第15話 テ……リ、リィ、リ!
グロテスクかつ痛みを伴う描写があります。読まれる際はご注意ください。
「もう、何なんだよ」
「それ」は不定形の小山であった。ナメクジのように地を這い進むそれは、この世の汚泥と悪辣。その全てを集めて大きな鍋でぐつぐつ煮込んだような色をしていた。どんな色を付け足しても黒にしかならない表面は常に泡立ち、ポコポコと音を立てては弾けている。弾けると同時に、腐臭と黒の精霊が吐きだされていることが分かった。
それがまだ滑らかであれば救いはあっただろう。だが表面にはかつて生命だったと思わしき手足が突き立ったように生えており、しかもまだ生きているかのようにピクピクと痙攣している。
そんな手足の他にも目や耳、喉や口、生殖器に似た物体があり、その全ての器官が真琴に意識を向けていることが分かる。その生物の中心にある大きな黒い口からは、これまた黒い舌がチロチロと蠢いているのが分かる。もしかしたらこの生命(?)は真琴に対して、食欲のようなものを抱いているのかもしれない。
認識されていると分かるだけで苦痛で、向き合っていると自殺したくなる。名状しがたい「それ」はまさしく命の心身を蝕む化け物だった。
相手には自我や意志というものを認識する機能があるかどうかすらが疑問で、ゆえに戦いの合図はない。
「テ、リ。リリ、ィィ。テェリィィィィ!!!」
鼓膜を破るような音を発したそれは夜の闇に紛れるように、体からどす黒い触手を伸ばしてきた。悪臭と致死を纏った触手がしめて十二本。真琴を包み込むように迫ってくる。
「くそがぁ!」
真琴は素早く体を動かして触手の包囲から抜け出す。
「『オーノウ オン イーウラ』!」
そして伸びた触手に向けて炎を放つ。闇に包まれていた森の一角が明るく照らされる。それで真琴は夜目ではない、目で「それ」を認識し、自分の意識の中にある危機意識を修正した。
最悪から絶望へと。
炎に照らされた「それ」の表面はうっすら透明で、奥にあるものが見えた。背丈は十メートルもある巨人。肌は岩石に覆われた灰色で、目は黄色い。
“森の王”が「それ」の中に閉じ込められていた。否、閉じ込められているという表現は適切ではない。「閉じ込められている」のではなく、「取り込まれている」のだ。すなわちこの化け物は討伐聖銀の“森の王”を下したということに他ならない。
無論相性もあったのだろう。だがそれでもなお、「それ」は聖銀級以上の力があることは確かだ。
「テ……リ」
「それ」の触手は真琴の炎で燃える類のもののようだ。というよりも本来龍剣の生み出した炎で燃やせないものの方が少ないのだ。イラの結晶はあくまで数少ない例外だ。
「それ」は自身の燃える触手に意識を向けた後、その触手を自切した。そして今度はさっきの倍。二四本の触手を繰り出してきた。
波打ち、稲妻のような速さで伸びてくる触手の動きを見切ることは難しい。だが。
「……っ!」
迫ってくる手順は上から五つ。右、左、左、右の順に二、二、二、二。その後正面から三来て残りはまとめて上から降りてくる。
触手よりも早く、未来を予測して真琴は回避行動を始める。頭上からの五は舞うような動きで回避。動きに余裕をもたせるために動作は最低限。無駄は全て省く。
真琴の目は忙しなく動き、触手の軌道の未来予測をする。
「修正。右から来る片方が正面からだ」
前方と右方から来る触手を右斜めに体をずらして回避。続けざまに来る左の連撃は地に伏せ、前に飛び出すことで回避。
犬のように四足で前進した次の瞬間に、またすぐ後ろに戻る。ついさっきまでいた場所に轟音を伴った触手が通り抜けていった。
「ぅもえ!」
後ろに下がる際のわずかな滞空時間で真琴は龍剣を右に薙ぐ。白い炎が右手に広がり、迫りかけていた触手を焼き尽くす。
次々に触手を回避してみせる真琴。だがそれを甘んじてみてくれる敵ではなかった。
「リィ」
真上から降って来ていた触手が急に動作を変える。慣性に逆らう不自然な動作。脈打ち、波打ち、屈折し、流動する。予測不可能にも見える触手を真琴は全身で感じ取り、縦横無尽に動き回る。
前に飛んで後ろに下がり炎をまき散らしてそこに隠れて剣で斬り落として身を伏せて剣で斬って剣で斬って真横に転がって剣で斬って炎を放って剣で斬る。
「……かはぁ!」
かろうじて全ての触手を凌ぎ切った真琴は止めていた息を吐きだした。紙一重の攻防。あの化け物はたった一人で戦うには、あまりにも荷が勝ちすぎている。それでも生き残っているのはイラとの模擬戦があったからか。
「俺、もしかして強くなってる?」
考えるより先に体が動いた。そうしなければイラの拳が飛んでくるから。目と耳だけでなく皮膚や気配など幅広い情報を求めるようになった。そうしなければイラの攻撃を見切ることはできないから。
「そうだよ。おっさんの攻めに比べりゃ、こいつなんか気色わりぃだけでなんも怖くねぇ」
「それ」はただ手数が多く、素早いだけで、長期的な展望というものが感じられない。
真琴がどう動くか、どんな筋肉の使い方をし、どの情報を読み取っているのかを読み取り、持っている手札を読み取り、使われる手札を読み取って、確実に回避できない、受けきれない一撃を当ててくるイラに比べれば、さっきの攻撃を避けるなんて楽ちんだ。
理論のない、合理がない相手がこれほどまでに楽だったとは思わなかった。
「そりゃおっさんがあれだけ言うわけだ」
徹底的に磨き上げられた理論と突き詰められた合理によって成立しているイラからしてみれば、真琴なんてまさしく今相対している「それ」と同じなのだろう。速いだけ、力が強いだけの獣の武技。児戯にも劣る戦い方。
恐怖と嫌悪にかられずに相手を見ろ。相手の手札を見抜き、どの手札を使うかを観察し、予測しろ。その予測の上で動き、常に相手の上へ行け。
真琴の中にあった浮ついた心が沈んでいく。あるいはこれがこれから長く続く真琴の騎士としての芽生えだったのだろう。力に溺れ、力を振り回すばかりだった真琴は、初めて力を御することを覚えた。他者を知ることを覚えた。
真琴の見ていた世界が一気に拡張する。
同時に戦闘に不必要な情報は全て切り捨てる。目の前の「それ」だけではなく。「それ」と、「それ」が干渉できる空間にまで意識を向ける。「それ」が干渉できる空間はかなり広い。逃走を選択するにはやや厳しいものがある。ならばとるべきは戦闘。逃げるにしても「それ」を削ってからだ。
気になることが二つ。まだ遠いが「それ」の一部に寄生された魔獣が近寄ってきている。現状でもギリギリなのに、増援が来たら敗北は必須。それまでに状況を動かさないといけない。
もう一つは精霊だ。「それ」は全身から黒の精霊を放出し、他の精霊の活動を抑制している。ついさっき気づいたことだが、「それ」は無色の精霊の代わりに黒の精霊を体内に所有している。あまりにいびつな生命のあり方。いや、無色の精霊を体内に持っていないから生命ではないのか? いずれにしても黒の精霊術が使えない真琴にとってはデメリットにしかならない体質だ。
せめて炎を燃やして赤と緑の精霊を増やすとしよう。
カチリと、真琴の中で何かが噛みあう。それはすぐさま真琴の中で形を成し、一つの異能を目覚めさせる。
真琴はぐっと前傾姿勢を取った。
「加速」
そして龍剣が目覚めた新たな力を解放した。
音を、景色を、世界を置き去りにして真琴は加速する。色のないモノクロの世界。全てが静止する中で動いているのは真琴だけだ。
トン、トン、トンとリズミカルに足を踏み出して前に進む。間合いに入った。幻影剣。刃が見える場所から消え、代わりに幻の刃が現れる。
龍の炎を刃に込めて、斬る。そこで世界は追いついた。
「リ……テ、リ」
「それ」は全身に高熱を浴びて苦悶の声を上げる。だがそれでも大して堪えた様子はない。“森の王”すら一撃で滅ぼした龍剣の熱斬撃も、「それ」からしてみれば苦しい程度でしかないのだ。
途方もなくタフで、常識を超越した生命だ。
しかしその一撃で「それ」も本気になってしまったらしい。生える触手の数が百を超えた。その触手全てを真琴は見て、視て、観て、聞いて、聴いて、訊いて、感じる。理屈も理論もない単調で薄っぺらな怒涛の攻め。真琴の頭は勝手に最適な動きを導き出し、それを再現するために体は勝手に動きだす。
「ふぅ」
かわして、斬って、燃やして、加速して、だまして、かわして、かわして、斬って、斬って、斬って、かわして、燃やして、斬って、燃やして、斬って、斬る。
最低限の動きで最大の働きを。全ての触手に対応してみせた真琴は思わず頬が緩むのを感じた。
やれる!
真っ暗な絶望だけだった状況に光が差したその時、
バツン、と音がして。それに従うように真琴の左手の甲に穴が空いた。
「はえ?」
痛い。熱い。痛い。何だこれ。何だこれ。何だこれ。
真琴は「それ」を見た。「それ」の体から新たに生えたモノ。それは細長い円柱の中心に一回り小さい円柱の穴を空けたもの。
この世界にも存在している。人はそれを「銃」と呼ぶ。
「それ」は自らの肉体に銃を生成し、己の肉体を弾丸にして撃った。たったそれだけのこと。しかし、放たれた弾丸は確かに「それ」の肉体の一部だ。
そして「それ」に触れたものは皆一様に肉体を乗っ取られる。
真琴は自分の左手を見た。空いた穴から覗く自分自身の肉と骨。赤い血。それにまじって蠢く黒く禍々しい粘性の糸。
その糸は真琴の肉に居座り、腕を通じて脳へと駆け上がろうとしていた。
真琴は。
迷わなかった。
真琴は一瞬のためらいもなく、龍剣で自分の手首から先を切り落とした。処置は辛うじて間に合い、真琴はこれ以上の浸食から逃れることができた。
「イウ」
血がだぼだぼと流れてしまう前に焼いて止血する。
「あぁっ!」
神経を直接ひっかいたような痛みが走る。けれどその痛みにもだえる暇はない。「それ」は再び五十ほどの触手を生やし、その上で五十ほどの銃口を真琴に向けた。
真琴の思考は迸り、全ての攻撃を回避できる手段を探す。けれど、
「手が、ない?」
凌ぎ切る未来が見えない。今の真琴では、どうやっても被弾もしくは触手と接触してしまう。そうなれば触れた部分を切り落とす必要があるが、それをしているうちに他の触手か弾丸を食らってしまう。
詰みだ。どうあがいても次の攻防で真琴は死ぬ。
(嫌だ。死にたくない)
ようやく見えるものがあったのに。ようやくイラのいる領域を目視できたというのに。ここで自分は終わるのか? あんなゾンビみたいな生命になり下がって死ぬのか?
ネガティブな発想ばかりが頭をよぎり、真琴の体は硬直する。そして最後に選んだ延命の手段は。
「誰か、助けて!」
命乞い、だった。
「それ」から致死の弾丸が、触手が放たれる。万事休す。だが。
「あ……れ?」
真琴は生きていた。呆然とした顔で地面にへたりこむ。「それ」の弾丸も触手も、真琴には当たっていなかった。
「分かりました。助けましょう」
真琴の前にはイラが立っていた。
SAN値が削れる怪物




