目の下の瘤(二)
その後のことはよく覚えていません。ただ生きた心地がせず、体を細かく震わせながら待合室の椅子に座っていました。
それから先に男性の名前が呼ばれ、彼が診察室に入っていきました。そしてすぐに僕の名前が呼ばれ、僕は受付の女性から目薬の入った袋を受け取ると会計を済ませて眼科を出ました。
空には赤みが差していて、眼科の建物全体もどこか禍々しい雰囲気に包まれているように感じました。入り口を出たところで振り返ってみると、自動ドアのガラス越しに受付の女性が見えました。やはり俯いて、何かを一心不乱に書き込んでいます。僕は怖くなって早足で駐車場まで戻ると、原付のエンジンをかけて一目散に家まで帰りました。
途中、あの女性や医者が追いかけてきているような気がして何度も後ろを振り返りましたが、特にそういった事はなく無事に家までたどり着くことが出来ました。
家に帰り着いた僕はすぐさまバイト先に電話をかけ、体調が悪いので明日は休ませて欲しいと伝えました。せめて夕方からのシフトに出てきて欲しいと店長には言われましたが、午前中が空くのなら問題ありませんでした。
そして次の日、朝一番で僕は家から三十分の所にある、元々行くつもりだった眼科へと向かいました。日曜日とあってとても混雑していましたが、時間が早かったせいか三十分ぐらいの待ち時間で済みました。
医者は五十代くらいの男性でしたが、僕の目を見るなり「うわ」と顔をしかめました。
「結構大きいね……。最初に気付いたのはいつだった?」
「一週間ちょっと前です……」
「一週間ちょっとか……。うーん、もう少し早めに来て欲しかったけど……」と言って医者は小型のライトを手に持って僕の目の下を調べ始めました。
しばらくすると今度は瞳孔を開くという目薬を差し、脇に置いてあった大きな機械を引き寄せました。
「そこに顎とおでこを合わせて」
僕は言われたとおり顎とおでこを当て、レンズを覗き込みました。
「眩しいけど我慢してね」という言葉と共に僕の目に強い光が当たりました。その状態でしばらく、途中発熱など他の症状について質問を交えつつ医者は瘤を観察していました。
「なるほど……」
一通り診察を終えて、医者は唸りました。僕の脳裏には昨日見た男性の震える瘤を思い出して背筋が冷たくなりましたが、医者は「うん」と納得して様に呟くと言いました。
「大きすぎるのがちょっと気になるけど、取りあえず大丈夫だと思う。おそらく傷口や汗腺なんかから細菌が入って感染症を起こしたっていう所かな」
それを聞いて僕の心は少し軽くなりました。
「腫れを抑える薬と抗菌薬、二つ目薬を出しておくから、抗菌薬は朝昼晩、一日三回必ず差して貰って、腫れを抑えるのは一日一回でいいよ」
「はい」
「で、次なんだけど、そうだな……。三日後にまた来れる?」
三日後は水曜日なので普通に大学がありましたが、水曜日の午後は講義を入れていないので問題ありませんでした。
「はい、大丈夫です」
「なら三日後にまた来て下さい。そこでもう一度様子を見ましょう」
「分かりました。ありがとうございます」
「はい、お大事に」
家に帰って、僕は早速目薬を差してみました。今度の眼科は特におかしな所はない普通の眼科でしたが、さすがに目薬を差すのは躊躇しました。ですが実際差してみると特に変わったところはない、普通の目薬でした。
面倒くさがりで忘れっぽい僕ですが、その時ばかりは毎日欠かさず目薬を差しました。
そして三日後、僕は再び眼科に行きました。平日でしたが院内はそこそこ人がいて、受付の女性は忙しそうに対応していました。
四十分ほど待ってから僕は診察室に入りました。すると医者は僕の顔を見るなり「あれ?」と驚いた顔をしました。
「結構良くなってるね。薬がちゃんと効いたみたいだ」
「そうですか?」と言いつつ、僕はこう言われることも内心では予想していました。薬を使い続けて三日、不安だった僕はことあるごとに鏡を確認していましたが、これまでのことが嘘のように目の下の瘤は日に日に小さくなっていたからです。
「まあ取りあえず今日も詳しく見ていくから」
そう言って医者はライトを手に取りました。そこからは前回と同じように瞳孔を開くという目薬を差し、機械でより詳しく診察されましたが、前回とは違いその時間はとても短いものでした。
「うん、やっぱりだいぶ良くなってるね。この前渡した目薬はまだ残ってるよね?」
「はい」
「じゃあこのまま今の目薬を使い続けて貰って、一週間後にまた来て下さい」
「分かりました」
そこから一週間、僕は毎日欠かさず目薬を使い続けました。そして日ごとに瘤は小さくなっていき、一週間後また眼科へ行く頃にはもうじっくり観察しなければ分からない程度のものになっていました。
一通り診察を終えると、医者は安心した表情で笑いました。
「いやーよかったよかった。最初見たときはびっくりしたけど、もう大丈夫そうだね」
それを聞いて僕もホッと胸をなで下ろしました。
ですがそこでふと、あの男性の膨らんだ瘤を思い出しました。あの男性の瘤も、おそらくは僕と同じものであったはずです。だとしたら僕もあんな風になるかも知れなかったのか、そもそもこの瘤は何なのか。僕は知りたくないと思いながらも、どうしても気になって医者に尋ねてみました。
「あの、結局この瘤は何だったんでしょう?」
すると医者は急に真面目な顔になりました。
「最初に見たときも言ったけど、おそらく傷口や汗腺から細菌が入り込んで出来たものだと思うんだけど…………それにしてはちょっと大きすぎたんだ」
「はぁ……」
「それこそ、寄生虫でも入り込んだのかってぐらいね」
寄生虫、その言葉を聞いて僕の心臓が氷つきました。あの薄暗い待合室で見た男性の瘤。その中にいた何か。実際あれが本当に見えていたことなのかは分かりません。大きくなっていたとは言えそんなにはっきり見えるものなのかという疑問もありますし、不信感が見せた幻覚だったという可能性もあります。
ただ、あの影井眼科が普通ではなかったことは確かでした。
「でも、見たところ抗菌薬で治ってるから大丈夫だと思うよ。それに下瞼に寄生虫が入り込んで瘤が出来たなんて症例、聞いたことがないしね」
「そう……ですか」
きっと僕の瘤は、医者の言うとおり普通の感染症だったんだろうと僕はそう納得することにしました。
「で、次なんだけど……。今日は抗菌薬だけ出しておくから、それをなくなるまで使って、それで特に問題がなさそうならもう通わなくていいよ。もしそれでもまだ瘤が消えなかったり、違和感があったりしたらその時はまた来て下さい」
「はい、ありがとうございました」
「はい、お大事に」
診察室を出て、僕は待合室の椅子に座りました。待合室にはお年寄りや親子など何人かの人が座って天井につり下がったテレビを眺めていました。そんな当たり前の待合室を見て、影井眼科がいかに異常だったかがよく分かりました。
(こんなことなら最初からこっちの眼科に来ればよかったな……)
僕はそう思いました。
それからも僕は毎日処方された目薬を使い続けました。そうして一週間もすると瘤は綺麗になくなり、僕の目は元の状態に戻りました。しかし何となく不安だった僕はその後も薬が切れるまで使い続けました。
そんなある日、母が僕の顔を見て言いました。
「目、良くなったね。最初は中々良くなってないから心配したわよ。薬があってないんじゃないかって」
「あー、どうも最初に行った眼科が良くなかったみたいで」
僕がそう言うと、母は不思議そうに首をかしげました。
「最初に行ったとこって、昔目の横を怪我した時に行ったあそこじゃないの?」
「途中で変えたんだ。最初に行ってたのは近くの影井眼科ってとこ」
すると母はゆっくりと口を開きました。
「それ……どこ?」
「…………え?」
僕は焦って詳しい説明をしました。
「ほら、ここから十分ぐらいのとこにあるコンビニの隣の……!」
「ああ、あのコンビニね。でもあそこの隣って眼科になってたかしら?」
「嘘だろ……そんなこと……!?」
僕は慌てて自分の部屋に戻り財布を確認しました。
「…………ない」
保険証と一緒に財布のポケットに入れていたあの診察券がなくなっていました。最後に影井眼科に行ったとき、恐怖で意識が朦朧としていましたが、確かに仕舞ったはずでした。
そこで僕ははっとして、急いでヘルメットと鍵を掴むと家を出ました。そして原付を飛ばして例の場所まで向かいました。
しかしそこにあったのは、『らーめん』と書かれたボロボロの幟と色褪せた暖簾だけ。紛れもなく、廃墟となったラーメン屋でした。抜け殻のようなその建物は、夕日に照らされて言いようのない寂しさを醸し出していました。
「まじかよ……」
僕の手はかすかに震えていました。血の気が引き、夕方の生ぬるい風がやけにひんやりと感じました。
そこで僕は隣のコンビニにいる店員なら何か知っているかも知れないと思い、すぐさま原付を駐車して駆け込みました。
「いらっしゃいませー」という声と共に、クーラーの冷気が僕の体を包み込みました。店内には客の姿がなく、女子高生くらいのアルバイト店員が退屈そうにレジに立っていました。僕は早足でその店員のもとまで歩いて行きました。
「あの……すいません」
「はい?」
「この店の隣に影井眼科っていう眼科がありませんでした?」
僕がそう尋ねると、店員は怪訝な表情を浮かべました。
「いえ……ありませんけど……?」
店員は、何を言っているのか分からないという風に答えました。
「じゃあ何か病院が建っていた、何てことは?」
「さあ?よく分かりません」
重ねて僕が尋ねると、店員はムッとしてそう答えました。当然です。いきなりやって来て、そんな見れば分かるようなことを尋ねられたら誰だって困惑するでしょう。でも僕にはとても信じられませんでした。何よりも自分の目が信じられなかったです。だって数週間前にそのコンビニの隣にあった眼科に通っていたのですから。
僕と店員が互いにどうしたらいいか分からずまごついていると、店の奥から「何かあった?」と頭髪の薄い中年男性が出てきました。
「店長」
店員の女の子はそう言うと、チラリと僕の顔を見ました。すると店長と呼ばれたその男性は僕の方を見て「何かありましたでしょうか?」と尋ねました。
「あ、その……。隣の建物について聞きたいんですけど……」
僕がそう言うと店長は「隣?」と不思議そうな顔をしました。
「隣は見ての通り廃墟ですけど……」
ここまではさっき店員とした流れと同じだったので、僕はもう少し詳しく聞いてみることにしました。
「あれ、何年前から廃墟になったか分かりますか?」
「ああ、あれね。ちょうど二年前かな?あそこは駐車場の場所が悪くて何をやっても長続きしなかったんですよ。それであのラーメン屋のご主人も張り切ってたんですけど、結局半年も持たなくて……。店をたたみますって僕の所に報告しに来たのがちょうど二年前の今頃で、その後はずっと廃墟のままですね」
店長が嘘をついているなんてことはないでしょう。ということはつまり、僕が訪れた影井眼科は存在しなかったということになります。ですが僕はどうしてもその事実を受け入れることが出来ず、もう一度質問をしました。
「ちなみに、それより前に病院か何かが建っていたってことは……?」
「病院?聞いたことないですね……」
店長の答えは予想していたとおりのものでした。
「あ、でもこの間変なことがあったんですよ」
「変なこと?」
僕の心臓がドクンと大きく脈打ちました。聞いてはならない、そう警告しているようにも感じましたが、聞かないわけにはいきませんでした。
「一週間ぐらい前かな……、その日は風が強くて。店の外のゴミ箱が倒れてるってお客さんに言われて片付けに行ったんですよ。そしたらそのラーメン屋の廃墟に誰かが入ろうとしてて。夕方だったから薄暗くてよく見えなかったんだけど、ちょうどお客さんと同じくらいの背格好だったと思います」
店長は僕を差して言いました。
「それで僕は、そこは立ち入り禁止だぞーって声をかけたんだけど…………そしたらその人がゆっくりこっちの方を向いて、光る目で僕をじぃっと見て…………。それでスウッとその廃墟の中に入っていたんですよ。僕、もう怖くて怖くて!」
廃墟に入っていった、僕と同じくらいの背格好の人。僕はもうその時には病院を変えていて、瘤もほぼなくなっていたのでこの辺りには来ていませんでした。ということはその廃墟に入っていった人はあの男性でしょう。
(まだ通院していた……ってことなのか……)
僕は背筋が寒くなるのを感じました。
「それでその後ミキちゃんに今日は夜勤に付き合ってくれって言ったらゴミを見るような目で見られたんですよね」
店長がそう言うと、きっとその時もそんな顔をしていたのでしょう。ミキという名前らしいその店員はまさしくゴミを見るような目で店長を睨んでいた。
「当たり前です。それセクハラですよ?」
「だって本当に怖かったんだから!目なんて三つもあって……」
店長が最後に呟いた言葉に僕の体がビクリと反応しました。
「目が三つあったんですか?」
僕が尋ねると、横から店員が「どうせ嘘ですよ」と口を挟みました。しかし店長は「嘘じゃないって」と首を振ってこう言いました。
「まあ目っていうか、目っぽい部分が光ってただけなんですけど、その光が三つあったんですよ。それも左右と真ん中に一つずつじゃなくて、左右と、左目の下辺りに一つ。それがまた妙に不気味でね……」
僕の脳裏に、二回目の通院で見た男性の大きな瘤が浮かびました。そしてその時、瘤の中で動いていた何か。幻覚か、見間違いか何かだと思い込んでいたものが急に現実味を帯びて僕の記憶を侵し始めました。
「思い出したらまた怖くなってきた、ミキちゃん今夜は……」「ほんとに怒りますよ?」「もう怒ってるじゃん……」「バイト辞めていいですか?」「あっそれだけはっ、シフト回らなくなっちゃうんで……」と二人は会話を続けますが、もう僕の耳には届きませんでした。
僕は店員と店長にお礼を言うと、ふらふらと店の外に出ました。夕焼け空、じめじめとした空気の中にラーメン屋の廃墟が建っています。さすがに中を調べに行く勇気はありませんでした。
僕はそのままおぼつかない足取りで原付に乗って、家まで帰りました。
それから何年か経って、僕は地元を離れて就職しました。僕が大学を卒業してすぐに例の廃墟も取り壊されて、今では三階建てのアパートが建っています。
僕はというと、あの一件以来たまに影井眼科での出来事が夢に出てくるようになり、あれから何年も経った今でもその時の出来事は鮮明に覚えています。相変わらず体は健康なままですが、その分何か違和感があればすぐに病院に行くようになりました。おかげで上司や同僚からは心配性だ健康オタクだと馬鹿にされていますが、あんな目に遭うよりは遙かにましです。
しかし、どれだけ病院に行き、健康に気をつけても漠然とした不安がいつも胸の中に燻っています。きっと僕は、これからずっとその言いようのない不安を抱えたまま生きていくことになるのでしょう。
皆さんはどうでしょうか。こんな体験、したことのない人がほとんどだと思いますが、それに限らず何か心身に不調がある時はすぐに病院に行った方がいいでしょう。そしてその時は、その病院についてよく調べてから行くことを強くオススメします。