19
辻本のもとにだけ、ある報告がもたらされていた。
対策室から席をはずし、辻本はその連絡をうけた。交渉人の男が総理をつれて、あの監獄を脱出したというのだ。しかも、《箱》まで交渉人の手にあるという。
予想外の出来事だ。これまでのことは所詮、想定内のことだった。
さすがに、辻本は焦りを感じた。
(いや)
すぐに持ち前の冷静さと、緻密さを取り戻した。脱出したとて、それがどうしたというのだ。あそこから逃げたからといって、ほかに行くところはないはずだ。総理の家は、首相官邸はもちろんのこと、地元の家屋にすら近づけない。厳重に監視されている。みつけしだい、しかるべき処置をとる。交渉人にしても同じだ。いま住んでいる場所だけでなく、実家や知人についても調査済だ。それに、現場の判断でそうしただけかもしれない。おそらく、居場所はポイントし続けているはずだ。
しかるべき処置──。
こうなった以上、どちらにも、ただちに口を閉じてもらうしかない。総理はその意味がよくわかっていよう。自ら秘密を公言することはないはずだが、しかしこちらの思惑どおりに動かなかった責任がある。永遠に閉じてもらうしかない。
交渉人については、論じるまでもない。最初から消えてもらう手筈となっていたのだから。
もう少し、泳がせてからにしようと思ったのだが……。
「管理監! はやくもどってください!」
そのとき、部下のだれかが呼びに来た。どこの部署だか、だれの直属なのかもわからない人間だった。愚民の一人だ。
「何事ですか?」
「緊急回線に電話が」
「なに?」
その番号を知っている人間は限られる。逃げきれないとあきらめて、総理がかけてきたのだろう。辻本はそう考えた。
対策室にもどると、電話の主と話した。
受話器を取ったが、ほかの人間にも聞こえている。
「だれですか?」
『辻本さんですか?』
予想に反して、女の声だった。しかも、若い。まだ子供ではないか?
「そうだが、おまえは何者だ?」
威圧するように言った。十代の少女が、この番号を知っているわけがない。
『辻本さんは、知ってるんでしょう?』
「なにをだ?」
『何文字ですか? 数字ですか、英字ですか?』
「だから、なんのことだ?」
『コードは、なんですか?』
コード?
そこで気がついた。コードとは、パスワード、もしくはパスコードのことだ。だが、どのコードのことを言っているのか?
まさかと思うが……。
「おまえは、だれだ!?」
一連の事態に関することなら、あのコードのことだろう。だが、その存在を知るはずがない。すくなくとも、若い小娘などに。
『1、2、3、4、5、6、7、8、9、0……』
女は、数字を一つ一つ確かめていくように言った。
『ABCDEFG──』
今度は、アルファベットを。
「そうか……あの交渉人の生徒か……調べれば、すぐにだれかわかるんだぞ」
部下が耳元で囁いた。
「都内の公衆電話からです」
具体的な住所まで報告はなかったが、すでにそこへ人員を向かわせているはずだ。
『辻本さんの好きな言葉は?』
おもしろい。あの交渉人が、自分の生徒を使ってコードを探り出そうとしているのだ。
ということは、やつらに仕掛けられたプロテクトも解除するつもりかもしれない。
ならばあの教師は、また命拾いしたことになる。もう少し、生かしておくか。
だが、どうやって、あれに行き着いたのだ……。
辻本は、ある報告を思い出していた。《御影》が、あの教師と通じている──というものだ。
しかし、それでは矛盾がある。やつらが仕掛けたものなら、やつらから答えを耳にしているだろう。それとも、正規のコードがわからないだけなのか……。いや、そんなことはない。
いろいろなケースを、辻本は脳内でめぐらした。
(この小娘が、なにか知ってるかもしれん)
捕まえて、尋問するまでだ。
時間稼ぎにもなる。その挑戦をうけてやろうではないか。
辻本は、笑い声をあげてしまいそうだった。
「好きな言葉は、信頼だ」
われながら、いい加減な回答だと思った。
『好きな野球チームは?』
「野球よりも、バスケットボールが好みだ」
『好きな季節は?』
「春だ」
その後、そんな質問を何十回答えてやっただろう。
「公衆電話を包囲しました」
その報告をうけて、辻本はほくそ笑んだ。
「残念だが、きみとのおしゃべりはここまでだ」
『そんなこと言わずに、もっと楽しみましょうよ』
女が自身の危機も知らずに、そんなことを語った。
バカめ!
「おまえは包囲されている」
『じゃあ、せめて教えてくださいよ。わたしの知りたいことを』
「おまえが……あの交渉人が、どうやってあのページに行き着いたのかは、はなはだ疑問だが、褒美に教えてやろう」
総理も、あれのことは知らない。
それを、どうやって……まあいい。もし小娘にもわからなければ、本人に尋問すればいいことだ。この女を囮に、交渉人をおびき出す。
まさか、自分の生徒を見殺しにはできまい。
今度は、こちらが交渉する番だ。
「『S』からはじまる」
辻本がそう告げたのと、部下が「確保します」と言ったのは、ほぼ同時だった。
『何文字かも教えてくださいよ』
しかし、電話の声は平然と会話を続けていた。
「どういうことだ!?」
「公衆電話には、だれもいなかったようです……」
部下も困惑していた。
「なんだと!? 女! おまえ、なにをした!? 何者だ!?」
ツー、ツー。
だが、通話は切られていた。腸が煮えくり返りそうだった。
「辻本さん……いまのコードの話は、なんのことだ?」
事情を知らない人間が、しゃしゃり出てきた。官房副長官補の林だ。
うるさい! 思ったが、辻本は言葉を飲み込んだ。
おもしろいじゃないか──すぐに考えをあらためた。
これでいいのだ。むしろ、予定どおりではないか。
* * *
深夜、美咲は自宅近くの公衆電話にいた。
来蔵先生から頼まれたことを実行するためだ。
先生は、なんとか安全な場所に脱出したということだった。美咲は、心底ほっとした。だが、まだやらなければならないことがあるそうで、そのために力を貸してほしいとお願いされた。
辻本という人間から、パスワードを聞き出してほしいという。無茶なお願いだったが、美咲は迷わずに引き受けた。危険なことに巻き込まれるかもしれない──先生は、頼みながらも迷っていた。美咲は、そんなことかまわない、と答えた。
鈴と勇に事情を相談し、急いで家に来てもらった。そして、板倉光司にも。彼は協力に渋っていたが、そのために鈴も呼んでいたのだ。卑怯なのは、百も承知。鈴への埋め合わせは、必ずさせてもらう。美咲からも頭をさげて、彼の要求に従ってもらった。破廉恥すぎて、言葉にはできないものだ。
彼は、むかしのポケベルのような形状のものを持っていた。自分で所持したことはないが、母親が使っていたものがいまでも家にあるから、その表現は見当はずれではない。
ポケベルのようなものから二本の配線が伸びていて、その先端に金属製の洗濯ばさみのようなものがついている。それを電話ボックスの上に登って取り付けていた。どういうものなのかは、想像もできなかった。
「これで、ここからかけていることはわからない……はず」
最後のところは頼りなかったが、彼の発明したものだから、まず大丈夫だろう。説明によると、べつの場所からかけたことになるらしい。
さらに美咲は、もう一つの策をこうじた。
戸田由衣に緊急連絡し、アドバイスをもらった。心理学者の父と人気メンタリストの母親をもっている。自身は占い師をめざしていて、校内でも当たると評判だ。子供のころから英才教育のもと、人の心を操る術を身につけている強者だ。ディベート王者である美咲でも、絶対に戸田由衣だけは敵にまわしたくない。そう思わせる数少ないクラスメイトだった。
『パスワードを聞き出すなら、まずパスワードを教えて、って言うの』
「教えてくれるわけない」
『それでいい。次に数字を1から順番に言って、そのあとアルファベットを言っていく。そのあとは、いろいろな質問をしてみて』
「質問?」
『好きな食べ物とか、好きなスポーツとか、なんでもいい。できるだけ多く。ちゃんと答えはメモしておいてね』
「そんなのでわかるの?」
『わからないと思うけど、わたしが占ってあげる』
「え?」
そうなのだ。彼女は、心理学やメンタリズムのように理論あるテクニックを身につけているのと同時に、肝心なところは占いに頼る傾向がある。
不思議なことに、それがほぼ100%の確率で当たってしまう。
おそらく、と美咲は思う。それは、やはり神秘の力ではなく、ちゃんとした法則のある心理学の応用なのだ。彼女は、自分でも知らないうちに、そのテクニックを使っている。しかし彼女自身もそのことに気づいていないから、超能力のように感じてしまうのだ。
そして──公衆電話で、来蔵先生から聞いた番号に電話をした。そもそも先生が自分で電話をしないのは、かける方法がないからだ。先生の持っている携帯は彼の発明品で、登録されている番号にしかかけられない。公衆電話を使おうにも、お金は一円も所持していないということだった。先生をつれていった、あの二人に没収されてしまったそうだ。
来蔵先生は、現在ある人物といっしょにいるということだったが、その人物もお金は持っていないという。大のオトナが電話すらかけられないなど情けないとも思ったが、美咲は先生を支えると誓ったのだ。
辻本という、いけすかない男との通話を終えた。本当に、虫酸の走る男だった。あんな大人にだけはなりたくない。美咲は本気でそう考えた。どうやら、通話の最中に捕まえようとしていたらしいが、板倉光司の仕掛けは見事に効力があったようだ。ざまあみろ──と、はしたなくも心のなかで叫んでやった。あんな男とだけは結婚したくない、あんな男とは関わり合いももちたくない。あんな男とは──。
きりがないので、美咲は気持ちをあらためた。すぐに戸田由衣に連絡を入れた。彼女には公衆電話ではなく、携帯で。
『数字とアルファベットを言ったときの、相手の様子は?』
「様子って言われても……あ、アルファベットの途中で、言葉を挟まれた」
『じゃあ、数字のコードではなくで、英字のワードだと思う』
本当にそんなことでいいのだろうか?
思い出した。
「あ、そういえば『S』がつくって言ってたな」
『ね、あってるでしょ』
少し信憑性が増した。
『じゃあ、質問の内容と、相手の答えを教えて』
すべてを伝えた。伝えおわるのに、早口ぎみでも十分以上はかかった。
「どう? わかる?」
『SPRINGだと思うけど』
「もしかして、好きな季節が春だから?」
『……』
どうやら、そのようだ。しかし、美咲には信じられなかった。たしかに、『S』からはじまってはいるが……。
「よくわからないけど、べつにわたしが話した辻本って人が、パスワードを決めたわけじゃないと思うのよ。その人が決めたっていうなら、そうかもしれないけど……」
『じゃあ、SUMMER──かな』
「……どうして、季節なの?」
『たぶん、あってると思うけど』
その自信は、どこからくるのだろう?
『その人は絶対、核心に迫るヒントを言ってるはずだから……』
「どうしてわかるの?」
『質問の答えが、挑戦的なのよ。小娘に遅れはとらないぞ、ってのがみえみえよ』
そうなのだろうか。
『それに……』
「それに?」
『なんだか、答えをわざと教える意図があるような……』
そのことには、自信がないようだった。
『占いでも……そう出てるし』
結局は、そこ頼みになってしまう。
『SPRINGかSUMMERで試してみたら?』
釈然としないまま、美咲は電話を切ろうとしたが、由衣はなにかの続きを言おうとしていた。
『……そのあとに』
「そのあと?」
『いまのどちらかのあとに、中心の文字が入る……はず』
「中心?」
『それがなにかまではわからないけど……それは、先生に聞いてみて。一番大事なもの』
* * *
AからBへ、質問。
なぜ、Aでは……わたしではダメなのですか?
最初からプラン②にしておけば、仲間はだれも死なずにすんだはずです。
* * *
BからAへ。
プラン①は、下請けを動かすための罠だった。
プラン②は、下請けの意図をさぐるための囮だった。
プラン③が、本物の作戦だったのだ。
* * *
AからBへ。
なぜ、それを教えてくれなかったのですか?
* * *
BからAへ。
回答を拒否する。
ただし、これだけは言っておく。
本当のベストは、プラン④であると──。




