20
二時間が経った。仙道は、美咲に電話をかけた。時刻は、すでに明け方近い。車内の時計は、三時二四分を表示していた。美咲に無理なお願いをしてからこれまでの時間、総理と会話もないままに、車のなかでジッとしていた。
『ライゾウちゃん!?』
出るなり、美咲の心配げな声がした。携帯を握りしめ、かかってくるのを待っていてくれたようだ。
「……どうだった?」
こんなことを頼むなんて、教師失格だった。ヘタをすれば、美咲も命を狙われてしまうかもしれないのだ。
『なんとか割り出したんだけど……』
官邸対策室への番号を総理から聞いて、それを美咲に教えた。自分ではかけられなかった。持っている携帯にその機能はないし、公衆電話を使うには、金がない。自分の家に帰ろうにも、それこそ敵が待ち構えているかもしれない。
「大丈夫だったか?」
こうして応答しているということは、危険はなかったのだろう。だが次の美咲の言葉で、仙道は深い後悔に襲われた。
『大勢の人間に、公衆電話を包囲されたみたい』
「ぶ、無事なのか!?」
公衆電話を使ったほうがいいとアドバイスしたのは、仙道自身だった。自宅の固定電話や携帯では身元をさぐられるかもしれないと心配してのことだった。しかし、公衆電話でも危険はかわらなかったようだ。
『無事ですよ。こうして話してるんだから。ちゃんとみんなに協力してもらいましたから安心してください。まあ、すべては板倉くんの発明のおかげなんですけど』
それを耳にして、仙道は深呼吸のように息を吐き出した。
『で、パスワードなんですけど……戸田さんに力をかしてもらいました』
「え……?」
『そんな不安にならないでください。彼女の力は本物なんです』
戸田由衣の不思議な能力は、仙道もよく知っている。何度も不吉な占いをされ、しかもそれが百発百中で当たるのだ。これまでに、良いことを予言されたことはない。
占いは、統計学だといわれている。
仙道も、それには賛同できるのだが……戸田由衣の占いには、それプラス、心理学の理論とテクニックが合わさり、さらに言葉では表現できない得体の知れない「なにか」が加わっているのだ。
『いろいろ辻本って人には質問したんですけど……その結果、パスワードは「SPRING」か「SUMMER」のどちらかだそうです。あくまでも、戸田さんの見解によると……ですけど』
そういう言い回しをするということは、美咲も少しは疑っているようだ。
「SPRINGか、SUMMER……」
仙道は、入力した。
まずは、《SPRING》──。
反応なし。画面は変わらない。化けた文字の墓場のように、乱雑としたままだ。
《SUMMER》──。
こちらも、変化はない。
『あ、大切なものです』
「え?」
ダッシュボードの上に置いた携帯から美咲の声がしたので、耳にもどした。
『いまの文字のあとに、中心になるものが続くんですって。大切な、なにかですって』
「大切な……」
総理に視線を向けた。総理は両眼を閉じていた。どうやら、こんなときに居眠りをしているようだ。
「総理!」
思わず、強く呼びかけてしまった。
『え!? 総理って……総理大臣のことですか?』
当然、美咲にまで聞こえてしまった。
「あ、いや……」
とりあえずそちらはごまかして、総理が起きたことを確認した。
「ん? どうした? わかったか?」
総理は呑気なものだった。
「中心、大切なもの……なんだと思いますか?」
「さあね、私は考えることが苦手だ。そういうのは、官僚にやらせるもんだ」
『その声……本当に、バカ総理なんですね』
携帯は仙道の耳元だったが、それでも漏れた声で総理にも聞こえてしまったようだ。
こういうことになるから、彼女には知られたくなかったのだ。
「バカ総理とは、言ってくれるな。おたくの生徒か? 教育がなっとらん」
『あなたのような人に教育を語る資格があるとは驚きです』
「なんだと!?」
総理に携帯をひったくられた。
「いいか、よく聞け、小娘! おまえに総理大臣というものが、いかに偉大なものなのか教えてやる!」
そうとう頭にきたのか、総理は大人げなく激昂した。
だが、その勢いも長くは続かなかった。
「……うう、そこまで言わなくてもいいじゃないか……」
しまいには、涙ぐんでしまった。
悔しさを通り越して、敗北感が全身を包んでいる。
力なく、携帯を返された。
仙道にも美咲の声が多少は聞こえたのだが、それはもう聞くにしのびなかった。聞いている仙道ですら、胃が痛くなった。
「気にしないでください……彼女は、ディベートの全国チャンピオンなんですから」
口喧嘩で勝てるわけがないのだ。
「まさか……将来、政治家をめざすなんていうんじゃないだろうな……」
たしか生徒会長になったとき、初の女性総理になるんだ、と決意を口にしていたのを思い出した。
総理にそれを告げることはしなかった。
「ところで、本当に思い当たらないんですか?」
話題をもどした。
「さあな。あんたの大切なものはなんだ?」
「ぼくの大切なものじゃないと思うんですけど」
「それもそうだな」
このパスワードを打ち込む人間にとっての《大切なもの》──なのだ。
「あ」
「どうした?」
仙道は携帯をダッシュボードの上にもどし、打ち込んだ。
《SPRING BOX》
画面に反応があった。
「当たりだ」
携帯をすぐに取って、報告した。
『やった』
「ん?」
しかし画面の文字化けはなくなったが、まだなにかがおかしい。
数字が羅列しているだけだ。
目茶苦茶な文字ではなくなったが、数字に切り替わっただけのようだ。
『数字ですか?』
「そうなんだ。画面中が数字だらけなんだ」
「暗号だろうな」
総理が言った。
「暗号?」
「公安がやりそうなことだ」
『ライゾウちゃん、それなんだけど……辻本っていう人は、公安警察の親玉なんですよね? 戸田さんが言うには、わざとパスワードを教えようとしていたみたいなの』
それは、どういうことだろう?
戸田由衣の力をいま一つ信じられない仙道は、判断に迷った。
「辻本が……?」
総理に反応があった。
「どうしたんですか?」
「あ、いや……」
しかし、総理は言及を避けるようだ。ぶら下がり会見で、よく眼にする姿だった。
『そういうスパッと物を言わないところが、日本の政治家のダメなところです』
美咲の厳しい指摘が、車内に響いた。
それに触発されたのか、総理がつぶやくように口を開いた。
「……公安じゃないのかもしれん」
「どういうことですか?」
「これだよ」
総理は、ノートパソコンに顎をしゃくった。
「さっきのパスワードは辻本が知っていたのだから、アクセスするための正規のものなのだろう。だが、これはちがう」
なにを言わんとしているのか、仙道には理解できなかった。
「辻本は、これを先生に解かせようとしているのかもしれん」
ますますわからなくなった。
「このパソコンは、あの女テロリストから渡されたものだ。つまり、これを仕掛けたのはテログループで、辻本や公安にも解読できないんだ」
「でも、フラミンゴは……あの女性テロリストは、ぼくにパスワードを解読しろ、と言いました。彼女たちが仕掛けたのなら、答えを教えてくれればいいじゃないですか」
「それは正規のパスワードのことだったんじゃないか?」
「じゃあ、この数字は?」
「わからんよ」
開き直ったように、総理は言った。
「答えは、もう教えられてるってことは?」
「それはないです」
仙道は、フラミンゴとの会話を思い返してみたが、そんな覚えはなかった。
「ああいうやつらは、まわりくどい方法で伝えようとするものだ。それこそ、暗号のように」
「ぼくが気づけないんだったら、伝えたことにはならないじゃないですか」
「やつらの人選ミスってことだ」
痛烈な嫌味だった。
『ライゾウちゃん、ごちゃごちゃ言ってないで、その数字を教えて。こっちで解いてみるから』
そんなことできるのか──そう言いそうだったのを飲み込んだ。
こういうことのスペシャリストが、クラスには何人もいる。
「1285714285714285──」
読み上げていて、法則があることに気づいた。美咲にもわかったようだ。
『最初の1を除いて、285714が連続してますね』
これは、なにを意味してるのだろう?
『どうします? ライゾウちゃんのほうからかける? じゃあ、わたしからかけます。五分後にまたかけてください』
仙道が答えを出すまえに、美咲は自分で勝手に決めてしまった。
このケースでかける相手は、一人しかいない。
数学オリンピックへの出場が決定している庄司隆弘だ。
五分が経ち、美咲にかけた。
『ライゾウちゃん? 庄司くん、二秒でわかった』
さすがは、オリンピック選手だ。
『9割7、ですって』
「割り算?」
しかも、難しい計算というわけではない。だが、それでも9割7の答えが、こんな数字の羅列になることなど考えたこともなかった。
「わかったのか?」
言い負かされたことに落胆していたのか、総理が気持ちを切り替えるように興味を示した。
「9割7ですって」
「それがわかって、どうするというのだ?」
「さあ……」
そう言うしかなかった。
「ためしに、9と7を押してみればどうだ?」
やってみた。当たりだった。
仙道は内心、この人でも役に立つことがあるのか──そう思ってしまった。
しかし……。
「次は、なんだ?」
画面が真っ暗になった。電源が切れたのかと思ったが、そうではないようだ。
「この音は?」
パソコンから、ピー、ピー、ピーと電子音が鳴っている。
「これにも、解答があるんじゃないか?」
「こんな音に、なんと答えればいいんですか?」
「私に聞くな。優秀な生徒にでもお願いすればいいだろう」
美咲に負けたのが、そうとうこたえているようだ。言葉の端々に棘が生えている。
「どうかな?」
仙道は、携帯をパソコンのスピーカーに近づけた。
「この音、わかる?」
自分がそんなことを質問されたら、絶対に困る。
『音のことだったら、新城さんがいいと思う』
それしかないだろう。仙道も同感だった。
「起きてるかな? コンクール近いんだよな?」
『そうですね。でも、ライゾウちゃんのためなら、力になってくれるはずです』
美咲との通話を切って、新城真帆にかけた。
なかなか出てくれない。やはり寝ているのだ。
「人材が豊富だな。うらやましいよ。うちの党ときたら、なにもできないのに大臣の椅子だけ欲しがるやつばっかりだ」
総理の愚痴を横に聞きながら待っていると、出てくれた。
「もしもし?」
『先生ですか?』
「ごめん、こんな夜中に」
夜中というよりも、もうじき朝が来る。
『いいんですよ。なんでも言ってください。でも、わたくしにできることなんてありますか?』
上品な声。生粋のお嬢さま育ちだ。
幼少からピアノの英才教育を受け、本来なら海外への留学が決定していた。それが白紙になり、いまの高校へ来たのは、まさに悲劇だった。留学を争っていたライバルに襲撃されたのだ。硬い木の棒で、右手を打たれた。中指と薬指の二本を骨折してしまった。
ライバルの男子は、真帆が怪我をすれば自分に留学のチャンスがめぐってくるだろうと考えた。だが、そんな真似をする人間を世の中が許すわけはない。その男子は、悪いことをすれば罰をうけるという常識すらもっていなかった。真帆のように幼少からピアノしかやってこなかったのだ。結局、その男子の行き着いた先は、海外ではなく少年院だった。
失意の真帆も夢破れ、日本の高校に行かなければならなかった。ピアニストとしては致命的な怪我のために、音楽系の学校に通うことはためらわれた。しかし、ピアノ以外はなにもできない。どうにかいまの学校に入学はできたが、芸術科ではなく、普通科なのはそのためだ。しかも、進学クラスであるA・Bではなく、中の下のD組。それでも、彼女の学力を考慮すれば、よく努力したほうだ。
骨折は完治していたが、しかし真帆はピアノを弾きたがらなかった。それを再び向かわせたのは、仙道の言葉だった。いや、真帆はそう言うのだが、仙道にはなんの心当たりもなかった。
「この音を聞いてもらいたんだ」
仙道は、パソコンのスピーカーに携帯を近づけた。
『D♭』
すぐに彼女は言った。
「音階ってことか?」
『そうですね。ほかにはよくわかりませんけど』
仙道は、パソコンのキーを押してみた。
《D》と、フラットをあらわす《b》=《B》を。
変化はない。
「フラットは、半音下げるんだったよね?」
『そうです』
《D》とマイナスマークを入力した。だが、画面は真っ黒なままだ。
「だめか」
『C#かもしれません。同じ音です』
C#、C+、ともにダメだった。
万策つきた思いだった。
『あきらめないでください。先生は、わたしに演奏の大切さを教えてくれました』
「う~ん、それなんだけど……おれ、そんなこと言ったかな? ぜんぜん記憶にないんだけど」
『先生は、それでいいんですよ。何気ない一言で、みんなを導いてくれるんですから。わたしは先生に励まされて、あきらめずに再びチャレンジできたんです。先生もあきらめないでください』
しかし、これ以上なにをしたらいいものか……。
「この音が、鍵なんだと思う」
「また、数字なんじゃないか?」
総理が口を挟んだ。
「数字?」
『あ』
真帆の、なにかをひらめいた声が聞こえた。
『先生、554.365262、で試してください』
「なんの数字なんだ?」
『周波数です。基準になるAの音が、440㎐なのは知ってると思いますけど』
それすら知らない。
『そのオクターブのD♭は、周波数だと、554.365262になるんです』
よくわからないままに、その数字を打ち込んだ。
画面が表示された。
BOX計画──と、大きく文字が出た。
その瞬間だった。
まばゆい光に眼を射抜かれた。
車が包囲されていた。何人もの兵士の姿が、かろうじて見えた。刺すような光で、眼が痛い。ライトを当てられているのだ。
『先生? 先生!?』
真帆の声が、別次元からの呼び声のように耳へ届いた。




