第一部:記憶喪失の男
『新道診療所』の処置室に、けたたましいストレッチャーの車輪の音が響いた。
「バイタルは!」
町医者新道が鋭く問うと、救急隊員が喘ぎながら答える。
「血圧触知不能、呼吸浅く、SpO2(血中酸素飽和度)85!」
「移します、1・2・3!」
診察台の上には、ずぶ濡れのスーツを着た男が横たわっている。
その顔は蒼白で、唇は紫色をしていた。
新道の隣で、看護師の美園がすでに男の腕に駆血帯を巻き、消毒綿を走らせていた。
その動きに一切の無駄がない。
「ルート確保、輸液全開で!」「はい!」「気管挿管の準備! アドレナリンとアトロピンも用意してくれ」「はい!」
新道の指示が飛ぶより先に、美園は必要な器具を準備し、手渡せる位置に置いていく。
まるで思考を読んでいるかのような、阿吽の呼吸。
長年この小さな診療所で共に働いてきた二人の間には、言葉以上の連携が成り立っていた。
新道が喉頭鏡を手に男の口を開き、気管チューブを慎重に挿入する。
その間も、美園は心電図モニターの電極を手早く装着し、
男の濡れそぼったスーツを医療用のハサミで躊躇なく切り裂いていく。
冷え切った体を温めるため、温風式の加温ブランケットを準備しながら。
処置室のドアのガラス窓から、一人の男が固唾を飲んでその光景を見つめていた。
制帽を脇に抱えた、駐在所の巡査、栄慎之助だ。現場から付き添ってきたものの、
医療の知識がない自分に出来ることは何もない。
ただ、緊迫した空気の中で真剣な眼差しで動き回る美園の横顔から、目が離せなかった。
テキパキと、しかしどこか優雅ささえ感じさせる彼女の所作は、
いつも交番で見る柔らかな笑顔とはまるで別人のようだ。
その姿に胸を打たれながら、慎之助は自分の無力さに唇を噛んだ。
数時間に及ぶ処置の末、男のバイタルサインは奇跡的に安定した。
モニターのアラームは鳴りやみ、規則正しい電子音だけが静かな処置室に響いている。
しかし、男は深い眠りについたまま、目覚める気配はなかった。
「峠は越した…と思う」新道は額の汗を拭い、ぽつりと言った。
「あとは、この人が戻ってくるのを待つしかない」
それから、静かな時間が流れた。
季節が晩秋から初冬へと移ろうとする一週間後。
毎日、慎之助は「捜査の一環」と称して診療所に顔を出し、美園は献身的に男の体を清拭し、
体位交換を続けた。
その日の朝、いつものように美園が男のバイタルをチェックしていると、閉ざされていた男の瞼が、
かすかに震えた。
「…!」
美園は息をのみ、すぐに新道を呼んだ。駆け付けた新道と、偶然訪れていた慎之助が見守る中、
男はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、生まれたての赤子のように何も映さず、ただ虚空をさまよっている。
「わかるか? 私が誰か」新道が静かに問いかける。
男はゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ、君自身の名前は? どこから来たか、覚えていることはあるか?」
期待と不安が入り混じった沈黙が、病室に落ちる。
やがて、男の乾いた唇が動いた。
「なにも……わからない……」
「俺は…誰なんだ?」
その絶望的な問いは、その場にいた三人も困惑するばかりだった。
男が目覚めてから、一週間が過ぎた。
記憶は依然として真っ白な霧の中だったが、その身体は驚異的な回復を見せていた。
最初は点滴だけだった食事も、おかゆ、そして常食へと戻り、衰弱していた筋肉にも、少しずつ力がみなぎり始めていた。
診療所の人々は、彼を仮に「海」と呼ぶようになっていた。
その日も、昼休みを少し過ぎた頃、診療所のドアがカラン、と音を立てた。
「パトロールのついでに、変わりないか確認に!」
息を切らせて入ってきたのは、やはり巡査の栄慎之助だった。
その手には「差し入れ」と称した町で人気のパン屋の袋が握られている。
この一週間、彼は「聞き込みの進捗報告」や「不審者情報の確認」など、
もっともらしい理由をつけては毎日必ず顔を出していた。
「栄巡査、美国の平和は君のパトロールにかかっているんだが、診療所の平和まで守る義理はないぞ」
カルテを書きながら、新道が顔も上げずに軽口を叩く。
「い、いえ!これも治安維持活動の一環であります!」
しどろもどろになる慎之助に、美園が
「まあまあ先生。栄さん、いつもありがとうございます。お茶、淹れますね」と優しく微笑む。
その一言だけで、慎之助の顔はたちまち赤くなった。
その分かりやすい反応を、新道は面白そうに横目で見ていた。
天気の良い午後、海は新道の許可を得て、一人で散歩に出るようになった。
診療所のジャージを借りた姿は、あの夜のスーツ姿とはまるで別人だ。
初めはおぼつかない足取りだったが、今ではしっかりとした足取りで町の空気を吸い込んでいる。
ある日、海の足は無意識に海へと向いていた。
自分が流れ着いたであろう岩場を見下ろせる、小さな岬の突端。
積丹ブルーの穏やかな海が、太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
彼は手すりに寄りかかり、ただじっとその光景を見つめた。
波の音、潮の匂い、カモメの鳴き声。
その全てが、頭の中の分厚い壁の向こう側を、必死にノックしてくるような感覚に陥る。
----冷たい。水が…。誰かの、怒鳴り声がする。やめろ、と叫んでいるのは、誰だ?
断片的な感覚が脳裏をかすめ、鋭い頭痛が走った。海は思わず頭を抱えてその場にうずくまる。
しかし、もがき苦しんでも、記憶の扉は固く閉ざされたまま、具体的な映像を結ぶことはなかった。
ある日、診療所へと向かう新道が、道端で漁師の妻であるおばちゃんに呼び止められた。
「先生! 大変だねぇ、あの流れ着いた人」
「ええ、まあ。でも順調に回復していますよ」
人好きのする笑顔で返す新道に、おばちゃんは声を潜めて続けた。
「そういえばね、先生。うちの人が言ってたんだけど、あの人が流れ着く少し前の晩だったかな。
港に見慣れない黒塗りの高級車が停まって、何やら人相の悪い男たちがうろついてたって話だよ」
「黒い車…ですか」
「そうなのよ。こんな田舎じゃ、目立でしょう。何か物騒なことじゃなきゃいいけどねぇ…。先生のところの人と、何か関係あるのかしらねぇ」
何気ない世間話。だが、その言葉は新道の心に、小さな棘のように引っかかった。
診療所に戻ると、窓の外をぼんやりと眺める海の後ろ姿があった。
その背中は、この穏やかな町の風景に溶け込んでいるようで、同時にひどく浮き上がって見えた。
黒い車に乗った、人相の悪い男たち。
単なる遭難者ではなかったとしたら、この男は何から逃げて、ここに流れ着いたのか。
新道は、自分が拾い上げた謎が、何か災いをもたらす者なのかもしれない。と、思い始めていた。
近所の漁師の妻から聞いた「黒い高級車」と「人相の悪い男たち」の話が、新道の頭から離れずにいた。単なる噂話と切り捨てるには、海の出現と時期が符合しすぎる。あの男たちは一体何者なのか。
そして、彼らが海と関係があるのなら、その背後には一体何があるのか。
新道は、海の穏やかな寝顔を見るたびに、その下に隠された嵐の気配を感じていた。
次の日の午後、慎之助はスクーターで海岸沿いの道をパトロールしていた。
観光シーズンも終わりかけの平日、人影はまばらだ。
カーブを曲がり、普段は釣り人くらいしか立ち入らない、小さな入り江に差し掛かった時、
岩陰に倒れている人影を見つけた。
「どうしましたか!」
慌てて駆け寄ると、金髪の若い外国人女性が足首を押さえて呻いている。
足元は不自然に腫れ上がり、岩で切ったのか、出血もみられた。
慎之助は片言の英語で話しかけるが、女は苦痛と怯えの表情で何か早口にまくし立てるだけで、言葉が通じない。
救急車を呼ぶべきか、まず診療所に連絡すべきか。
一人でどう対応すべきか、慎之助の頭は混乱し、熱血漢の勢いは空回りしていた。
その時だった。
「……怪我人か?」
背後から静かな声がした。振り返ると、散歩中だった海が、険しい表情で外国人女性の足元を凝視している。
「海さん! いや、その、言葉が通じなくて…」
狼狽する慎之助を制するように、海は「どいてくれ」と短く言うと、ためらいなく負傷者の前に膝をついた。
「どうした?」
「Я поскользнулся и у меня болят ноги. Помогите мне, пожалуйста.(足を滑らせてしまって、痛い、助けてください)」
次の瞬間、慎之助は信じられない光景を目の当たりにする。
「Всё в порядке, я сейчас тебе помогу(大丈夫だ、今助けるからな)」
そう言って海はまず、出血している傷口を自分の着ているジャージの袖で強く圧迫した。
次に、腫れあがった足首を慎重に触診し、骨折の可能性を判断する2と、すぐさま辺りを見回した。
「巡査、そのスクーターの荷台にある観光パンフレットを数冊と、君のハンカチを貸してくれ」
その口調は、記憶を失った男のものとは思えないほど、冷静で断定的だった。
有無を言わせぬ気迫に押され、慎之助は言われるがままに物を手渡す。
海は硬い表紙のパンフレットを二冊、足首を挟むようにあてがうと、
それを副木代わりにして、破いた自分のジャージの裾と慎之助のハンカチを使い、
見事な手際で固定してしまった。
その一連の動きは、まるで熟練の救急隊員か、あるいは野戦病院の軍医のように、淀みがなく、完璧だった。
「これでいい。動かすな。あとは専門家に任せろ」
処置を終えた海は、自分の手のひらを見つめて呆然と呟いた。
「……なぜ、俺はこんなことが……」
自分が今しがた行った行為が、信じられないといった様子で、海は混乱した表情で立ち尽くす。
一方、慎之助はその完璧すぎる応急処置を目の当たりにし、ただただ、圧倒されていた。
この男は、ただの記憶喪失の一般人ではない。身体が覚えているほどの、特殊な訓練を受けた人間だ。
一体、何者なんだ…?
慎之助が我に返り、改めて外国人女性の顔を見ると、彼女は海の処置に安堵していた。
結局、ロシア人観光客は幸いにも軽傷で、崖の上で景色に見とれて足を滑らせただけの、
単なる事故だったことが判明した。
彼女は海の完璧な応急処置に何度も感謝し、町を去っていった。
しかし、診療所に残された者たちの心には、穏やかではない波紋が広がっていた。
「信じられません。まるで医療従事者のような手際でした。それも、救急救命の…」
処置室の片づけをしながら、美園が感嘆と戸惑いの入り混じった声で呟く。
「語学もだ。俺だってロシア語は挨拶くらいしかわからん」
新道は腕を組み、難しい顔で唸った。
当の本人である海は、まるで自分の身体が自分のものではないかのように、ただ呆然と椅子に座り込んでいる。
先ほどの記憶がフラッシュバックするのか、時折こめかみを押さえていた。
「俺は……一体、何をしていたんだ……?」
その絞り出すような声に、誰もかける言葉が見つからない。
そこへ、息巻いた慎之助が割って入る。
「先生! やはりこの人はただ者じゃありません!俺が本庁に掛け合って、身元を徹底的に…」
「落ち着け、栄巡査」
新道は熱くなる慎之助を冷静に制した。
「今の彼に、外からの刺激は強すぎる。本人が一番、自分自身に怯えているんだ。今はそっとしておくのが最善だ」
その言葉に、慎之助はやるせないといった表情で唇を噛んだ。
その日の夜。
新道と美園は、なじみの居酒屋「浜ちゃん」の暖簾をくぐった。
カウンターと座敷二つだけの小さな店で、二人はいつもここで夕食を済ませるのが常だった。
「先生、海さん、大丈夫でしょうか。かなり思い詰めたご様子でしたけど…」
美園が心配そうに切り出す。
「ああ。記憶と身体がちぐはぐな状態なんだろう。無理もない」
熱燗をちびりとやりながら、新道はため息をついた。
その時、がらりと店の戸が開き、気まずそうな顔をした慎之助が入ってきた。
「あ、あれ?先生に美園さんも!いやあ、奇遇ですねえ!俺も非番で一杯やろうかと!」
そのわざとらしいほどの偶然に、新道はジロリと彼を見た。
「そうか。積丹は狭いな」
「は、ははは…」
乾いた笑いを浮かべる慎之助に、美園が
「栄さんもどうぞ」
と隣の席を促すと、彼は待ってましたとばかりに腰を下ろした。
「それにしても、今日の海さんの応急処置は見事でした!」
ビールを一口飲むなり、慎之助は再び熱弁をふるい始める。
「あの能力は絶対に普通じゃない。俺は、この町の平和を守るためにも、彼の正体を突き止めなければならないと思うんです!」
その真っすぐすぎる正義感に、新道は呆れたように、しかしどこか面白そうに呟いた。
「まあ、焦るな。彼が何かを思い出すのが先か、あるいは……厄介ごとの方が、向こうからこの静かな町にやってくるのが先か。見ものだな」
新道の意味深な言葉に、美園は不安そうな顔で眉をひそめる。
三者三様の思いが交錯する中、カウンターの隅に置かれたテレビが、淡々と夜のニュースを伝えていた。
画面には、収賄疑惑で追及される大物政治家の苦々しい顔が映し出されている。
『……厚生労働副大臣、武藤俊之氏をめぐる大規模な贈収賄疑惑です。武藤副大臣は、新薬の承認プロセスに不当な圧力をかけ、特定の製薬会社に便宜を図る見返りに、多額の裏金を受け取っていた疑いが持たれています…..』
画面には、記者団に囲まれながら「事実無根だ」と声を荒らげる武藤副大臣の姿が映る。
ありふれた東京の政局ニュース。誰も気にも留めない。のどかな夜のひと時だった。
その数日後、診療所はいつもの穏やかな日常を取り戻していた。
海の身体はすっかり回復したが、記憶だけは依然として戻らない。
彼は時折、遠い目をして何かを思い出そうとしては、頭痛に顔をしかめることを繰り返していた。
その様子に、新道も美園も、今はただ静かに見守るしかないと考えていた。
その日の午後、診療所のドアが勢いよく開いた。
「先生! 大変だよ!」
血相を変えて飛び込んできたのは、先日「黒い車」の話をしていったおばちゃんだった。
「どうしました、落ち着いて」
新道が促すと、おばちゃんは興奮気味にまくし立てた。
「また見たんだよ! あの黒い車! さっき、港から少し離れた展望台の駐車場に停まってたんだ!」
その言葉に、新道と、話を聞いていた美園、そして偶然その場にいた慎之助の顔色が変わった。
「本当ですか!?」
慎之助が身を乗り出す。
「本当だってば! 亭主に聞いたとうり真っ黒でピカピカの、いかにも高そうな車だよ。中にはやっぱり、人相の悪い男たちが乗っててね。こっちをジロジロ見るから、怖くてすぐ引き返してきたんだよ」
おばちゃんは、まるで物の怪でも見たかのように身を震わせた。
「先生、あれは絶対ただの観光客じゃないよ。何か良からぬことを企んでるに違いない。」
「すぐ確認に行きます!」
慎之助は言うが早いか、診療所を飛び出していった。
しかし、彼が展望台に着いた頃には、すでに黒い車は跡形もなく消えていた。
ただ、タイヤの跡だけが生々しく残っているだけだった。
診療所には、重く、気まずい沈黙が流れていた。
その男たちは、明らかに何かを、あるいは誰かを探している。
そして、その対象が海である可能性は非常に高い。
彼は思い出せない。自分が誰なのか。
見えない敵の存在が、すぐそこまで迫っている。
新道は、窓の外に広がる穏やかな積丹の海を見つめた。
「どうやら、厄介ごとの方が、向こうからご丁寧にも挨拶に来てくれたらしいな」
黒い車が再び目撃された日を境に、新道診療所には目に見えない緊張が張り詰めていた。
新道は海に、しばらくは診療所の敷地から出ないようにと告げた、
海自身も本能的な危険を察知しているのか、黙ってそれに従った。
慎之助はパトロールを強化し、不審な車や人物がいないか、これまで以上に目を光らせていた。
数日が過ぎ、何事も起こらないことに少しだけ空気が緩み始めた、風の強い日の午後だった。
海は、息苦しさに耐えかねて、診療所の裏手にある小さな庭に出て外の空気を吸っていた。
そこは道路からは死角になっており、新道もここなら大丈夫だろうと考えていた。
その時だった。
ガサリ、と生垣が大きく揺れた。
海が振り返るより早く、黒いスーツを着た二人の男が、まるで獣のように飛び出してきた。
その手には、鈍い光を放つナイフが握られている。
「ようやく見つけたぞ」
男たちの目は、獲物を見つけた肉食獣のように、冷たく、感情がなかった。
海の脳が危険信号を発するが、記憶のない彼には、なぜ自分が狙われるのか理解できない。
ただ、圧倒的な暴力の気配に、体が凍り付く。
一人の男が振り上げた、その瞬間。
「何やってる!!警察だ!」
野太い声が響き渡り、二人の男と海の間に、制服姿の慎之助が立ちはだかった。
彼は巡回ルートをあえて変更し、診療所の見回りに来ていたのだ。
その手には、警棒が固く握られている。
「公務執行妨害で現行犯逮捕する!」
慎之助の言葉に、男たちは一瞬怯んだ。しかし、すぐに嘲笑うような表情を浮かべる。
「なんだ、田舎の駐在さんか。邪魔すんじゃねえよ」
一人が慎之助に殴りかかり、もう一人が再び海に狙いを定める。
慎之助は、普段のどこか頼りない姿が嘘のように、鋭い動きで男の攻撃をかわし、
警棒で腕を打ち据えた。柔道の有段者である彼の動きは、決して素人相手に引けを取るものではない。
しかし、相手は二人。しかも、その動きは修羅場をくぐり抜けてきた者のそれだった。
慎之助が一人と格闘している隙に、もう一人の男が海の胸ぐらを掴み上げた。
「おとなしくしろ!」
海は抵抗しようとするが、男の力は圧倒的だった。万事休すかと思われた、その時。
男が急に呻きだした、見上げると新道が立っていた。
常人ではありえないほどの俊敏さで男の腕を捻り上げる。
それは、美しいまでに洗練された関節技だった。
「ぐあっ!」
苦痛の声を上げ、腕を押さえて後ずさる。
予期せぬ反撃に、二人の男は明らかに動揺した。
そして、慎之助が一人を地面に投げ飛ばしたのを見て、形勢が不利だと判断したのだろう。
舌打ちを一つすると、負傷した仲間を抱えるようにして生垣を乗り越え、黒い車に飛び乗り、猛スピードで走り去っていった。
「待て! こら!」
慎之助の制止の声も虚しく、車はあっという間に見えなくなった。
新道と息を切らす慎之助、呆然と立ち尽くす海だった。
「大丈夫か、海さん」
新道が問いかける「彼らに見覚えは?」
慎之助が尋ねる。
しかし、海は答えない。いや、答えられない。
黒い車の男たちは、確かに海を狙って現れた。
そして、海は何故狙われているのか。
この日を境に、すべては変わってしまった。これはもはや、ただの「保護」や「捜査」ではない。
命をかけた「戦い」なのだということを、新道を含めた三人は、痛いほど理解させられることになった。積丹の穏やかな海は、血の匂いをはらんだ嵐の前の静けさに包まれていた。




