上
皆の悲鳴が聞こえる。顔を真っ青にして逃げ惑っている。さっきまであんなに着飾って取り繕っていたのに、可笑しいことこの上ない。誕生日パーティーの主役だった弟なんて、兄や母に縋り付いて泣き喚いている。
自分たちがいつも威張り散らしてた魔法が『あれ』に効かないとわかるや否や逃げ出すだなんて、今世紀最大の笑い話だ。
皆が雪崩のように過ぎ去っていく方とは反対側に、僕は一歩踏み出していた。『あれ』の何処が恐ろしいのか、僕にはあまりよくわからなかった。長い角も鋭い牙も、地面を滑るようにして飛んでくる姿も、僕の恐怖心を煽るには今ひとつだった。
…どちらかと言えば、ビビリな方なのに。
僕は腕を上げて、『あれ』を受け入れるようにしてそのまま両腕を広げた。思い切り吸い込んだ息が、僕の薄い胸の中に広がる。
あぁ、綺麗だ。
目を細める。よく見たら涼しげな色合いの中に、ふと鮮烈な赤が混ざる。一度視界に入れてしまったら目に焼きついて離れないようなその姿に、僕はほうっと息を吐き出した。
キラキラとした鱗が太陽に透けるたび、ピキィンと氷にヒビが入るような音がする。どこか危うげなその音すらも美しかった。
人の言う美しい、とはこう言うものなのかもしれない。心が震える。手を伸ばしたくなる。その全てを感じてみたくなる。…まあでも、これが世に言う美しいではないことぐらいわかっている。人々は皆逃げ出したから。
でもそのことですら僕の心を響かせる。この美しい獣の瞳が真っ直ぐにこちらを捉えていると言うこと。目を逸らしたくはならなかった。吸い込まれそうな目だった。でもそれはおそらくあちらも同じで、僕の瞳からきっと逸らすことはないと、そう感じた。
そして、目を閉じる。来るなら来い。どうせ僕を殺すのなら、できれば一飲みにしてほしい。痛いのは嫌だから。それに『あれ』に食われて死ぬのは、あまり嫌な気分にはならなかった。食う、かどうかはわからないけれど。
速度を緩めることなく、『あれ』は僕の体と真正面にぶつかり合った。ちょうど、心臓があるあたりだった。
刺された、と錯覚した。
足の力が抜け、その場にへたり込んだ。そして胸を抑える。血こそ出てはいなかったけれど、まだ変わらず貫かれたような痛みは続いていた。肩で息をする。生まれてこの方当たり前ではあるけど心臓を貫かれたことなんてなかった。
けれど不思議と、僕の口には微笑が広がっていた。ふう、と息を吐き出せば、これまでにないほど熱を帯びたそれがこの体から出ていく。ずくん、ずくん、と拍動が一つづつ重なるたび、僕が何かの首を掴んでその力を削いでいく。
これまで何をしても僕の心が本当に湧き踊ることはなかった。それなのにどうして。今、僕はこんなにも楽しくて仕方がないのだろう。
『あれ』は僕の中に消えていったようだった。なんとなく、僕の体の奥底でとぐろを巻いているような気がする。
白くて龍のようにも見受けられた『あれ』。とりあえずは、龍と呼ぶことにしよう。
二本一対であったのであろう角の片方は、根本から少ししたところでぽっきりと折れてしまっていた。
だからだろうか。『あれ』が僕の中に取り込まれてからと言うもの、僕の心の中にすっぽりと収まってこそいるが、何だか少しすかすかな気がしてならない。
…足りない。僕の中に、ぽわりと何か得体の知れない感情が宿った。もしかしなくても、これが僕が初めて自発的に感じた感情かもしれない。
ちかちかと目の奥で星が瞬いた。それは光り輝いて僕の中を照らしこそしたが、僕の中にあったものを闇であったと確定させてしまった。
手に入れよう。たとえ何を犠牲にしてでも、僕の残りのひとかけら。それを取り込んだその時、一体僕は何になるのだろう。知りたい。示してほしい。満たしてほしい。
生まれて初めて感じた、渇きだった。
ー・ー・ー
それから僕に芽生えたのは魔法の才能だった。皆の言うような論理的で機械的な魔法じゃなくて、もっと原始的で感情的なそれ。息をするように、瞬きをするように、僕は気持ちの赴くままそれを行使していた。
放つと少し楽しい。威力が高いものが出たらもっと楽しい。
楽しい楽しい、と心の動くままに魔法を放っていたら、とある偉い人の目に留まったらしい。大変名誉なことにとある有名な魔法学校に奨学生として通えることになった。
父と母は感極まっていた。我が家の誉だと言うようになった。
可笑しかった。
少し前までは僕に興味なんてなかったのに。出来のいい兄と愛嬌のある弟の間に挟まれた僕になんて見向きもしなかったのに。それに、僕が龍を取り込んでから魔法を思うがままに扱うようになってからは気味の悪いものを見るような目をしていたのも知っている。
今更擦り寄ってきたって何の意味もない。親子ではあるけれど僕の中に彼らを大切に思う気持ちはほんのひとかけらもない。僕を馬鹿にして笑っていた兄も弟も同じだ。
だから僕はほんの少しだけ唇を歪めるようにして笑っていた。体の周りに、そっと膜を張って彼らの言葉に心が下手に波立たないように。家族の言う理想になんてなる気はなかった。僕は僕のやりたいように生きていく。それだけの力を手に入れてしまった。
前とは何もかもが変わっていた。だけど僕はそれをすんなりと受け入れてしまえた。最初から知っていたことのように、仕組まれていたことのように。この体に起こった変化は急激なはずなのに、僕は何の違和感も抱かなかった。抱けなかった。
恐らくこれは僕が龍を宿せた理由。もしくは宿せるだけの器を持っていた証明。僕以外にはきっとわからないだろうけれど、それでいい。自分の中でわかってさえいれば。
誰かに理解してもらおうとして叶わなかった時の悲しさを味わうのはもうたくさんだ。だからこのことは僕はひっそりと心の中に収めておくことにする。




