プロローグ
いつものように、新道は夜明け前の薄闇の中、愛用の釣り竿を岩場に立てていた。
積丹ブルーと称される美しい海も、この時間は深い藍色に沈黙している。
霧が濃く、打ち寄せる波の音だけが辺りを支配していた。その日、狙いはマガレイだった。
ふと、波間に見慣れない漂流物があることに気づく。
(…流木か、あるいは不法投棄されたゴミか)
しかし、それは時折、人の形のように見える。
気になって懐中電灯で照らすと、暗い水面に浮かぶスーツ姿の人間であることがわかった。
迷わず、冷静に119番通報し、救助を要請した、同時に警察にも、と。
危険を承知で、自らも岩場を慎重に下り、波打ち際へ近づく。
幸い、男は岩の間に挟まるような形で打ち上げられていた。
引き上げた男は、まだ若く見えたが、顔色が悪くぐったりとしている。
呼吸は弱く、脈もかろうじて触れる程度。すぐに胸骨圧迫を開始する。
都会の救急救命の現場で培った経験が、無意識に体を動かしていた。
冷え切った体を保温するため、自分の着ていた防寒着を脱いで男にかける。
しばらくして、パトカーの回転灯が霧を切り裂いて近づいてきた。
現れたのは顔なじみの栄巡査だった。
新道は状況を簡潔に説明し、救急車の到着を待つ間、栄と共に男の状態を見守る。
栄は男の衣服を調べるが、財布や身分を証明するものは何も見つからない。
やがて到着した救急隊に新道は的確な指示を出し、男を自分の診療所に搬送するよう告げる。
「このまま大きな病院に運ぶより、ここで初期治療を優先した方がいい」
その判断に、救急隊員も頷いた。
所持品も、身元を示すものも何一つない。一体、この男は誰なのか。
なぜ、こんな場所で流されていたのか。
新道は、男の顔を見つめながら、大きな謎の渦に、巻き込まれてしまったことを、予感するのだった。




