# 第二十九章 究極の選択
そこは、始まりも終わりもない、無限の沈黙が支配する場所だった。
神々の記憶を封じ込めた水晶の書架は、天の川の星々のように、遥か彼方まで連なり、その一つ一つが、人の思考が及ばぬほどの、永劫の時間を物語っていた。時間の流れすら、ここでは意味をなさない。一秒が、一万年にも、一万年が、一瞬にも感じられる、絶対的な静寂。
リオは、水晶の壁に背を預けたまま、動けずにいた。
彼の精神は、先ほど叩きつけられた、あまりにも巨大な真実の奔流によって、完全に飽和していた。言霊。神々の魔法。世界の理を書き換える力。そして、その力を巡る、終わりのない争いの歴史。彼が信じてきた全てが、根底から覆され、再構築されていく。
「……どうする、リオ」
隣に寄り添うリノの声が、まるで遠い世界の響きのように聞こえた。彼女もまた、巫女として、この世界の真実の重さに、その華奢な肩を震わせている。
「我々は、パンドラの箱を、開けてしまったのかもしれない。神々の、争いの歴史を、再び、この世界に、呼び覚ましてしまった、のかもしれない」
その言葉は、リオの心に、冷たい錨のように沈んだ。そうだ、俺は、ただの商家の三男坊ではない。俺は、この世界に、再び混沌をもたらしかねない、危険な『力』そのものなのだ。バルタザールたちの『結社』が、何世代にもわたって封印しようとしてきた、災厄の種。
俺は、この力を、どうすればいい?
封印するべきか? だが、どうやって。この力は、もはや、俺の魂そのものと、分かちがたく結びついている。
それとも、このまま、使い続けるのか? だが、その先に待つのは、神々が辿ったのと同じ、傲慢と、争いと、破滅の道ではないのか。
答えは、出なかった。彼の思考は、無限の図書館の中で、出口のない迷路を彷徨う。
その、時だった。
『――答えは、ここにある』
声が、聞こえた。
それは、誰かの声ではない。この、遺跡そのものの声。無数の神々の記憶が、一つの意志となって、リオの精神に、直接、語りかけてきた。
「!」
リオが顔を上げると、目の前の空間が、陽炎のように、歪み始めた。水晶の書架が、その形を失い、光の粒子となって、彼の周りに集まってくる。そして、その光は、一つの、あまりにも、甘美で、そして、恐ろしい、光景を、彼の前に、描き出した。
そこは、争いのない世界だった。
国境はなく、王も、奴隷もいない。人々は、皆、穏やかな笑みを浮かべ、互いに助け合い、満ち足りた日々を送っている。飢えも、病も、貧困も、そこには存在しない。誰もが、幸福で、誰もが、平和だった。
そして、その世界の、天上の玉座に、一人の男が、座っていた。
リオ・アルバレス。彼、自身だった。
『お前が、望むのなら』遺跡の声が、響く。『この世界を、創ることができる』
リオは、息を呑んだ。彼は、その光景が、ただの幻ではないことを、理解した。これは、彼が持つ『言霊』の力を使えば、確かに、実現可能な、未来の形だった。
『お前は、選ばれた。神々の力の、正当な、後継者として。お前が、新しい『物語』を紡げばいい。全ての人間が、幸福になる、絶対的な、一つの物語を。争いも、憎しみも、悲しみも、生まれることのない、完璧な世界を、お前の手で、創り上げるのだ』
その声は、悪魔の囁きではなかった。むしろ、それは、慈愛に満ちた、神の声そのものだった。それは、この世界の、あまりにも多くの悲劇を見てきた、神々の記憶が、最終的にたどり着いた、一つの、結論。――個人の自由意志こそが、争いの根源である。ならば、その自由意志を、一つの、絶対的な幸福の物語の下に、統一してしまえばいい、と。
リオの心は、激しく、揺さぶられた。
争いのない世界。誰もが、幸福な世界。それは、彼が、心のどこかで、ずっと、望んでいたものではなかったか。バルタザールのような、旧世界の商人が、力で市場を支配することもなく。アルゴノーツたちが、その出自によって、虐げられることもなく。島の民が、見えない災厄に、怯えることもない。
俺が、神になる。
俺が、この世界の、新しい、秩序になる。
その、あまりにも、傲慢で、そして、あまりにも、魅力的な、選択肢。
彼の精神が、その誘惑に、傾きかけた、その瞬間。
彼の周りの、水晶の書架が、彼の感情に、呼応するように、その形を、変え始めた。ある書架は、天を突く、巨大な塔となり、また、ある書架は、彼に、ひれ伏す、民の姿となった。彼の思考が、現実を、書き換え始めている。言霊の力が、彼の、内なる欲望に、反応し、暴走を、始めようとしていた。
『そうだ。それこそが、お前の、本当の力。お前は、王。いや、神だ。この世界の、全てを、お前の、意のままに――』
「――やめろ」
その、か細く、しかし、凛とした声を、発したのは、リノだった。
彼女は、リオの隣に立ち、その、暴走しかけた、神の力の奔流の前に、その華奢な体で、立ちはだかっていた。彼女の瞳には、恐怖はない。あるのは、深い、悲しみと、そして、揺るぎない、決意だけだった。
「それは、幸福などではない。それは、魂の、牢獄です」
彼女は、リオの、その瞳の奥を、真っ直ぐに、見据えた。
「私が、あなたに惹かれたのは、あなたが、神のような力を持っていたからではない。あなたが、我々の、小さな、しかし、かけがえのない『誇り』の物語を、見つけ出し、それを、守ろうとしてくれたからです。あなたが、我々を、支配しようとするのではなく、我々と、共に、歩もうとしてくれたからです」
リノの言葉は、言霊の力など、持っていない。だが、それは、どんな魔法よりも、強く、リオの、魂の、最も深い場所に、突き刺さった。
彼の脳裏に、これまでの旅の記憶が、走馬灯のように、蘇る。
――『理屈は分からねえが、お前が言うなら信じる』。そう言って、無茶な計画に、最後まで付き合ってくれた、親友、ヴァスコの、不器用な笑顔。
――『俺たちの背後には、俺たちが命を懸けて守ると誓った、同胞がいる』。そう言って、圧倒的な敵の前に、立ちはだかってくれた、片目のガンツの、忠実な瞳。
――『ウォォォォォッ!!』。出自も、過去も、関係なく、ただ、一つの物語の下に、兄弟となった、アルゴノーツたちの、荒々しくも、温かい、雄叫び。
そして、目の前にいる、この、聡明で、気高い、巫女。彼女は、俺を、神として、崇めているのではない。彼女は、俺を、一人の、不完全で、過ちを犯す、人間として、その上で、信じ、共に歩むことを、選んでくれたのだ。
もし、俺が、神になったら?
彼らの、その、かけがえのない、魂の輝きは、どうなる?
俺が創り出す、完璧な幸福の物語の中で、彼らは、本当に、幸福なのだろうか。いや、違う。彼らは、ただ、俺の物語を演じる、美しい、人形になってしまうだけだ。彼らが、自らの意志で、悩み、苦しみ、それでも、自らの足で立ち上がり、誇りを取り戻した、あの、尊い瞬間は、永遠に、失われてしまう。
(……俺は、そんな世界を、望んでいたのか?)
違う。断じて、違う。
俺が、本当に、創りたかったブランドとは。
俺が、本当に、紡ぎたかった物語とは。
人々を、支配するためのものではない。人々が、自らの物語を、紡ぎ出すための、その、手助けをするための、ものではなかったか。
リオの瞳から、神の光が、消えた。
代わりに、そこに戻ってきたのは、一人の、苦悩する、人間の、光だった。
彼は、目の前に広がる、偽りの楽園の幻を、そして、その玉座に座る、自分自身の、傲慢な姿を、真っ直ぐに、睨みつけた。
そして、彼は、自らの、魂の、全ての力を込めて、叫んだ。
それは、彼が、初めて、自らの意志で、完全に、制御した、『言霊』だった。
「――俺は、神には、ならない」
その言葉は、詠唱ではなかった。それは、宣言だった。
「俺は、間違う。俺は、迷う。俺は、決して、完璧ではない。だが、それでも、俺は、一人の人間として、この、不完全で、どうしようもなく、愛おしい、世界と、向き合っていく。人々の、自由な意志を、その、魂の輝きを、奪う権利など、誰にもない。神にすら、ない!」
彼の、魂の叫びと、共鳴するように、彼の周りで、形を変えていた、水晶の書架が、その動きを、ぴたり、と止めた。そして、目の前に広がっていた、偽りの楽園の幻が、まるで、ガラスが砕け散るかのように、音を立てて、消え去っていく。
後に残されたのは、元の、静寂に満ちた、無限の図書館だけだった。
遺跡の声は、もはや、聞こえない。それは、リオの選択を、受け入れたかのように、あるいは、その決断の、行く末を、ただ、静かに、見守ることを決めたかのように、深い、沈黙へと、還っていった。
リオは、その場に、膝から、崩れ落ちた。全身の力が、抜けきっていた。だが、彼の心は、不思議なほど、晴れやかだった。
彼は、選んだのだ。
神になるという、容易く、そして、孤独な道を、捨て、一人の人間として、この、世界の、全ての矛盾と、悲しみを、背負いながら、それでも、人々と共に、歩んでいくという、困難で、しかし、温かい道を。
リノが、彼の隣に、静かに、膝をついた。彼女は、何も言わなかった。だが、その瞳には、彼への、絶対的な信頼と、そして、同じ、重い運命を、共に背負うことを決めた、パートナーへの、深い、深い、愛情の色が、浮かんでいた。
リオは、彼女の手を、強く、握りしめた。
香料覇王の、野心は、ここで、死んだ。
そして、世界の運命を、その両肩に背負う、一人の、名もなき、言霊使いが、今、この、世界の、始まりが終わる場所で、確かに、誕生した。
彼の、本当の物語は、まだ、始まったばかりだ。
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