど。
……やめよう、悲しくなる。
ギル様はふいと目を逸らすと、「父上の命なら仕方がない」とぶっきらぼうに言った。
「ありがとうございます」
わたしは安堵する。
良かった、拒絶はされなかった。滑り出しはまずまずである。
今日は、おギルさんといっしょだ。
◆
およそ三年ぶりの実技、且つ病み上がりと言うことで、兄の魔法教科担当ダライアス先生に、「ハリエット様はひとまず見学していてくださいね」と言われた。妥当よね。異論はないので訓練場の隅で椅子に座り、兄の実技訓練を眺める。
植物オイルを使った日焼け止めクリームを塗り、ジーンが日傘を差してくれているので、日焼け対策は万全だ。
前の世界は魔法と言う神秘を忘れて科学技術を発展させていたけれど、ここは魔法と錬金術の世界。特にブレナム王国は精霊の加護のおかげで魔術産業が盛んだ。錬金術も貴金属を錬成する狭義の意味ではなく、蒸留水から医薬品まで、生活に関わる様々なものを作る技法を指している。
この世界の医師や薬師はみんな錬金術の心得があるので、アトリエを構えている市井の錬金術師は大抵、町医者も兼ねている。
彼らに共通しているのは、大地の加護を受けた者であると言うことだ。
土魔法のセンスに恵まれない者がいくら錬金術を学んでも無駄なのである。鉱物や植物を主に扱う職業なのだから、考えてみれば当然のことだった。
つまり、人間火炎放射器の能力しか備わっていないわたしは、パラケルススにはなれない。
作ってみたかったなあ、ホムンクルスに賢者の石……
前世の漫画やゲームの影響で、錬金術には憧れたものだ。名前の響きも格好いいじゃない?
公爵令嬢と言う立場上、労働は禁止されているけれど、王立研究所での就労は例外として認められている。国の発展に関わる中枢機関は、徹底的に才能重視なのだ。貴族も平民も関係なく、国費でひたすら研究に没頭出来る施設があるのは素晴らしいと思う。
科学も物理も必要としない世界観では、相対性理論も量子力学も存在しない。そう、シュレディンガーの猫なんていなかったんだ。
二十一世紀のテクノロジーを経験したわたしにとって、ここは神秘重視で前時代的にも感じるけれど、どこにでも天才はいるものだから、いつか誰かが違うプロセスで世界の真理に近付くこともあるのかも知れない。それはそれで、前とは違う視点から世界を見られるので楽しみである。
それに――
「お嬢様、真面目に見学されてますか?」
「もう、ちゃんと見てるってば」
「失礼しました。お顔が不真面目だったので」
「あんた、そろそろ本気でクビにするからね?!」
兄の杖が次々に風を生み、操っていく。ローブが舞い、くすんだ金髪が激しく踊る。
彼は、わたしが子どもの頃に憧れた魔法使いの姿そのものだ。
この訓練場で、何度兄の姿を盗み見たことか。
許されるなら「ギル様!」「こっち向いて!」と両面に書いたデコ団扇を扇ぎ、光る棒を振り回して応援したかった。許されないからやらなかったけど。
やっぱり、魔法は素敵だ。
そして、ギル様は格好良い。
ちょっと毛色が違う気もするけれど、こう言うのもブラコンって言うのかしら?