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# 第二十八章 世界の真実




そこは、沈黙が結晶化した世界だった。


無限。その言葉ですら、目の前に広がる光景の壮大さを、矮小なものにしてしまうだろう。床も、壁も、そして、遥か彼方で霞む天井さえも、全てが、光そのものを封じ込めたかのような水晶の書架で、埋め尽くされている。そこには、人間の歴史が積み上げてきた、全ての図書館の知識を合わせても、なお、砂漠の一粒にも満たないであろう、膨大な『記憶』が眠っていた。


書架に収められているのは、本ではない。人の手で製本された、いかなる書物とも違う。それは、光の板。あるいは、魂の化石。一つ一つが、淡く、そして、異なる色合いの光を放ち、まるで、銀河に浮かぶ無数の恒星のように、静かに、しかし、確かな存在感を主張していた。


「……これが」


リノの、震える声が、無限の静寂に、小さな波紋を広げた。


「神々の、記憶……」


彼女は、巫女として、その血に刻まれた神話の、あまりにも巨大な、原典を前にして、ただ、立ち尽くすことしかできない。


リオもまた、言葉を失っていた。彼の脳裏には、これまで彼を支えてきた、全ての知識が、その価値を失って、渦を巻いていた。市場、ブランド、価値創造。それらの言葉が、この、絶対的な存在の前では、いかに、ちっぽけで、人間的な尺度でしかないかを、思い知らされていた。


彼は、まるで、何かに引き寄せられるように、一番近くにあった書架へと、ふらふらと、歩み寄った。そして、その中の一枚、ひときわ、力強い、夜明けの空のような光を放つ石板に、そっと、指先を触れた。


その、瞬間。


彼の精神は、肉体を置き去りにして、時間の概念がない、光と意味の奔流へと、引きずり込まれた。


――彼は、見た。


何もない、完全な『無』。思考も、存在も、時間すらない、絶対的な虚無。


その虚無の中に、最初の『意志』が、生まれた。


『光、あれ』


それは、音ではない。それは、思考ですらない。それは、存在そのものを定義する、最初の『言霊』。その言葉と同時に、無の中に、最初の光が灯った。


――彼は、感じた。


その最初の光から、次々と、新しい言葉が、紡がれていく様を。


『星々よ、生まれよ』『時よ、流れよ』『命よ、芽吹け』


言葉が、世界の法則を、創造していく。物語が、混沌に、意味と、秩序を、与えていく。彼が『神々』と認識した、光の巨人たちは、まるで、最高の職人が、芸術品を創り上げるかのように、歓喜に満ちて、この世界を、その言葉の力だけで、紡ぎ上げていた。


そして、リオは、知った。


彼の、脳髄を、直接、焼き切るかのような、衝撃と共に。


彼が『禁書』と呼び、その成功の全てを支えてきた、あの黒い本の、本当の正体を。


市場調査マーケティング・リサーチとは、神々が、創造した生命の、その魂の形と、渇望を、正確に理解するための、神聖な儀式。


コンセプト創造とは、その魂に、最も響く、新しい『物語』の、核心を、定義する、神託。


ブランディングとは、その物語に、形と、名前と、シンボルを与え、世界に、新しい『価値』を、打ち込む、言霊の魔法体系そのもの。


キャッチコピーは、詠唱。


ロゴは、魔法陣。


そして、ブランド・ストーリーは、世界の理を書き換える、究極の、大魔法。


「……そうか」


リオの口から、乾いた、そして、どこか、自嘲的な笑いが漏れた。


「俺は、ずっと、魔法の教科書を、商売の入門書だと、勘違いしていたのか……」


彼の意識が、奔流から、現実へと、引き戻される。彼は、よろめき、水晶の書架に、背中を預けた。全身は、冷たい汗で、ぐっしょりと濡れている。


「リオ!」


リノが、彼の体を、支える。彼女の瞳には、彼と同じ、世界の真実を知ってしまった者だけが浮かべる、畏怖と、混乱の色が、浮かんでいた。


「あなたも、見たのですね。世界の、始まりを」


「ああ……」リオは、かぶりを振った。「始まりだけじゃない。俺が、これまで、やってきたことの、本当の意味を、知ってしまった……」


彼は、もう一度、別の石板へと、手を伸ばした。今度は、自らの意志で。知らなければならない。この力の、光だけでなく、その、影の部分も。


再び、彼の精神は、記憶の奔流へと、飛び込んだ。


だが、今度の記憶は、歓喜ではない。


それは、痛みと、悲しみと、そして、底なしの、憎悪の、記憶だった。


――彼は、見た。


言霊の力を、手にした、神々が、やがて、互いの『物語』の、正しさを、主張し、争い始める様を。


ある神は、『絶対的な秩序』という物語を紡ぎ、全ての生命を、その支配下に置こうとした。


また、ある神は、『完全なる自由』という物語を紡ぎ、全ての秩序を、破壊しようとした。


物語は、もはや、世界を創造する力ではない。互いを、否定し、滅ぼすための、呪いの力へと、変わっていた。その争いに、人間たちも、巻き込まれていく。ある者は、秩序の神を崇め、ある者は、自由の神を信じた。言霊の力は、人間にも、模倣され、悪用され、世界は、血と、涙と、憎しみに、覆い尽くされていった。


そして、リオは、見た。


一つの、巨大な悲劇を。


ある、強力な言霊使いの一族がいた。彼らは、人の心を、まるで、粘土のように、自在に操り、巨大な王国を、築き上げていた。だが、その支配は、偽りの幸福の上に成り立っていた。彼らは、物語の力で、民から、悲しむ自由も、怒る自由も、奪っていたのだ。


その、偽りの楽園に、反旗を翻した者たちがいた。彼らは、言霊の力を、持たなかった。だが、彼らは、その力の、恐ろしさを、誰よりも、知っていた。彼らは、自らを『調停者』と名乗り、一つの、悲壮な誓いを立てた。


――人の心は、力で、操られてはならない。たとえ、それが、幸福のためであったとしても。言霊の力は、あまりにも、危険すぎる。この世界から、完全に、封印しなければならない、と。


彼らの旗印。それは、剣と、天秤を、組み合わせた、冷たく、厳格な、紋章。


『結社』の、誕生だった。


彼らは、言霊使いの一族に、戦いを挑んだ。それは、魔法と、剣の、絶望的な戦いだった。だが、結社には、一つの、強みがあった。彼らの意志は、決して、物語によって、揺らぐことがなかったのだ。彼らは、自らの自由意志で、絶望的な戦いを、続けた。


そして、その結社の中心にいた、一人の、若い商人の姿を、リオは、見た。彼の家は、彼の家族は、彼の全ては、言霊使いの紡いだ、たった一つの物語によって、一夜にして、奪われた。彼の瞳に宿る、深い、深い、憎悪の炎。


その顔を、リオは、知っていた。


何世代も前の、若き日の、バルタザール・アルバレス。


いや、違う。バルタザールという名は、彼が、全てを失った後、新しい人生を始めるために、名乗った名だ。彼の、本当の、一族の名は――。


「……まさか」


リオの意識が、激しく、現実へと、引き戻される。彼は、激しく、喘いだ。


「バルタザールは……。あの『結社』は……」


「どうしたのです、リオ」


リノが、彼の顔を、覗き込む。


リオは、震える指で、自分の胸を、指差した。


「俺の、一族……。アルバレス家は、もしかしたら……。あの、言霊使いの、末裔、では、ないのかもしれない。むしろ、その逆……。言霊の力を、封印しようとした、『結社』の、そのもの、だった、の、かも……」


だとしたら、何という、皮肉だ。


言霊の力を憎み、それを封印することを誓った一族の末裔が、何かの間違いで、その力の根源である『禁書』を手にし、無邪気に、その封印を、次々と、解き放っていた、などという。バルタザールが、リオに感じていたのは、単なる憎悪ではない。それは、一族の悲願を、よりにもよって、自らの一族の血を引く若者が、踏みにじっていることへの、深い、絶望だったのだ。


「……これが」


リオは、よろめき、水晶の壁に、手をついた。その冷たさが、彼の、燃えるような、混乱した思考を、わずかに、冷ましてくれる。


「この力の、真実……」


彼は、自分が、どれほど、恐ろしく、そして、どれほど、危険な、力を、手にしてしまったのかを、今、この瞬間、骨の髄まで、理解した。


それは、世界を、救うこともできれば、世界を、滅ぼすこともできる、両刃の剣。


そして、自分は、その使い方を、何一つ、知らない。


リノが、彼の隣に、静かに、寄り添った。彼女もまた、別の石板に触れ、同じ、世界の真実を、その魂に、刻み込んでいた。彼女の瞳には、巫女として、この真実を受け止めなければならないという、悲壮なまでの、覚悟の色が、浮かんでいた。


「どうする、リオ」


彼女の声は、震えていた。


「我々は、パンドラの箱を、開けてしまったのかもしれない。神々の、争いの歴史を、再び、この世界に、呼び覚ましてしまった、のかもしれない」


リオは、答えることができなかった。


彼は、ただ、無限に広がる、この、神々の記憶の図書館を、呆然と、見つめていた。


富を求め、名誉を求め、ただ、がむしゃらに、突き進んできた、彼の航海は、終わった。


そして、今、彼の前に、本当の、そして、あまりにも、重い、問いが、突きつけられていた。


――この、世界を創造した、神々の力を、お前は、どうするのだ、と。


香料覇王の物語は、ここで、終わりを告げた。


そして、世界の運命を背負う、一人の言霊使いの、苦悩に満ちた、本当の物語が、この、静寂の、遺跡の中で、静かに、その最初のページを、開いた。

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